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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

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説 教

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人間の常識は神には非常識  2022年1月2日

マタイによる福音書20:01-16
大矢真理
 仕事の形態は大きく分けて、2種類と言えます。一つは正規雇用、非正規雇用の違いはありますが、決まった期間働いて、給料として決まった金額をもらう形態。それと、アルバイト、パートです。パート、アルバイトの経験がある方は、ご存じだと思いますが、時給があり、働けば働くほど稼ぐことができるのが、パート、アルバイトです。パート、アルバイトは、正規雇用、非正規雇用をとは違い、働きたい時に、働きたい時間を働けば良い雇用形態です。正規雇用、非正規雇用は、就業時間があり、残業などで、多くの時間を働いた人が、それに応じた給与をもらえる。営業職は、営業成績が良ければ、それに見合った給与がもらえますが、多くの時間を費やす場合がほとんどだと言えます。
 今日の聖書箇所の見出しには「ぶどう園の労働者」とたとえとあります。当時の労働時間は、朝の6時から夕方の6時です。労働条件は「1日1デナリオン」です。1デナリオンは、当時のローマ帝国の兵隊の給料が「1日1デナリオン」で、当時のユダヤでパンと野菜がやっと買えるぐらいの貨幣価値です。主人が最初に送った労働者は、12時間労働です。9時頃に広場で 『ぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言われた人たちは9時間労働です。午後12時と午後3時にも出かけ、同じようにしました。6時間、3時間労働です。午後5時にも、誰からも雇われなかった人がいるのを見て、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。1時間労働です。労働時間が終了後、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言いました。1時間だけ働いた人たちに、1デナリオンが支払われました。午後3時、午後12時、午前9時から働いた人たちも同じです。最後に朝6時から雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていました。しかし、一デナリオンでした。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』と主人に不平を言いました。
 世の中では、多くの時間を働いた人が、その対価としてそれに応じた給与をもらえます。今日の聖書箇所は、労働時間に対する報酬と言う点から見ると、世の中で常識と考えられている事に対して非常識に思えます。朝6時からぶどう園で働いた人たちが約束された日給1デナリオンが、午前9時、午後12時、午後3時、午後5時、それぞれの時間から働いた人たちの『ふさわしい賃金』が、主人にとっては1デナリオンです。自分自身が朝6時から働いた人だと考えて下さい。午後5時に来た人達が同じ賃金を貰うのを見てどう感じるでしょう?世の中の常識で考えれば朝6時から働いていた人々が言ったことは、当然だと思えるでしょう。朝6時から働いた人は労働時間に対して賃金を決めるのが公平だということです。
今日の聖書箇所は天の国のたとえ話です。ぶどう園の主人は神様で、神様は1時間しか働かなかった人に対して、1デナリオンを支払った慈しみ、神様の愛、神様の常識が、人間には非常識に思えることが実践される所が天の国、神様の常識と言うのです。朝6時から働いた人は労働時間、人間の常識が賃金の基準であると考え、神様の慈しみ、愛を非常識と考えました。ある神学者は言います。「全ての人々が、事実上自分達は5時頃に雇われた労働者の様なものである。」私たちは不平を言われても仕方がない立場、赦される立場でないにも拘らず、イエス様の十字架により一方的に救って頂き罪赦された、午後5時に雇われた、神様の常識によって、人間の非常識な考えから救われた労働者ではないのでしょうか。(2022年1月2日主日礼拝説教要旨)

     

主がおられるところへ  2021年12月26日


マタイによる福音書2章1~12節
 今日読んだ聖書には、二人の王が出てきます。一人はこの世において暴虐の限りを尽くした男、ヘロデです。内乱に乗じて頭角を表し、政敵を粛清して最終的にはローマにユダヤ王としての地位を認めさせます。33年にわたる王政は比較的安泰でしたが、晩年は10人の妻から生まれた息子たちが互いに権力争いをするようになり、自身も命を狙われます。次第に周囲に対して疑心暗鬼となり、妻子を次々と処刑していくようになりました。
 主イエスが生まれたとき、ヘロデはまさにこうした状況にありました。東の国から突然学者たちがやってきて「新しい王が生まれた方はどこですか」と聞いたとき、ヘロデが不安になったのも当然です。どんな小さなことでも、自分の地位を脅かす者は抹殺しなければならない。それでヘロデは2歳以下の男の赤ちゃんを虐殺する、という暴挙に出るわけです。
 こうして考えると、ヘロデは大変強い政治家だったけれども、人間としてはもろかったといえます。お金や権力を我がものにしていても、家族の温かさ、人間としての潤い、心からの平安、といったものを失ってしまった、一人の弱い人間に過ぎませんでした。ある意味では、彼のような人間こそ、主イエスを待ち望むべきだったかもしれません。しかし彼は、その弱さゆえ、主イエスが王となられることを拒絶し、これを排除しようとしたのです。
 今日の聖書に出てくるもう一人の王、それは主イエスのことです。主はこの地上を平和に導き、救いをもたらされる全人類の王です。神の御子であられ、神の力を有する方にも拘らず、本当に弱い、一人の赤ちゃんとしてお生まれになりました。いや、このときだけでなく、十字架につけられる時も大変弱々しい形で、ただ黙して死に向かわれました。しかし主はそのことを通してすべての人を救う、という大きな使命を果たされたのです。
 この対照的な二人の王の間を行き来するのが、東方の学者たちです。彼らは新しい王の存在を指し示す星を見て、約千数百キロ離れたユダヤまで旅をしました。彼らは初め、ヘロデの所へ行きます。新しい王の情報を持っているかもしれない、と思ったからです。しかしヘロデは嘘をつき、主イエスを殺すつもりで、彼らを送り出しました。
こうして残虐なヘロデのところを通り過ぎて、星は真の王の所で停止しました。学者たちは、その星を見て喜びにあふれ、生まれたばかりの主イエスと出会いました。そして、黄金、乳香、没薬をささげたのです。彼らがここまでして、主イエスに会いたかったのは、聖書の世界、ユダヤ人という枠組みを超えて、世界のすべての人が、救いを求めている、ということの現れではないでしょうか。彼らは神を知らずに生きている人の代表なのです。
 彼らを導いた星は、我々でいえば聖書です。今のこの時代は、あまりにも多くの情報が溢れすぎています。マスコミ、インターネット、どの情報を自分のものとしたらよいか、わからないまま生きているような気がします。しかし、本当の意味で自分を正しい方向に導く情報というのは、そうは多くないのではないでしょうか。聖書です。我々は、聖書から、真の権威者を指し示す光を発見します。そして、見た目だけは立派に見える、あらゆる力を通り過ぎ、本当の救い主の所へとたどり着くのです。この真理の光に導かれながら、2022年も歩んでまいりましょう。(2021年12月26日主日礼拝説教要旨)

