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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

〒221-0832 横浜市神奈川区桐畑17-8

説 教

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主の変容  2023年3月19日


ルカによる福音書9章28~36節
 受難予告の8日後、主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、山に登られました。するとそこで主の御顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたといいます。そのそばには、栄光に輝くモーセとエリヤが立っていました。するとそこに雲が出てきて「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の御声が響いたといいます。
 なんとも不思議な感じのする話ですが、ここをモーセの物語、特に出エジプトとの関連を中心にして読むのがわかりやすいと思います。山、光、雲、神の御声、そしてモーセというワードから私たちが思い出すのは、モーセの十戒物語です。神以外を神としてはならない、安息日を守りなさい、姦淫してはならない、盗んではいけない、殺してはならない・・・モーセの十戒は、ある意味でユダヤ共同体の秩序を守るための法だったといえますが、同時にユダヤ人たちの命を救うための、救済的手段もあったのです。したがって、モーセの十戒は人間の守るべき義務だけでなく、そこに神様の救済行為が同時的に、と考えられます。
 こうした神と人との契約関係は、新約聖書において、キリスト・イエスによって再解釈されていきます。神はその救済行為として救い主を世に遣わし、十字架と復活の恵みをもって人々を神の国へ導かれます。一方、人間の側は御子を通じてこの救済計画に入れられたことを感謝し、信仰をもって神に従うのです。これを義務というと抵抗を感じる人もあるかもしれませんが、私は、自分が本当に滅びから救われたと信じる者であるならば、感謝をもって神信仰に生きることは、義務だと思っています。それゆえ、神の救済と人間の義務は、新約聖書においても同時的に生じることなのです。
 さて、このときペトロは感極まって、忘我状態となり、小屋を三つ建てましょう、と口走ってしまいました。彼なりに義務を果たそうと考えたのだと思います。小屋というのは出エジプトのときに建てた仮小屋のことです。そこでは礼拝をしていたといいます。すなわち、信仰を守るための場所として、教会を建てていく、ということが私たちの義務です。
 それから、出エジプトにおける小屋は、疲れた霊と肉を休める場所でもありました。わたしたちの教会は、単に礼拝する場所ではなく、月曜日から土曜日までの間に疲れて傷ついた私たちが安息する場所でもあります。説教を通じて、あるいは讃美歌を通じて、聖餐や信徒同士の交わりを通じて、わたしたちはこの場所で神の癒しを受けます。そういう意味でも教会を建て、一人でも多くの疲れた者、重荷を負う者をこの場所へとお連れしたいと思います。
 このように、新しい契約に生きる者は、神の愛とキリストの救いを信じる信仰を大切に守り、礼拝する場所、安息する場所として教会を大きく、強めていく業に励みたいと思います。そしてこの業は、つまり地上の教会を建設する業は、御国を建設することでもあります。これもまた信仰者の大きな責任の一つです。この教会を通じて、神の国の恵み、愛、豊かさを知る人が一人でも増えることを願っています。(2023年3月19日礼拝説教要旨)

     

