聖書?讃美歌?よくわからない・・・・大丈夫です!そんな人だって教会は大歓迎です。まずはこのページで教会やキリスト教について理解を深めてくだされば、と思います。
【旧約、新約って何のこと?】
大雑把にいえば、旧約聖書というのは、天地創造から主イエスが現れる前の時代について、新約聖書は主イエスが現れてからについて書かれています。「約」というのは、約束ないし契約という意味で、「神が人を救い出す」ことについての約束を意味しています。古い時代の神の約束が旧約聖書、新しい時代の神の約束が新約聖書、ということになります。
【聖書って難しそう・・・・】
確かに、聖書は難解な個所も多いです。けれども、キリスト教ではこれを人間を内的に生かす神の言葉=神の命として、とても大切にしています。聖書は2000年〜3500年前にわたって書かれた書物で、複雑な歴史性を含んでおり、すべてを理解することは容易ではありません。世界的に有名な聖書学者、キリスト教学者だって、深淵なる聖書真理について理解しているのはごく一部だけなのです。ですから、わからなくて当然です。初めのうちは納得できるところ、理解できるところだけを読んでもいいです。大事なことは、たとえ少しずつでも読み続けることです。それが、その人の信仰的成長、内面的(霊的)成長につながります。
礼拝では、牧師が「説教」という形で、聖書を紐解きます。これは単なる解説ではなく、聖書と牧師を通して神が御言葉を語ってくださる、という理解においてなされています。
【聖書に出てくる奇蹟が信じられない】
聖書には、海が割れる話、死んだ人が生きかえる話、病気や障害が癒される話など、とても常識では信じられない話が数多く収録されています。そこに躓いて、聖書に違和感を覚える人も多いのは確かです。でもそれはもったいないし、残念なことです。わたしたちが常識で知っていることなど、本当はわずかな知識にすぎません。たとえば地球に重力がある、赤ちゃんは父と母のDNAを受け継いでいる、といったことは誰でも知っていることですが、なぜ物体が万有引力を持っているのか、なぜ減数分裂した卵子と精子がくっつくようなシステムが存在するのか、その根本原理に答えられる人はいません。我々にできることは、「まあ、そういうことになっているから」という現状を認識することだけです。仮に人類がその理屈を解明することができても、それを可能にする力など持っていないのです。
聖書は、ごくシンプルに、「神がこの世を造った」「人を造った」と記しています。わたしたちがよく知っているこの世の理(ことわり)も、実は神の奇蹟であり、人間には到達できない領域なのです。
奇蹟を信じられないから聖書を読まないというのではなく、むしろ聖書を読むことで、神がなぜこの世に奇蹟を起こされたか、それを知ることができます。仮にビッグバン、進化論が正しかったとして、地球に空気がある確率は?岩と水しかない世界から生物が生じる確率は?人類の出現のために必要だった巨大隕石の落下や「恐竜絶滅」の確率は?あなたのお父さんとお母さんが数ある異性の中から出会って、あなたを生んだ確率は?
それらがもし全部偶然の産物だとしたら、この世は全然美しくなく、つまらないです。しかし、それらは決して偶然の産物ではなく、奇蹟と呼ばれるべきではないですか。あなたが存在していること自体が奇蹟ではないですか?
聖書に出てくる奇蹟物語を、無理に信じることはないです。でも奇蹟と呼ばれるべきことが、神のご意思としてあなたの中にも、あなたの身近にもあるということを知っておいてほしいです。
【いろんな翻訳があるみたいだけど】
確かに多くの翻訳がありますが、日本キリスト教団ではほとんどの場合「新共同訳聖書」というものを使っています。カトリック教会と合同で翻訳を進めて完成した、かなり原文に近い聖書です。
【どこから読めばいいの?】
物語として面白い話はいろいろありますが、旧約聖書で有名なのは、ノアの箱舟(創世記6〜8章)、ヨセフ物語(創世記37〜45章)、モーセ物語(出エジプト記)、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長物語(創世記)、ダビデ物語(サムエル記上16章以降)などです。どれも神様がイスラエルの人々を導き、助け出そうとなさる物語です。
詩編というのも、美しい詩が信仰的につづられていて、読むたびに新しい発見があります。
新約聖書では、イエス・キリストのご生涯を扱った4つの福音書のうち、ルカ福音書あたりが読みやすいのではないかと思います。キリスト教の教義について知りたい人は、ガラテヤの信徒への手紙が比較的わかりやすいと思います。
【心に残る言葉を教えて】
神は愛です。(ヨハネの手紙一4章16節)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書11章28節)
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12章15節)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレトの言葉3章1節)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレミヤ書31章17節)
あなたの髪の毛までも一本残らず数えられている。(ルカによる福音書12章7節)
人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイによる福音書4章4節)