神に立ち帰れ  2021年12月5日


エレミヤ書36章1~10節
 紀元前7世紀の終わりごろ、エジプトとバビロニア帝国に挟まれたユダヤは両国の微妙な緊張関係の只中に立たされていましたが、紀元前605年バビロニアがエジプトを破り、ついにその均衡が崩れる時がやってきました。それはエルサレムを首都とする南ユダが、バビロニアに飲み込まれる日が確実にやってくることを意味していました。
今日の預言は、まさにその年になされたものです。それは「バビロンの王が必ず来て、南ユダを滅ぼし、人も獣も絶滅する」(36章29節)というものでした。ただこうした預言は21章、25章、27章などで繰り返されてきたもので、今回が初めてではありません。ではなぜ神は、国の崩壊が確実となったこの年に、あらためて同じ預言をなさったのでしょうか。
 それはまさに危機的状況においてこそ、民がご自分に立ち帰るかもしれないというご期待があったからです。「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」(36章3節)。これまでの預言は、ユダヤ人の右から左に通り抜けていくだけでした。しかし今は違います。神の裁きとしてのバビロン襲来が目前に迫っています。彼らは今までとは違う気持ちで、その預言を真剣に聞くことになるだろう。神のご期待はそこにありました。
 南ユダの人々は、それでも主の御言葉を受け入れませんでした。当然ながらバビロンという滅びがやってきます。しかしその事実が、後に彼らを回心させ、より強い信仰と宗教的生活へと向かわせたのです。事実としての苦しみが回避できなくとも、我々にはその中でこそ見出される道というものがあるのではないでしょうか。
一方、新約聖書においては多くの福音的メッセージ、すなわち「あなたの信仰があなたを救った」「あなたには試練と同時に、逃れる道をも備えられている」「あなたは弱い時にこそ強い」「行きなさい。あなたの罪は赦された」「あなたは今日楽園にいる」などの、素晴らしいメッセージがあります。これもまた我々の心が整っていないために、右から左、となっているかもしれません。危機的状況において受け取るべきは、滅びの予告だけではありません。救いを告げる福音的メッセージも、私たちに向かって強く発せられているのです。
 何事にも惰性というものがあります。物理学でも完成の法則というものがあり、物体はいつまでもその場所に留まろうとします。若いころは、感動して、聖書に線を引っ張って食い入るように牧師の説教を聞いた人でも、いつしか時間が経つと「いつものように」御言葉を受け取っています。「平時」はそれでいいのかもしれません。しかし、危機的状況に陥ったとき、その時こそ、我々の耳が研ぎ澄まされるときではないでしょうか。苦しい時こそ神の御心に近づくチャンスです。平和な時にはわからなかった、聞こえてこなかった神のメッセージが、今だからこそわかる。バビロニアに連れて行かれた民が不安で、困難で、先が見えず、絶望に襲われたときに、神の福音を発見したように、今の私にも神が福音を示しておられる。それを聖書が教えてくれるのです。困難にあるときこそ祈り、聖書を読み、福音として神の御心を感じ取りながら過ごしてまいりましょう。(2021年12月5日主日礼拝説教要旨)

贖われた者の帰還  2021年11月28日


イザヤ書51章9~11節
 わたしは18歳まで海近くの相生市で過ごし、その後群馬の大学へ進学しました。そこで思わぬ心理状態に陥りました。いわゆるホームシックというやつです。新入生歓迎コンパがあり、大きな貝にお刺身が盛り付けられていました。何を思ったか、わたしはその皿を手に取り、クンクンと臭いをかぎ始めたのです。何とも奇妙な光景でした。このテーブルの大きな貝の上だけが、自分と故郷をつなぐもののように感じたのです。
 いわゆるバビロンに捕囚された人々も、そのような気持ちを持っていたのではないかと思います。歴史を生きる彼らの精神性の中にユダヤ回帰というものが常にあったことは大変よくわかります。苦難の中、いつか祖国に戻り、神による国家を再構築するのだ、という幻をずっと持ち続けたのです。その執念ともいうべき祖国復帰への思想はシオニズムという名前まで付けられ、今のイスラエル国家樹立の動機にもなりました。
 11節「主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌を歌いながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。贖うというのは、いわゆる奴隷が家族や主人によって買い戻されることを意味します。ひどく扱われていた場所から助け出されることを言います。バビロンという大国にからめとられているような虚しい生活を来るユダヤ人たちは、自分たちがいつか贖われることを堅く信じています。
 贖い、という言葉は、たとえ生粋のユダヤ人でなくとも聖書を読む民に勇気を与えます。アフリカからアメリカに連れて行かれた黒人奴隷たちもそうです。彼らが作り出した黒人霊歌の中には、アフリカへ帰ろうという歌がいっぱいあります。肉体はアメリカの場所にあっても、魂は祖国アフリカとともにありました。
捕囚民にとってのバビロニア、黒人奴隷にとってのアメリカ、あるいはかつてのユダヤ人にとってもエジプト。このような圧迫や無気力、絶望が同居する場所は我々の中にもあります。ある人にとっては職場が、ある人にとっては家庭が、ある人にとっては学校が、ある人にとっては住んでいる地域がそうです。今こそ、我々は聖書から学びたいのです。歴史を生きる苦難の民を、神がどのように見ておられるのかを。そしてどのように救われるのかを。
 贖いという言葉は、新約聖書にも出てきます。我々はある意味で、天国へ帰れなくなった者たちです。聖書によれば、もしも終わりの時が来ても天国への帰還が赦されず、陰府の世界へと向かわねばなりませんでした。罪を犯したからです。もし御使いが現れて「あなたには永遠の牢獄が待っている」といわれたら、その人は人生に意味を見出せるでしょうか。しかし神はそうではない方の未来を、主イエスを犠牲にすることによって示してくださいました。あなたには贖い取られて天へと帰る。このたった何十年かしかない人生で、神様はそんな素晴らしいメッセージを教えてくださるのです。
 神は虚しく、希望のない場所から、我々を贖い出してくださいました。我々は、主イエス・キリストを通して、贖いの民となったのです。そしてこの希望と共に永遠の故郷である天国へいつの日か帰っていくのです。
(2021年11月28日主日礼拝説教要旨)

うめき声が神に届いた  2021年11月14日


出エジプト記6章2~13節
 子どものころ、教会の礼拝堂で遊んでいて、講壇の上から足を滑らせて背中から落ちてしまいました。打ち所が悪かったのかしばらく息ができない状態になりました。うーー、といううめき声しか出ず助けも呼べません。その時間が、30秒くらい続いたように思います。笑わないで聞いていただきたいのですが、その30秒の間、私は本当に死んでしまうと思いました。
今日読みました出エジプト記にもうめき声という言葉が出てきます。5節にはこのようにありました。「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い出した」。ユダヤ人たちは400年間うめき声をあげたということですが、彼らはその苦しみが永遠に続くのではないかと思ったかもしれません。
 ここで重要なことが2点あります。一つ目は救いの約束を人間の側がすっかり忘れてしまっていた、ということです。かつて、神はアブラハムにエジプトでの苦難と、そこからの脱出を予告し、契約まで結ばれました。しかし出エジプト時代の民は、ほとんどこの約束を意識していなかったようです。きっと彼らは、生きるのに精一杯だったのでしょう。
 このことは我々人間が神の約束を忘れて、意識も目的もなく、ただ毎日を過ごしている、ということを示唆するものです。たとえ生きるのに精一杯だったとしても、神の愛とその愛に基づく約束を、我々は忘れてはなりません。神との約束なしに生きることは、神なしに生きることです。その先に待っているのは、虚しい生活、希望のない人生への転落です。
しかし人間が忘れても、神はこの約束を忘れ給いません。二番目のポイントは「わたしはうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」というところです。出エジプト物語において、神がいよいよ救いのご計画を発動なさるのは、苦しむ民のうめき声をお認めになったからでした。どの親でも、もしも自分の子どもがケガをしてうめき声を出していたら、すっ飛んでいくに違いありません。神様も同じです。ユダヤ人のうめき声を聞かれた神様は、モーセを通じて民に接近され、そして「もう大丈夫」と救いの御手を差し出してくださったのです。
もしも我々が何かが原因でうめき声を出すようなことがあったとしたら、その時こそ、神が救いのために接近しておられるときです。たとえ神様ご自身がお姿を現さなくとも、誰かを通じ、あるいは何かの状況を通じて神様は近づいていてくださるのです。
エジプト脱出後も、彼らの苦労は続きました。40年の放浪の間に、一世代変わり、モーセも目的地の直前で死にました。それでも救いは達成されました。果てしない労苦の中でも、神の約束は静かに、確かに続いていたのです。ユダヤの民は、そのことを信じられたからこそ、長い砂漠の旅を続けることができたのではないでしょうか。
我々はこれまでの人生で、何度うめき声をあげたでしょうか。そして、これから何回うめき声を挙げるのでしょうか。その声は神に届いています。神は既にこの声を聞かれるたびに、声の主の傍にいてくださいます。私たちにできることは、救いの約束を思い出すことと、救いの到来を待つことです。息が苦しい時間は永遠ではありません。祈りつつ、希望を持ってその時を待ちたいと思います。(2021年11月14日主日礼拝説教要旨)