自分を明け渡すとき  2023年3月12日


ルカによる福音書9章21~27節
 受難節の中ほどを歩んでおります。この時期の礼拝でよく読まれるのが今日の聖書です。いわゆる受難予告と呼ばれるところで、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、参日目に復活することになっている」とありました。人の罪と悪意の中で主の十字架が進んでいくことは、我々自身の罪とキリストの十字架が不可分に結びついていることを示すものです。
 続いて、主はこのようなことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。上記の受難予告から続くことを考えると、生死をかけて従う、くらいの意味にとってもよいと思います。こんなことを申しますと、そんな大げさな、あまりハードルを上げないで下さいよ、を思われるかもしれません。しかし、このメッセージを受け取った弟子たちは実際そのように生きました。使徒パウロもその一人です。彼らにとってキリストに従うことは、キリストと共に磔にされることでした。自分を捨てて、捨てた自分の代わりに十字架を背負って、死に至るまでキリストに従い続けたのでした。
 生死をかけてキリストに従う、ということは、伝道や殉教といったことだけでなく、病や老いについても言えることです。死の直前に洗礼を授けた方々を思い出します。いよいよというとき、どのようなお気持ちだったのかを知ることはできませんが、多くの人は死への恐怖よりも、永遠の命に対する安らぎをもって召されていきました。それは生死をかけた信仰といってよいと思うのです。
 あるいは、キリストと同じように世から攻撃されたり、差別されたような経験を持つ人は、命がけでキリストを信じることを経験するかもしれません。そうした人は、ご飯も食べて、人と話をして、仕事をして、家族と普通に生きていても、内的な死に向かっているのです。彼らは霊的に十字架に磔にされています。そのような人が教会でキリストを信じることは、決して大げさではなく、まさに命がけの信仰に生きているのです
 そのようなとき「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という御言葉が輝いて見えてきます。「自分を捨てる」とは自己の放棄ではなく、自分を神に明け渡しす自己解放を意味します。神本位の生き方への促しなのです。「自分が自分が」という思いにとらわれている間は、大変苦しいです。そこでもし、これを神様に明け渡してしまおう、わたしのすべてを神様にお委ねしよう、という思いになるならば、その人の生き方や人生の捉え方は大きく変わってくると思うのです。
 自分が抱えてきたものの一切を神にお委ねすることができるならば、そこにスペースが生まれます。そこで担うべき十字架が見えてくると思うのです。それは伝道に励むことなのか、教会に通うことなのか、平和や差別のために立ち上がることなのかわかりませんが、目的はたった一つ、神の栄光のためにです。キリストはそれを「日々」背負いなさい、といわれました。毎日の生活の中で、キリストの十字架を意識し、神の栄光のために追うべきものがあるはず、という思いを持ちたいと思います。(2023年3月12日礼拝説教要旨)

神の指で悪霊を追い出す  2023年3月5日


ルカによる福音書11章14~23節
 今日の聖書は、いわゆるベルゼブル論争と呼ばれる箇所です。悪霊を追い出された人を見て、ある人々が「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出しているのだ」と、主の聖性を疑ったという話です。今日はその部分ではなく、主が言われた「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」という御言葉に注目したいと思います。昔神学校の教授があるときにこういわれました。「わたしのイメージでは、神の御手は大きく、ごつごつしている」。私はその説教を聞いて、新鮮な気持ちを覚えました。神はこの世界を無から創造され、ノアの箱舟や、出エジプト、バビロン捕囚からの解放、そしてキリストの十字架の救いを形になさいました。その御手は、大きく、ごつごつしているといわれれば、妙に納得できるところがありました。今日は手ではなく指の話ですが、やはり神の指というのも、大いなる力を感じます。
 一方、指というのは非常に神経が鋭敏で、かつ繊細な働きをする部位です。ここで、悪霊に取りつかれた男の内面を考える必要があります。悪霊に取りつかれた男というのは、新約聖書に何か所か登場しますが、脚を鎖でつながれていたり、半分裸であったり、墓場に住むしかなくなったり、ほとんど人間扱いされていません。彼ら悪霊に取りつかれた人は、とても恐ろしい、手に負えない凶暴な人間、心がなくなってしまった存在だと感じます。しかしもし仮に、彼が悪霊に取りつかれていても、人間性そのものを保っていたとしたらどうでしょうか。
 脳に障害があり、生まれつきうまく話せない、うまく体を動かせないある障害者が、若い医者に話しかけられました。まるで赤ちゃんに話すような仕方だったといいます。その患者は、知性も理性も一般の人と何も変わらないのに、まるでそれらが最初からない人間のように扱われ、とても残念だった、といっています。(脳に問題を抱える人と悪霊に取りつかれた人はイコールではありません。内面を考えるための例として取り上げました)。
 今日の悪霊に取りつかれた男も、周囲からの心ない差別的振る舞いに、深く傷ついていたかもしれません。彼の荒れ狂った姿というのは、そういうやるせない気持ちから発せられていたかもしれないのです。そのように深く傷ついた内面を癒すことが出来るのは、神の力強く、鋭敏で、繊細な指しかないのです。この指が彼の内面の奥深くまで届き、熱い神の愛を注ぎ込み、そして彼の中に巣食っていた悪しき部分を駆逐したのです。
 主イエスよるこの癒しは、今日の悪霊に取りつかれた男だけに生じる限定的なものでしょうか。思うように生きられない私たち、うまく自分のことを話せない私たち、願うように行動できない私たち、誰かを攻撃し、傷つけてしまう私たち、そして反対に、心ない言葉や行動で、人から深く傷つけられた私たち。誰もがこの悪霊に取りつかれた男のような境遇を経験するのではないでしょうか。そのときに私たちは不思議な経験をするのです。すなわち、キリストを通じてわたしたちの内面に神の力強く、繊細な指が働いて、心の最も深い所が癒され、澄んで清らかな場所になり、悪が駆逐されていくのです。主の力と愛に満ちた指が、私たちの中に届いていることを信じましょう。(2023年3月5日礼拝説教要旨)