愛は忍耐強い。愛は情け深い。(コリントの信徒への手紙一13章4節)
求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイによる福音書7章7節)
ただ、神の国を求めなさい。(ルカによる福音書12章31節)
人の子(イエス・キリスト)は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカによる福音書19章10節)
ほかにもたくさんあり、書ききれません。これらの言葉はそれが発せられた背景というものがあり、そこを読み解かないと本当の意味で理解したことになりません。ぜひ聖書を手に取り、じっくりと読まれることをお勧めします。
【神奈川教会はどんな教会ですか?】
わたしたちの教会は1875年創立のプロテスタント教会です。戦前は「メソジスト教会」というグループに属していましたが、戦時中国家に押し付けられた宗教団体法により日本基督教団に合同させられました。わたしたちは、終戦後もそのまま日本基督教団の教会として活動しています。日本基督教団は、約1700の教会が所属する日本で最大のプロテスタント教団です。
【なぜカトリックや○○派というように、多くの教会に分かれているの?】
長らく西方カトリック教会は単一の考え方で活動し、権力や社会の中枢にありました。そういう環境では、考え方が硬直してしまいます。そこにある種のひずみが生じ、これが限界を迎えたとき、内部からより真理に近いものを求める動きが出てきました。それがルターの始めた宗教改革です。ルターや彼に呼応した宗教改革者たちは、次々とプロテスタント教会を立ち上げていきました。プロテスタント教会はその後も分裂を続け、世界中に広まりましたが、信仰理解の違いにより、教会間で多くの血が流された、という痛みの歴史を負っています。
人間が誰一人同じ者はなく多様であるように、教会や信仰もまた多様です。それぞれの教会には「信じるところ」、つまり信仰告白があり、その内容に乗っ取って神を礼拝し、聖書を読んでいます。信仰理解や伝統の違いによって相手を攻撃するのではなく、互いに尊重しながら自派の信仰を高めていく、ということが宗教改革で学んだ教訓です。したがって、多くの教会に分かれていることの答えの一つは、多様な人々が争いなく聖書を読み、礼拝するため、ということでしょうか。
【モルモン教、エホバの証人、統一協会って何?】
前者二つは、キリスト教に似ていますが、使っている聖書や信じているものがかなり違っており、別の宗教です。統一協会も人間を神とするなどキリスト教とはまったく関係ありません。これらの団体から勧誘を受けた場合、はっきりと「興味ありません!」と答えてください。
また、一般にキリスト教として認知されていながら、極めてカルトに近いものもたくさんあります。やたら勧誘に熱心なのは要注意です。礼拝出席や献金をしないと地獄に落ちるとか、神を信じれば病気が治る、などといってくるのもカルトの特徴です。
【三位一体の神ってどういうことなの?】
すっかり日本語でもお馴染みとなった「三位一体」。もともとはキリスト教用語で、神、イエス・キリスト、聖霊の三位格が、同位、同列の一つの神という概念です。神はその独り子であるイエス・キリストによって救いを啓示され、見えざる聖霊において今も働いておられる、ということです。
【罪人っていわれても、悪いことはしてませんけど・・・・】
いわゆる刑法に触れるような罪でなくても、わたしたち人間は弱さを持ち、必ず失敗をします。しばしば嘘をつき、相手を傷つけてでも自分を正当化しようとします。それらはすべて、人間が弱く、不完全な証拠です。いつまでも、そのような人間として生きるのは虚しいことではないでしょうか。
聖書においては、アダムとイブが神へに背いた瞬間から、人類は原理的な罪=「原罪」(original sin)を負ってしまった、という概念があります。わたしたちの雑多な罪は、すべて神の方を見ないで自分ばかり見ている原罪から来ています。このように、わたしたちは神が求めておられる人間の姿から遠く離れているので、それを「罪の状態」と考えています。
キリスト教では、イエス・キリストが十字架で死刑になることにより、わたしたちが受けるべき罰を代理で受けられた、と考えています。そのことによりわたしたちは無罪宣告がなされ、神の国へ行ける(永遠の命を与えられる)のだ、と信じています。
【救いってなんですか?】
創造主である神様が、罪の中にある人間を救い出し、神の国に迎えてくださることをいいます。時間軸で考えるとそれは将来のことのように思いますが、神に結びついて今を生きる者は、すでにその命を与えられています。要するに「救われる」ということは、神とつながって生きることを意味するのです。いかにこの世の富みや喜びを享受したとしても、もしその人が救われていないならば、人間も人生も虚しさの中にあります。逆に、どんな苦しみ、悲しみに見舞われても、その人が真にキリストの愛に気付き、悔い改めて神とつながって生きるなら、すでに救いの中にある、ということなのです。
【神様や救いを信じられるようになるでしょうか?】
信仰の心は、人間の力や努力で獲得できない、といわれています。その辺が仏教と違うところです。神様が「この人」という人を選んで、信仰を与え、聖書や礼拝を中心とした人生を与えてくださいます。もしあなたが遠い将来、自分の過去を振り返って「あの時神様がわたしのことを捉えてくださったから、今のわたしがある」と感謝する日が来るとすれば、それはあなたの人生が神の救いの歴史に置かれていたことを意味します。