      

神の選び  2021年11月7日


創世記15章12~20節
 ユダヤ人にとって出エジプトの話は、子どものころから聞かされるおとぎ話のようなものです。自分たちの先祖が、苦しい歴史を歩まされる中で、ヒーローともいうべきモーセが現れ、神の助けによって敵の大将であるファラオを翻弄します。おそらくどの子どもも、この話を目を輝かせながら聞いていたに違いありません。しかし彼らにとって出エジプト物語は、単なるおとぎ話ではなく、自分たちの存在に関わる物語です。
さて、この物語を過去の話ではなく未来の予言として受け取った人物がいます。アブラハムです。そのとき彼は100歳に近く子供もありませんでした。神が子孫繁栄を予告されてもアブラハムは半信半疑でした。しかし彼の子孫が出エジプトを経験すると聞かされることによって、アブラハムは神を信じるに至るのです。今日の話で重要になってくるのは、神の選びという考えです。神は、たくさんいる人の中でアブラハムをユダヤ人の祖として選ばれました。高齢で、しかも子どもがいない彼を、神はわざわざ選ばれたのでした。それは常ならぬ歴史が神によって進められていく、というメッセージが込められていたからです。出エジプトの海が二つに分かれた話もそうです。普通に考えたら、あそこでエジプト軍に滅ぼされるはずだった。しかし神は海を割ってまで自分たちを救ってくださったのだ。苦しい時にこそ、神の選びがあり、そこに奇しき恵みが注がれるのです。
今の我々はこの物語をどのように受け取るのでしょうか。我々は神の恵みに留まろうとせず、自分から神のご支配の外に行こうとしました。それを罪と呼びます。有形無形の罪を犯し、神のまなざしから逃げ、その選びをなかったことにしようとしたのです。そのままでは、我々は葦の海、すなわち暗黒と滅びの中に死んでいくだけでした。しかしその暗黒の海を真っ二つに打ち破る方がおいでくださったのです。イエス・キリストです。神は、イエス・キリストを通して、もう一度我々を選び直してくださいました。あの十字架の出来事、復活の事実をもって、我々を死と滅びの中から救い上げてくださったのです。神の御子が、人の手で殺されるという、出エジプトよりもはるかに驚くべき、そして恐るべき事象によって、我々の命は選び取られたのです。
この恵みは、あくまでも神の一方的な恩寵によるものであり、我々はそれを感謝して受け取るだけです。ただし、かくまで大きな犠牲と愛を受けて選ばれた者であることを自覚し、その意味を問う者であり続けなければなりません。
キリスト教徒の家庭では、イエス・キリストにまつわるいろんな話を子どもに聞かせます。十字架と復活の出来事ももちろん、その中の一つです。あの十字架は、我々クリスチャンにとって過去に起こった輝かしい出来事ですが、それは単なるおとぎ話ではありません。自分の存在と、これからの未来に深くかかわる出来事です。そのことを信じるからこそ、我々の人生に大きな意味が与えられると同時に、あらゆる苦しみ、悩みに遭遇しても、これを乗り越えていくことができるのではないでしょうか。神の一方的な恩寵によって選ばれた恵みを忘れずに、感謝と希望をもって過ごしてまいりましょう。(2021年11月7日主日礼拝説教要旨)

堕落  2021年10月31日


創世記4章1~10節
 今日の聖書によれば、カインとアベルが持参した献げ物に対して、なぜか神様は違う対応をなさいました。弟アベルのことは顧みられたのに、カインのことは顧みられなかったのです。そのことに立腹したカインは、アベルを呼び出して殺してしまいます。人が人を殺すというのは、人間の罪の中で最も重いものですが、人類は第二世代にしてその重罪を犯してしまいます。人間がいかに罪を犯しやすいか、どれほど人を殺しやすく、危険な存在か、ということを創世記は教えています。
 この話では、しばしば神様のカインに対する冷遇が話題となります。その点について私はこう思っています。自分が罪を犯してしまったことについて、私は悪くなかった、神様が冷たかったからだ、という言い訳を持ち込ませないためです。いくら自分にとって不利益な状況があったからといって、人を殺してもよいのでしょうか。そんなことはありません。あくまでも罪というのは自分自身の問題です。誰かのせいにできないのです。
 7節にはこうありました。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。我々は、罪と近いのです。しかし、だからといってそこに身をゆだねて、自分勝手に生きてしまってはなりません。罪を支配せねばならない、と神様は言われます。カインはそれができなかった。彼は罪の中に落ちて行ってしまったのです。アダムの子だから仕方ない。そういう言い訳はできないのです。罪を自分から離れさせることができなかったという点で、彼は堕落したのです。イエス様も「もし右の目があなたをつまづかせるなら、抉り出してしまいなさい。もし右の手があなたをつまづかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」といわれました(マタイ5章29、30節)。これは大変厳しい御言葉です。現実的にそれが可能かどうかは別として、それくらい罪に対しては敏感でなければならないし、罪を離れさせる努力をしなければならないということなのです。
 我々はよく「私は罪人だから、弱いから」と言い訳をします。アダムとエバの、カインの血を引く者だから罪を犯してしまうのだ。本当にそうでしょうか。確かに我々は本質的に罪を内包する存在であることに違いありません。しかしあのときアダムとエバが食べたのは「善悪を知る木の実」でした。悪も行えるが善も行える、我々はそのような自由を手に入れたのです。それなのに、善よりも悪を選択し、神との関係を壊したのは自分のほうだった。言い訳せず、まずはそのような認識に立つことから始めなければならないと聖書は語るのです。
 その後、カインはどうなったかというと、話のつながりが悪いと思うくらいに、突然に、神から赦しと守りの宣言を受けます。これはまるで、新約聖書のイエス・キリストのことを先取りするような話です。本来ならば裁かれなければならないのに、いきなり救いへとつなげられる。罪の中に落ちていくこの自分を救ってくださるのは、キリストしかおられない。我々は旧約、新約と続けて読んで、そういう信仰に思い至るのです。
神の御前に懺悔しつつ、救いの約束を受けた者として、今度こそ、悪い方ではなく、善い方を選んでまいりたいと思います。(2021年10月31日主日礼拝説教要旨)