火の中、水の中を通って  2023年2月26日


 詩編66編5~12節
 劇作家にして歴史家、思想家として有名な山崎正和さんという人がいます。山崎氏は歴史というのは二週類ある、といいます。一つは「認識として歴史」もう一つは「伝統としての歴史」。「認識としての歴史」とは、認識、解釈を必要とする歴史です。たとえば広島、長崎の原爆投下について、日本の歴史認識とアメリカのそれとでは天と地ほど違います。一方、「伝統としての歴史」は生まれながらにして持っている意識、帰属する団体に普遍的に定着した歴史のことで、認識を必要としません。アメリカに連れてこられた黒人たちの担ってきた苦しみの歴史は、まぎれもなく「伝統としての歴史」です。
これを聖書の話で考えてみると、出エジプトは伝統としての歴史だと言えます。おじいちゃん、おばあちゃんから小さな孫にいたるまで、出エジプトの話を知らない人はいません。ユダヤ人たちの共通の記憶、伝統としての歴史そのものなのです。一方、新約聖書のキリストの十字架と復活は「認識としての歴史」です。この出来事をどう認識するかで、その者の歴史、共同体の歴史が大きく左右されるからです。
さて、今日の聖書を読みつつ出エジプトを今一度考えるならば、我々はそこに三つのポイントがあると気が付きます。一つ目は神の愛と力の大きさです。「神は海を変えて乾いた地とされた 人は大河であったところを歩いて渡った」(1節、2節)。海が二つに割れて、乾いた海の底をユダヤ人たちが渡り、その後追手のエジプト軍が来ると水が元に戻って彼らは溺れ、ユダヤ人たちが救われた、という葦の海の奇蹟です。ユダヤ人たちにとってこれは単なるおとぎ話ではなく、自分の存在を裏付ける物語です。
出エジプトが教えることの二つ目は、共同体の結束です。その旅の始まりから終わりまで、ユダヤ人たちは常に一つでした。彼らは民族全体でこの出来事を思い出し、祭りとしてお祝いします。それがいわゆる過ぎ越しの祭りです。これが我々の礼拝や聖餐式にも結び付いています。我々は礼拝をし、共に神に献金をささげます。そして聖餐を受けることで信仰共同体として強められていくのです。
出エジプトが我々に教える三つ目のことは、苦難の追体験です。今日の12節で「我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して 豊かなところに置かれた」とありました。火のような試練、もう溺れるかという海の底を通って、我々は救われたというのです。ユダヤ人たちは、いつのときも出エジプトの出来事を実生活で追体験していました。どんなに辛いときも火の中、水の中を通って救われた先達のように我々も必ず救われる、との信仰に立って歩み続けたのです。
神奈川教会は長い歴史の中で、関東大震災、太平洋戦争という二度の炎を経験しました。しかしこの炎の中を通り過ぎて、我々は共同体の歴史をつなぐことができました。これぞまさに共通の記憶です。この歴史を持つからこそ、我々は強められ、一つになれるのです。我々は出エジプトを、今歩んでいるのです。いつかヨルダン川を渡り、約束の地に入るときが必ず来ます。その日を信じて歩み続けたいと思います。(2023年2月26日礼拝説教要旨)

    