     

大空は御手の業  2021年10月24日

詩編19編2~7節
 2節前半「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」。天と訳された言葉は複数形であり、おそらくは太陽、月、星々などあらゆる天体を指すものと思われます。「物語り」と訳された語は、数えるとも訳せます。太陽、星々、月、これらの天体一つ一つが、神のご栄光をカウントしている、という詩人の感動が伝わってきます。
3節「昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る」。昼とは光の意味です。昼は光を持って語り、夜は闇を持って語る。光り輝く昼という存在が、闇に沈む夜という時間が、それ自体が神のご栄光を語っているというのです。我々は昼間の間、あるいは夜の闇の中で神の栄光を感じているでしょうか。昼の光、夜の闇、そのなかでも神の栄光は語り継がれているのです。
 4節~5節「話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地にその言葉は世界の果てに向かう」。通常我々は、何かを伝えようと思ったら言葉を用います。それは神様も同じです。神様は聖書という文字化されたものをもって、我々に貴い御心を伝えてくださっています。また、聖書にはイエス・キリストが神の言葉そのものである、と書かれています。神の愛は、御言葉となられたイエス・キリストに表されているのです。
 一方、今日の詩編では、被造物全体が神の御言葉であるというのです。太陽、星、昼の光、世の闇は、その存在自体が神がこの世をいかに愛でておられるか、その調和を保つために、どれだけの多くの知恵を用いておられるのかを、我々に伝えているのだ、というのです。イエス様も「野の花を見なさい、空の鳥を見なさい。それら小さな命を、神様がどれだけ愛されているか」ということを教えてくださいました。人の体の細胞一つとっても、驚くべき仕組みが備わっています。例えば生殖に必要な「減数分裂」は、いまだにわからない部分もあります。神にしか造れない世界で、神にしか造れない命が生きています。
 大空、といえば太古の昔は、雷が神の存在と関連付けられていました。科学が進み、その仕組みは徐々に明らかになっていますが、実はあれほどの放電現象を引き越す発生メカニズムについて、完全には解明されていません。わかったようでいて、実は科学の世界はわからないことだらけです。物理学者のリチャード・ファインマンは、数学や物理というのは神様のやっているチェスを横から眺めているにすぎない、といいました。科学者は神様が造られた美しい法則、ルールの一端を、ちょこっと眺めているくらいのものだ、というのです。
 古来より、我々人間はその知的好奇心を発揮して、自然、宇宙、生物、物理、化学、様々なことに首を突っ込んできましたが、明らかになったのは神の御手がこの世界を作ったという事実ではないでしょうか。3000年前の旧約聖書の神観と、現在の我々の神認識はそんなにかけ離れてはおりません。むしろ聖書に書かれている通りのことを、我々は科学や知識によって再確認しているといえるのではないでしょうか。
今日、この後教会を出たら、もう一度世界を見渡してみて、自分を見つめ直してみて、そこに働く神の業の大きさを感じたいと思います。
(2021年10月24日主日礼拝説教要旨)
     

小羊なるキリスト  2021年10月17日


ヨハネの黙示録7章9~17節
 黙示録の著者は、世界的な大変動が起こることを幻に見ています。そのときに、キリストの側と反キリストの勢力が戦い、キリストが勝利することにおいて世の終わりが来るのです。讃美歌54年版の520番に「しずけきかわのきしべを」という曲がありますが、その4節の歌詞がこのときの様子を見事に伝えています。「おおぞらは巻き去られて、地は崩るとき 罪の子らはさわぐとも 神によるみ民は 心やすし 神によりてやすし」。世の終わりが来ても、神を信じる者らはやすき(平安)を受けるのです。
 9節「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」。ユダヤ人とか異邦人といったものを越えて、全人類が救いを求めて「小羊たるキリスト」のもとに集まっている様子を描いています。次に天使たちが、この群衆たちの歓喜に満ちた大合唱に続いて、賛美の言葉を口にします。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」。なかなかスケールが大きくなって、映画がオペラみたいなシーンです。
 長老(天の軍勢の長老)はこういいます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。生きていれば服は汚れます。罪のことです。その汚れは自分では清くすることはできません。どんなに元通りになりたいと思っても、ずっとくすんだ色の服を着るしかないのです。讃美歌520番の3節にはこうありました。「うれしや十字架の上に わが罪は死にき」。小羊たるキリストが、我々の身代わりとなって屠られ、その貴い血潮を十字架上に流されることで、我々の罪も死ぬというのです。
 15節以降の記述は、天上における神礼拝の様子です。「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」「彼らは飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」。神の大いなる守りの中で、苦しみなく神礼拝をしている。なんと素晴らしい情景でしょうか。この天上に挙げられた民は、反キリストとの戦いによって、死ぬほどの苦しみを受けた人たちです。17節によれば神様は、彼らの目から涙をことごとくぬぐってくださる、とあります。我々がこの世において傷つき倒れたとしても、天の国の住人となったときには、神様がその傷も涙もぬぐってくださるというのです。
 ヨハネが見たこの不思議な光景は、1世紀から2世紀にかけて、周囲からひどい迫害を受けていたクリスチャンたちに希望を与えました。現在のキリスト教では、ヨハネが見たこのような世の終わり方をストレートに信じることはなくなってきたように思います。しかし我々は、ヨハネが書き記した黙示録から、大きな励ましと希望を受けていることも事実です。いつ、終わりのときが来るかはわかりませんが、我々はヨハネが見たあの素晴らしい情景に向かって、この地上を歩んでいます。神奈川教会に通う者は、地上での命が終わりを迎えるその時まで、この素晴らしい情景を共に見続けたいと思います。(2021年10月17日主日礼拝説教要旨)

力と悪  2021年10月10日


詩編52編3~11節
 部族単位で生活していたイスラエルの人々が、度重なるペリシテ人からの攻撃に窮したことから、神様はイスラエルを一つの国として樹立させ給いました。その初代の王はサウルです。サウルは王として20年も君臨し、外国からの攻撃を跳ね除けることに成功しました。こうして イスラエルは、サウル王の下、近代的な国家として発展していきました。
しかしそんなサウル王が、道を踏み外すときがやってきます。ダビデが現れたときです。ご存じのように、サウルは優秀な部下であるダビデを抹殺するために、軍隊を動員するなどしました。しかし神はダビデを守られ、サウルの手にかかることはありませんでした。
今日の詩編52編3節にある「力を持つ者よ、なぜ悪事を誇るのか」とあります。詩編52編は、サウルというよりは、権力を持つ者に対する警鐘ではないかと思います。権力者は力を持つと、それを悪い方に使いこれを自慢しようとします。イスラム武力集団のISISは、自分たちの力を残酷な方法で誇示し、世界を震撼させました。冷戦の間、米ソは大量殺りく兵器である原爆、水爆の威力を互いに誇っていました。強大な力を持つとき、人はしばしば善悪がわからなくなってしまうのです。それは虚しく、恐ろしいことです。
 続いて4節には「舌は刃物のように鋭く、人を欺く」とありました。人の言葉は、恐ろしい武器になりえます。インターネット世界では、刃物みたいに尖った舌が、人の心をえぐり、死をもたらすケースが増えています。
 どうして人はこんなに悪い方に転がっていくのでしょうか。9節で、詩人はこう言っています。「見よ、この男は神を力と頼まず 自分の莫大な富に寄り頼み 自分を滅ぼすものを力と頼んでいた」。莫大な富とありますが、これは「世の力」という意味です。この世のむなしい力に拠り頼むとき、人は悪への転落が始まるのです。
このような転落をくい止めるには何が必要でしょうか。それは人間世界の外にある力に頼るほかありません。神だけが、我々を悪への転落から救い上げられるのです。
 冒頭のサウル、ダビデの話に戻れば、ダビデはサウルが戦死した後、王位に就きました。しかし彼にはサウルと違って、神の御心を正しく聞こうとする姿勢がありました。彼は失敗もしますが、常に自分ではなく、神の御心を行動の基準に持ってこようとしていました。常に神の御心に留まり続けようとするダビデの姿勢は、我々にとっても必要なものです。どんなときにも、神の御心に耳を傾けようとする。自分の行動の基準に、自分ではなく神を置こうとする。このような神を中心とした生き方や人生において、我々は本当の意味での力を持つことができるのではないでしょうか。
最後に、国家と教会という問題について申し上げたいことがあります。神様にばかりブレーキ役を押し付けていいのだろうか、ということです。我々は神に属する民です。神の平和の証人として、我々は「そうではない世界」を提示していく必要があるのではないでしょうか。 この世界とこの国が少しでも御国に近づいていくために、我々自身と社会の在り方について、しっかりと考えていきたいと思います。(2021年10月10日主日礼拝説教要旨)

光り輝く神の子  2021年8月1日


フィリピの信徒への手紙2章12~18節
 中学生のころ、音楽の先生が私のことを「神の子」といっていました。私の家が教会だとみんな知っているので、そんなことをいっていたのでしょうが、私は恥ずかしいというよりも、神の子という呼称が嫌でした。というのも、神の子というのは、イエス様だけに与えられた呼び名であり、人間には使ってはいけないと思っていたからです。
 ところが、大人になって聖書を読んでみると、そうでもないことがわかりました。ローマやフィリピの手紙ではほとんどが人間に対して使われています。ニュアンスとしては、主イエスが神の息子であるのに対して、人間が神の子と呼ばれる場合は、神に属する者、あるいは、神の恵みを受け継ぐ者、といったような意味です。とはいえ、やはり聖書が我々人間のことを「神の子」と呼ぶ場合、そこには特別なものがあることを意味します。それは神の子としての「責任」を帯びている、ということです。
 12節では神様への従順を貫きなさい、という勧めがありました。神への従順は、神の特別な救いに対する応答であり信仰者の特別な責任です。神の義を求め、恐れながらも神がお喜びになる行動を主体的に選択していく。そういう教えです。
 14節「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。ただ我慢しろ、文句言うな、という低次元の教えではありません。キリストの十字架における御苦しみを思えば、不平や文句を言っていられない。伝道というのは大変だけれども、ただひたすらに、キリストの十字架に集中し、奉仕に向かうのです。それが信仰者に与えられた責任なのです。
続いて15節「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」。今は曲がったよこしまな時代だといいます。しかしそのようなところでこそあなたは神の子として輝くでしょう、と著者は言います。「キリスト者というのはこういうふうにものを考え、行動する」ということが一つの輝きとなって他者に伝わっていくのです。
これまでのことをまとめますと、二つの責任というものが見えてきます。一つ目は、キリストの十字架に応える責任です。この世の人たちは、キリストの十字架を知りません。しかし私は知っている。その中を生きている。そのような者は神に仕え、隣人に仕える生き方を選びます。言い方を変えると、礼拝と隣人愛(あるいは教会の現場では奉仕)です。
もう一つの責任とは、まだキリストを知らない人に対する責任です。伝道ということになります。キリスト教というのは最初から伝道ということが中心にありました。12弟子から、教会へ、教会から世界へ。その連鎖は、突き詰めていくとキリストを知っている者が、知らない人に伝える、ということに尽きます。
ここにいる我々は、誰もが神の子です。神の恵みを受け継ぐ子孫です。キリストの裂かれた皮膚から流れ出る貴い血潮が、我々を神の子孫につないでいるのです。その恵みに対する責任を、小さくてもいいから礼拝、隣人愛、伝道の形に変えて、輝かせたいと思います。
(2021年8月1日主日礼拝説教要旨)

     

今や、恵みの時  2021年7月25日


コリントの信徒への手紙二5章14節~6章2節
 先週の礼拝では、ローマの信徒への手紙を読みました。そこでパウロは、保守的ユダヤ人が救われないという悲しみを訴えていました。今日のコリントの信徒への手紙では、それとは別の悲しみが書かれています。パウロとコリント教会との間に生じた亀裂です。よく知られていますように、パウロはコリント教会設立における中心的な人物です。しかし、パウロが巡回伝道をしている間に、コリント教会に異質な福音が流入し、大きな混乱が生じました。
 そのような状態のコリント教会に対して、パウロはキリスト教の基本的な教えを繰り返して書いています。今日の14節、15節、21節を読むと、キリストがすべての人の罪を贖うために死なれたこと、信仰者はその恵みに応え、自分のためではなくキリストのために生きることなどが書いてありました。とりわけ「一人の方がすべての人のために死んでくださった」と二回も書いています。このような「強調」は、コリント教会の一部の人たちが、そこから離れた福音理解に近づいていたことを示唆します。キリストの十字架と自分の罪とを結びつけないような教えが流入していたのではないでしょうか。キリストと自分が結びつかない者は、いつまでも自分のままの自分、古臭い自分のまま生きていることになります。ですからパウロは17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。というのです。
 18節~20節にかけては、「和解」という言葉が5回も出てきます。和解しなければいけないということは、逆に言えばそこに不和がある、ということです。
 このように5章全体として、どちらかといえばネガティブな状態のコリント教会への言及が多かったのですが、6章に入るとパッと明るい記述が飛び込んできます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。この高らかで、力強い宣言の根拠はどこから来るのか。イザヤ書49章8節からの引用です。バビロニア帝国に連れて行かれ、長く苦しみの時代を過ごしたイスラエルの人に、ついに祖国に帰る日が来ました。イザヤはその喜びを預言として宣言しているわけですが、パウロがこの喜びの告知を、あえて関係がギクシャクしているコリント教会への手紙に引用した理由は何だったのでしょうか。それは、長い間神からは離れていた人たちにも、恵みの時、救いの時がやってくる、というメッセージを伝えるためです。あのバビロン捕囚の人々は、異国の地で真の神礼拝をつづけ、信仰と希望が増し加えられていきました。恵みなき時に恵みはやってくるのです。救いなき時に、救いは訪れるのです。
 パウロの熱い思い、祈りは新約聖書に織り込まれ、今の我々にも届けられています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。いかにわたしたちが神から離れ、正しい神信仰や生活を保てなかったとしても、神様は見捨て給いません。神様は必ずや恵みの時、救いの日へと招いてくださいます。我々はただあぐらをかいてその恵みを待つのではなく、真の礼拝をし、聖書を通じて正しく福音を受け取り、この世のあらゆる引力を断ち切り、神へ、神信仰へと向かっていかねばなりません。十字架の贖いによって生かされている感謝を胸に、信仰者として恵みの時、救いの日へと歩み続けたいと思います。(2021年7月25日主日礼拝説教要旨)