しかない、からの脱却  2023年2月19日


ルカによる福音書9章10~17節
 今日は、いわゆる5000人の共食についての御言葉を読みました。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネすべての福音書に記録されており、おそらくは当時の人々の記憶に深く刻まれた、もはや事件ともいうべき内容だったのではないかと思います。
 聖書の記事によりますと、5000人もの群衆が主の御言葉を聞くために、また癒していただくために集まっていた、とあります。5000人という数は、成人男性だけですので、女性や子どもを入れるとその倍くらいは集まっていたのではないかと思います。
 しばらくすると、日が傾きかけたので、弟子たちは「群衆を解散させてください」と主イエスに言いました。近くには宿もなく、食事を摂る場所もないからです。
 ここで主イエスは、不思議なことを言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。弟子たちはこの御言葉を聞いて、少しポカーンとしたのではないでしょうか。後で触れますが、彼らにはわずかな食糧しかなく、お金もなく、お店も近くにありません。要するに「あなたがたが彼らに食べ物を与えよ」という主のご命令は、まるで実行不可能なことのです。
 しかし、このご命令には明確な意味があります。後の弟子たちが伝道で行き詰った時のある種のリハーサルです。伝道というのは、霊と肉の力を失って癒しを求めている、そういう今日のような人たちに、神の命を分け与える働きです。のちの弟子たちが、その伝道において行き詰まり、うまくいかなくなった時、今日の出来事を思い出すためです。教会が窮乏状態になったとき、弟子たちはかつて同じようなことがあったな、ということを思い出したはずです。
今日の話の中で、弟子たちは「5つのパンと二匹の魚しかありません」と否定的でした。けれども「しかない」という否定的な情況からものを考えるのではなく、パンが5つもある、魚が2匹もある、と「主に在る肯定」を考えるところから、新しい風景が見えてくるのです。この「しかない」を「もある」に逆転させるのは主イエスという存在に他なりません。したがって、我々がしかない、できない、と否定的状況に陥った時、最も大切なことは「ここに主がおられる」という認識と「主が必要を満たしてくださる」という信仰です。
 今日の話では、パンと魚は主イエスの手元から分配されています。すなわち命の糧の提供者は主イエスです。しかし主イエスと人々との間に入って、その大事な神の命を直接手渡すのは、弟子たち、すなわち教会の役割です。したがって、教会の働きが行き詰ったとしても、主が大事なものは用意してくださる、という信頼をもって、伝道の業に励みたいと思うのです。
 今日の二匹の魚、五つのパンのことを、我々の健康や、残された時間として考えることも可能です。「〇〇しかない」と否定的になるのではなく、主はすべての存在を肯定し、満たしてくださる方なのです。「まだ残されているものはたくさんあるじゃないか」「時間もまだまだあるじゃないか」と肯定的に自分をとらえなおし、喜んで主に仕える者になりたいと思います。
(2023年2月19日礼拝説教要旨)

      

苦しみを取り除かれる主  2023年2月12日


ルカによる福音書5章12~19節
 今日の聖書には、重い皮膚病にかかった人の話が出てきます。ご承知のこととは思いますが、念のために申し上げると、この重い皮膚病は、かつてはハンセン病のことを意味していると思われていましたが、聖書的研究によってそれは誤りで、ハンセン病を含む重篤な皮膚疾患全体のことである、という理解になりました。したがって、聖書に出てくる重い皮膚病とハンセン病は関係がないのですが、両者は共通する部分もあります。それは、周囲から受ける露骨な差別や社会から排除される苦しみです。
 レビ記には、重い皮膚病にかかった者は一定期間社会から隔絶され、よくなるまで誰とも接触できません。さらに人とすれ違う時には「わたしは汚れた者です」と連呼せねばなりません。仮に病気がよくならなければ、彼らは一生共同体の外で苦しみながら生きるほかありません。
日本のハンセン病政策も、罹患者を社会から隔離することを基本としていました。らい予防法および優生保護法により、ハンセン病になった者はほぼ強制的に隔離されました。ところが驚くべきことに、中には自ら進んで隔離施設に逃げ込む人も多かったといいます。周囲の差別があまりに厳しく、施設の外はとてもいられなかったからです。
さて、今日の男は主イエスを見るや否や、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清することがおできになります」といいました。極端なほど遜った表現と、可能動詞が結びついた奇妙な文章ですが、彼がこれまで周囲からどのように見られていたかを感じることができます。けれども「清くすることがおできになりますか?」という疑問文でなく「おできになります」と断定表現で終わっていることから、彼は主イエスの救いを信じて疑っていなかったのです。奇妙なことですが、人間の心には、絶望と希望が同居することがあります。
キリストは、そんな彼に触れて、病気を癒されました。もしも本当に彼を苦しめていたのが身体的な病であって、それさえ治ればすべてよし、というのであれば、今日の話は13節で終わっていたはずです。でもそうではありませんでした。主イエスは、良くなった体を祭司に見せなさい、と言われました。すると祭司が「清くなった」と宣言してくれるので、大手を振って共同体に戻れるようになる、というのです。病気が治っても、人と人との接点が失われたままでは、その人の人生に真の喜びはありません。主イエスは真の充足を与えられたのです。
私たちを苦しめるものはなんでしょうか。私たちが何かによって苦しむとき、気を付けなければならないのは、その苦しみが私たちの霊的部分までも委縮させている、ということです。表面的な目に見える苦難が、じつは目に見えない部分を損なっているという恐ろしさです。主イエスは、この霊的な窮乏を満たしてくださるお方です。私たちは、病気だから主に祈るのではありません。霊的な部分を失ったからこそ、主に祈るのです。私たちが苦しいとき、今日の男と同じように、主に祈りたい。それも主よあなたなら、この私をお癒しになれます、という断定的な希望をもって祈りたいと思います。
(2023年2月12日礼拝説教要旨)