我らは神の民となる  2021年7月18日


ローマの信徒への手紙9章19~28節
 この手紙で、パウロは心に大きな痛みを訴えています。それはこの世には救われる側と救われない側がある、という事実です。主イエスの時代でもそうでしたが、保守的なユダヤ人というのはどこまでも頑固です。パウロたちがどれだけ懸命に主の福音を伝えようとしても、彼らは耳を傾けようとしないのです。ただそのことについて、パウロが興味深い言葉を語っています。「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。ある人が福音を信じてキリストを受け入れる、キリストを受け入れないということは、実は神の自由な選びによるものだ、というのです。パウロは「なぜ彼らは信じようとしないのか」という入口の部分については「神様の選びなのだから」としてそれ以上立ち入らず、その代わり出口部分について期待をかけています。
 そのことは22節~23節に書いてあります。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」神は滅びに向かう者を寛大なる御心で耐え忍んでおられ、憐みの器となる日を待っておられる、というのです。
 ただし、この「寛大な心」とはギリシア語マクロツーミアといいまして、私は個人的に「寛大な心」と訳すより「辛抱強く待ち続ける心」と訳す方がよいと考えております。といいますのも、マクロツーミアのマクロは「長い」を意味し、空間的概念よりも時間的概念として捉えるべきだからです。神様は滅びの器となっているユダヤ人たちを、すぐに罰したり滅ぼしたりなさらず、長い時間耐え忍び、戻って来るのを待っておられるということです。
 ローマの信徒への手紙におけるパウロの主張では、もともとユダヤ人の歴史は神様の歴史と一致していました。しかし神から離れて、自分勝手な神解釈、律法解釈に沈降し、別の歴史を生きるようになりました。そんなユダヤ人が、また戻って来て悔い改め、神の民となる。それを神は長い時間、待っておられるのです。
 神のマクロツーミアは、当時のユダヤ人だけでなく、我々にも当てはまります。キリスト者の国籍は天にある、と聖書に書かれているように、我々はもともと神の民でした。しかし、そうとは知らずにこの世で自分中心の人生を送っている。罪を犯し、それがたいした問題ではないかのように考えています。そんな我々を、イエス・キリストが十字架をもって贖ってくださったことも信じない。このような我々と、福音を受け入れないユダヤ人とは根本的に同じです。どちらも、神から離れて生きている者たちです。そんな我々を、神様はマクロツーミア、長い時間、忍耐を持って待っておられます。本書の後半で書かれていることは、受洗者はとにかくよい生き方をしなさい、ということです。滅びの器が憐みの器に造り変えられたのだから、感謝をもって、その恵みに相応しい生き方をしなさい、と繰り返し書かれています。そのことを通して、周囲の人間は神の福音を知るようになる、というのです。私たちは一人一人が神の民であり、神の福音を盛る、素晴らしい器なのです。(2021年7月18日主日礼拝説教要旨)

     

虚しい言葉に頼るな  2021年7月11日


エレミヤ書7章1~11節
 サラリーマンをしたとき、わたしは二つの会社を経験しました。一つは東京の内装施工会社でした。当時はバブル崩壊直後でどの会社も苦しく、原価割れする仕事も引き受けざるを得ませんでした。退職後、わたしがかかわった下請会社が倒産したことを新聞で知りました。下請け会社の社員たちを思い出し、何とも言えない気持ちになりました。
 その次に、群馬県の小さな出版社に勤めました。与えられた仕事は、未収金回収担当でした。どの社長も、わたしを見るとゴキブリでも見るような顔をしました。しばらくすると、仕事が虚しく感じるようになりました。何を甘いことを、と言われるかもしれませんが、当時の私は「世間の言葉」がわからなくなっていたように思います。
そんな私にとって、唯一心の平安を得るのは教会でした。この世の人とは通じなくても、教会の人なら通じるのです。何も言わなくても、一言二言話すだけで、十も二十も分かり合えるような気がするのです。わたしは教会に「言葉」を求めていたのだと思います。
今日はエレミヤ書を読みました。エレミヤは、ある意味で神の言葉が通じなくなった人々に対し、まさに神の御言葉を通して語り掛けています。当時の人々はエジプトとバビロンに翻弄され、苦しい時代を過ごしていました。そんな中、神殿での礼拝には熱心でしたが、それが中身の伴わない虚しいものであった、とエレミヤは告発します。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」。「主の神殿」を三回唱える形式は、異教の呪術のようなだった、ともいわれます。神の言葉ではなく、人間世界の中から探してきた、無意味で虚しい言葉に寄り頼んでいたのです。
少し戻って3節を読みます。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる」。「お前たちの道を正せ」というのは、正しい神礼拝を取り戻せ、という意味です。この世で見つけた虚しい言葉に頼らず、神の御言葉がきちっと語られる、神の御言葉が通じる礼拝に戻りなさい、といわれるのです。
3節には「行いを正せ」ともありました。それは5節にあるような「寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず」そういう愛のある生き方です。「道」と「行い」。この二つはつながっています。まずは、礼拝でしっかりと真の御言葉を受け取ること。そこで神の御言葉と出会った者は、感謝をもって外国人、寡婦、孤児など弱い立場にある人々に向かうのです。
 わたしたちを惑わす虚しい言葉はたくさんあります。呪術、とまではいかなくても、たとえば風水だとか、スピリチュアルだとか、いかがわしい宗教、そういう怪しいものもあれば、もはや常識となっているこの世のしきたりや感覚もそうです。家族や友達に言われた一言だって、自分を支配する言葉になりえます。どれだけ魅力的に見えても、それが自分の人生に良いものに感じられても、永遠の救いを給う、神の御言葉と比べることはできません。わたしたちは、混乱の中にあるときほど、苦しみの中にあるときほど、冷静にならなくてはいけません。何がわたしを生かすのか。何がわたしという存在に意味を与えるのか。それは、世の虚しさの中にあらず、神の御言葉にのみあるのです。(2021年7月11日主日礼拝説教要旨)

人のために祈る  2021年7月4日


テモテへの手紙一2章1~8節
 本日読みました聖書はテモテへの手紙一です。これは牧会について書かれたものであり、伝道者テモテ個人に宛てられた手紙でした。しかしこれが、広く一般に読まれるようになりました。そこに、牧会というのは、牧師一人ですることではなく、教会のみんなでするものなのですよ、という著者のメッセージが込められています。
 ではその牧会はどこから始まるか。それは礼拝です。私たちは日曜日ごとに礼拝をささげ、そのなかで御言葉の養いを受けます。この御言葉によって、我々は主に牧される羊としての命を得るわけです。しかし礼拝の中で重要なのは説教だけではありません。賛美も祈りも大変重要な要素であり、それぞれ牧会的要素を持っています。特に説教前の祈りは「牧会祈祷」と呼ばれ、牧会的性格を持つ祈りです。祈り手の個々人の思いもそこに現れますが、教会の信仰や方向性をも含まれる、重要な祈りです。これを神奈川教会では信徒が行っていますが、これは宗教改革で得た権利であるともいえます。
その牧会祈祷について、1節では「祈りと願いと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とあります。「祈りと願いと執り成しと感謝」は4つあわせて執り成しの祈り、という意味です。祈り手は個人かもしれませんが、教会全体として、他者を重んじ、他者のために祈りをささげる相互牧会的な姿勢が必要だ、というメッセージです。
 4節、5節、6節は、神と人との仲介者であるキリストが、自らを犠牲にして人々に救いを与えられた、ということを書いています。いつも申していますように、キリストの働きにはいつも他者性が現れています。そして著者も、キリストを知らない異邦人のために働いています。やはりここにも、他者のために働く教会の責任が書かれています。このように、キリストの恵みも、キリスト教会の働きも、どこを切っても他者性というものが見えてきます。キリスト教の本質といっていいです。受けた者を他者に、という方向性は、教会の営みと信仰の中心にあるものなのです。
 私は今日の聖書を読んで、神学生のころに通っていた教会の役員を思い出しました。一風変わったお祈りをするので今でも印象に残っています。「いつも」「絶えず」「常に」という言葉を入れて、短く祈るのです。教会の伝統とは違うある意味で自己流の祈りですが、彼の心の愛がその祈りには表れていました。その人は、貧乏な私をよくレストランに連れて行ってくださいました。食べる直前にも熱心な祈りをささげるものですから、ちょっと周りの目が気になったりしました。まさに8節にあったように男は怒らず争わず、清い手を上げてどこでも祈る、そういう人でした。わたしはその役員と出会ってから、自分のことよりも、他者のことを祈る割合が増えていきました。
 わたしたちは、祈る教会、祈る信徒でありたいと思います。まず最初に祈るのは自分のことです。そして、自分たちのことを祈ります。自分たちの罪についても祈ります。神の栄光を祈ります。そして、他者のために、世界のために祈り続けたいと思うのです。(2021年7月4日主日礼拝説教要旨)
     

互いに持ち寄って  2021年6月27日


使徒言行録4章32~37節
 使徒言行録は、この世で初めて教会がスタートした時の記録です。使徒言行録を読むことで、できたばかりの教会がどういう姿だったのか、ということの一端を知ることができます。そこには「信じた人々の群れは心も思いも一つ」であったとあります。共有主義です。我々は国籍が一緒、学校が一緒、会社が一緒、といった単位の群れを生きることが多いです。それらは外面的な要素で一致している集団です。一方、教会というところは、信仰という極めて内面的な事柄で一致しています。それぞれは内面の深い所で神に通じており、信仰という内面的財産を分け合っている集団です。そこにとても強い一致があります。
 では、キリストにおける一致を歩む者は、具体的にどのような生き方をするのでしょうか。今日の聖書には「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された」とあります。あらゆるものの共有です。教会の外では、全く違う生活であっても、教会の中だけは平等で、共同の豊かな世界が広がっていたのです。
これは理想的な教会の姿かもしれません。今日の教会では、土地や財産を売って教会に献げる、というケースは稀のようです。やはり自分の生活があり、人生設計があります。家族や親戚との関係もありますから、そういうことは難しいでしょう。しかし経済や物的資産を共有することが難しくても、もともとの内面的な信仰の共有は大切にしたいものです。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」とありますように、彼らが共有していたのはまさに信仰であったということです。神様に愛されているという感謝や、キリストに従おうという信仰です。そういう目には見えない内面の部分を、献金や奉仕という具体的な形に変えて教会に持ち寄るのです。
私も大変お世話になったある牧師は、お若いころ開拓伝道に燃えてある教会の創立を担いました。初めのころは信徒も二、三人で、先生も大変貧しかったそうです。けれども、ある信徒が毎月毎月、決まってお米を持ってきてくださるのです。その方は、お米が手に入ると、まず牧師のために、と分けておいて、残った分を家族でいただいたそうです。それが本当にうれしかった、そして本当に助かった、と先生はしみじみおっしゃっていました。
献金をささげる時に重要なのは、額ではなく、思いです。この献金が、わたしの代わりとなって神の業に生かされますように、という熱い祈りの中でささげられた献金を、神様はきっと大いに喜ばれることでしょう。
 神奈川教会は神の国に向かって進む一艘の船みたいなものです。乗組員である我々は、この船がこの世の波風に止まらないで、しっかりと神の国というゴールにたどり着けるよう、働きたいと思います。そのためには、皆さんお一人お一人の力が必要です。コロナの今こそ、力と思いを一つにしたいと思います。そして、この船に乗る人が一人でも多くなるようにと願いつつ、これからも航行を続けてまいりたいと思います。
(2021年6月27日主日礼拝説教要旨)

     

地の塩、世の光として  2021年6月20日


マタイによる福音書5章13~16節
 この教会に赴任して間もないころ、私の不注意な言動から、幼稚園の保護者を傷つけてしまったことがあります。そのときに「あなたも教育者でしょう」といわれて、どきっといたしました。幼稚園の保護者や地域の人から見れば、私は牧師ではなく教育関係者です。私は園長としての自覚が足りていなかったことを痛感させられました。
 我々は普段、人から「あなたは何々だ」といわれることはあまりありません。反面、面と向かって「あなたは何々だ」といわれると、相当大きなインパクトを受けるのではないでしょうか。マタイ福音書の23章で、主イエスがファリサイ派たちに「あなたたちは偽善者だ」といわれるところがありますが、ファリサイ派たちは自分たちほど正しい人間はいないと思っているので、偽善者だなどといわれると、これは相当に頭に来たのではないかと思います。
 今日の聖書では「あなたは地の塩、世の光である」と主イエスは言われました。これは良い意味で相当大きなインパクトを与えた御言葉だったのではないでしょうか。
 塩というのは昔も今も、料理する上で必要な素材です。塩加減一つで料理が素晴らしいものになったり、台無しになったりするのです。それゆえに、主イエスが「あなたは地の塩だ」といわれるとき、あなたという存在が、世の中を素晴らしいものにする、ということなのです。これも一つの他者性です。これは、存在の価値を断定する御言葉です。「世の光」も同じような意味です。あなたという存在が、あなたの周囲を明るくする、と主は言われるのです。
 今まで自分ではそう考えたことはないけれど、我々は誰かを笑顔にしたり、元気にさせたり、明るく照らしたり、そういう存在であると主は言ってくださいます。私が神学生だったころ、ある後輩がいまして、いつも一人で暗~い顔をしていました。そんな彼があるとき、私のところにやって来て「兼清さんを見ていると、何か楽しそうで、なぜか僕も元気出るんです」と言われました。まともに話したこともないのに、そんなことを突然言われたのですから驚きましたが、私はその後輩にとってほんのちょっと地の塩になってたのかな、と思います。
 ところで、今日の御言葉の聴衆は誰だったでしょうか。この話の直前には「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は、幸いである」というあの御言葉がありますから、聴衆はまさしく心に傷を負い、悲しみを抱える人たちでした。病人や障害者や差別を受ける者がいたかもしれません。お前は邪魔者だ、役立たずだ、などと世の中から負の断定を投げつけられた人たちです。主イエスは、そのような人たちに対して「あなたは地の塩です。あなたは世の光です。(誰が何と言おうとも)」と固有の存在として承認してくださるのです。
 ですから、我々はもっと自分という存在に自信を持つべきです。この世において価値ある人間として存在しているということを、主は断定してくださっています。そして、我々はしばしば隣人の価値を棄損する言動をとってきたことをも認めなければなりません。今まで我々の心無い言葉や行動によって傷つけてきた隣人も、豊かな塩味を持ち、誰かを明るくする輝きを持っていることを、忘れてはなりません。皆が主の承認と祝福の中にあるのです。その感謝と喜びをもって生きてまいりたいと思います。(2021年6月20日主日礼拝説教要旨)