良い土地に種が落ちる  2023年2月5日

ルカによる福音書8章4~8節、11~15節
 ある人が種を蒔きます。それは4種類の地面に落ちます。一つ目は道端、二番目は石ころばかりの土地、三番目は茨の中、四番目は良い土地。聖書の時代は、あちこち良さそうな場所にパッと種を蒔いて、それで運よく育ったら刈り入れる、といった効率の悪い農業でした。しかしそれだけに、良い土地にめぐり合えたときの喜びや、そこから多くの収穫が得られたときの喜びは、ひとしおだったことでしょう。ちなみに日本のお米は一粒の米からだいたい140粒の米が取れるそうです。これを収穫倍率といいますが、聖書の時代の麦の収穫倍率はいくらだと思いますか。だいたい3倍~5倍くらいだそうです。一粒の麦から、たった3~5粒しか穫れないのです。その内の一粒はまた種として蒔かなければいけませんので、本当にぎりぎりの、効率の悪い農業だったことがわかります。
 これを信仰の問題に置き換えますと、種とは御言葉のことであり、種を蒔く人は神様だと考えられます。四つの土地は、それぞれ人間の内面を示しており、多くの実り(信仰の成長、霊的な命の豊かさ)を得るために、信仰の邪魔になるような石や茨を取り除き、ふかふかの土地にしなければならない、という話です。ふかふかの土地にわざわざしなくても、人は心が打ち砕かれ、地面がパックリ割れたところに御言葉を受けると、大きく成長することがあります。いずれにしても、その人の内的状態が整えられると受けた御言葉が100倍にもなる、というのは聴衆に大きなインパクトを与えたのではないかと思います。わたしなど、若い頃は友達や会社の付き合いを優先し、教会にまともに通っていないことがありました。そんなことでは御言葉の種が育つはずはありません。
 このように今日の譬えが人間の「状態」についての話である、と理解出来ますが、もう一つ、人間の「種類」について語っている、という理解も可能です。10節で「彼らは聞いても見えず、聞いても理解できない」と主イエスが暗にファリサイ派を批判しているところがありますが、これは彼らがAかBかCの「種類」であることを意味すると考えられます。ファリサイ派というのは容易に生き方を変えられないからです。しかし、このたとえ話全体の主題はファリサイ派への批判ではなく、聴衆への祝福です。従ってここではそもそもあなたがたはDの良い土地であって、きっと100倍の実りがあるだろう、という祝福の御言葉を語られた、と理解することができるのです。
 ではどうすれば自分が良い土地だということがわかるのでしょうか。それは聖書に答えが出ています。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来た」(4節)。そういう人たちが良い土地なのです。聴衆たちは、選択的に主イエスの「そば」に集まった人たちでした。我々も日曜日の朝、万難を排して教会に集い、この椅子に座っている。主イエスの「そば」で御言葉を聞くためです。そしてそういう人のために主は種を蒔かれ、その実りが100倍となることを期待しておられます。我々は良い土地です。100倍の期待をもって、今日の御言葉を受け取りたいと思います。(2023年2月5日礼拝説教要旨)
(2022年1月2日主日礼拝説教要旨)

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