     

本当の豊かさとは  2021年6月13日


コリントの信徒への手紙二8章1~9節
 バブルのころ、大学生だった私はある友達にファミリーレストランに呼び出されました。聞けば「絶対に得する会員権があるから入会したほうが良い」という話でした。典型的なねずみ講でした。もちろん断りましたが、友達にそんなことはやめた方がよい、とは言えませんでした。大学生がそんな犯罪みたいなことに毒されてしまう。「豊かさ」ということについて、社会全体におかしな空気が流れていました。本当の豊かなこととは何か、それをわたしたちはなかなか掴めずにいます。
 キリストの昇天後、教会がスタートしたのはエルサレムでした。しかし、エルサレム教会は次第に資金繰りに困るようになりました。困窮するエルサレム教会のことを聞いたマケドニア教会は、何とかして支えようとしました。しかし彼らとて他者を助ける余裕はありません。「彼らは大きな試練・艱難の中にあっても、有り余るほどの喜びと貧しさの深まりとが、奉仕の心の中にあふれていました」(2節・私訳)となります。マケドニア教会は「貧しさの深まり」と「有り余るほどの喜び」とが同居していた、というのです。なぜ、彼らは貧しかったのに「有り余るほどの喜び」に満たされて献金をささげたのか。その理由は9節に書いてあります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
 すべてにおいて豊かであったキリストは、限界のある人間となられ、最終的には死という貧しさを引き受けられました。キリストは虚しくなられ、我々は豊かになったのです。その福音をマケドニア教会の信徒たちは知っているのです。ですから、彼らが貧しさや虚しさの中に沈降していくとしても、有り余る喜びがそこにあるのです。彼らは本当の意味での豊かさを知っています。
 パウロはコリント教会が信仰や知識、熱心さなど伝道するための多くの点で豊かにされていると、評価しています。ただ一点、足りないところがあるとすれば、それは慈善の業です。慈善とは、自らを犠牲にして他者に仕える態度です。本当の豊かさに生きる人は、こういう人のことを言うのです。
 カウンセリングの仕事をしていたある女性が「わたしは日曜日に礼拝に行かないと、次の一週間を過ごすことができない」と言われました。驚きました。彼女はいつも明るくてそうしたストレスとは無縁のように見えたからです。今日命を絶つかもしれない人のために、彼女はいつだって電話を取り、面会をしました。24時間懸命になって走り回っていました。そんな彼女は、週日の歩みの中ではいろいろと失ったり削られたりするのでしょう。しかし日曜日の礼拝で豊かな者とされ、また週に戻っていくのです。それはまさに、キリストにおける豊かさを持った人間の姿です。
 本当の豊かな人間とはどういう人なのか。それを今日の聖書から教えられました。キリスト共に生き、他者のために自分を虚しくできる人です。パウロは、コリントの人々にぜひそうあってほしいと願いました。そして我々もまた、そうでありたいと思います。
(2021年6月13日主日礼拝説教要旨)

神を求めて生きよ  2021年6月6日


使徒言行録17章22~34節
 聖書が書かれたとき、ギリシア・ローマでは、ヘレニズム文化が華やいでいました。アテネの街では新しい哲学的思想や神観などが世に出ますと、知識人たちはこぞってその思想について議論をしました。そこで、ギリシア人たちがふと気づいたことがあります。「これまで誰にも知られていない神が、どこかにおられるのではないか。もしその神を拝まないでいたら怒るのではないだろうか」。そこで彼らは、「知られざる神」のために神殿を造り、名前もわからない、どんな神かわからない誰かを、礼拝していました。
 パウロはそのような人たちに、真実なる神を伝えたい、と思いました。それでアレオパゴスの大通りの真ん中に立って説教を始めました。「アテネの皆さん、これまで知られざる神という名前を付けて拝んできた神は、実は天地万物の創造者なのだ」。「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」。パウロは、あくまでも神は創造者であり、この世のあらゆる被造物と混同してはならない、といいます。
パウロは「季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになった」ともいいました。居住地の境界というのは、人が住める場所とそうでない場所という意味です。神は海と大地を分けられ、住む場所を与えてくださった。このように人間を祝福しておられる、と語りました。
 以上は旧約の話です。続いて新約の話に移ります。「神は一人の方によって、この世を裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになった」。キリストの復活において永遠の命が与えられるとパウロは言います。
 天地万物を造られ、人間を造られ、季節と自然と住む場所を与え、さらには終わりの日に救いをも与えてくださる神様を礼拝しましょう、とパウロは言っています。裁きや怒りを回避するためではなく、天地と命を創造してくださった神に、そしてキリストによる救いを与えてくださった神に、感謝をもって礼拝しようというのです。
わたしたちはこれまで、何度間違った神を求めてきたことでしょうか。神ではないものを神だと思ったり、自分にとって都合のいい神だけを探してきたこともありました。それは、神について何も知らないのと同じ、何も求めていないのと同じことです。パウロは「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいました」といっています。何も知らなかったわたしたち、いや知っていても、真剣に救いを求めようとしなかったわたしたちを、忍耐を持って待っておられるというのです。それゆえ、わたしたちは今までの自分を悔い改めて、一層真実の神を求め、またこの真実なる神を礼拝していかねばならないのです。
 そのためには哲学に没頭したギリシア人にのように、複雑に考える必要はありません。たくさん本を読む必要もありません。一冊の聖書、そしてその中に書かれている、十字架と復活のキリストがあなたを罪から救う。このたった一つの真実だけを信じればいいのです。これからも、聖書に記された真実なる神だけを求め、礼拝して参りたいと思います。
(2021年6月6日主日礼拝説教要旨)

     

神の選びと計画  2021年5月30日


エフェソの信徒への手紙1章3~14節
 アメリカで奴隷となった人たちの思想や信仰について深く掘り下げた「黒人霊歌とブルース」という本があります。そのなかに「somebodieness」という言葉が出てきます。日本語で「ひとかど性」と訳されます。ひとかど性というのは、自分は神から見て特別な、価値ある人間(ひとかどの者)であるという意味です。
 この「ひとかど性」というのは、今日読みましたエフェソの信徒への手紙にも出てくると思うのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)。宇宙の片隅に存在するこの小さなわたしの命をも特別に思い、天地創造の前から救いの計画に入れてくださっていたというのです。ここでいう選びというのは、選ばれる者、選ばれない者という他者との比較ではなく、「あなたには救われるだけの価値がある」という絶対的な「ひとかど性」においてなされます。
 ところが手紙の著者は2章で「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)、「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(3節)として、我々は罪のゆえに命としての価値を失っており、生まれながらにして裁きを受けるべき存在であった、と告発します。およそエフェソの2章は、1章と正反対のことを書いています。
 いつも申していますように、神様は裁く神であられます。我々は生まれる前から救いの中に入れられていた、という御言葉の前に、生まれながらにして神の怒りを受けるべき存在であった、という告発を聞かねばならないのです。
 しかし注意深く読めば、「以前は・・・死んでいた」「以前は肉の欲望の赴くままだった」と著者は「以前」を強調しています。そこに何があったのか。エフェソ2章と1章の間をつなぐ歴史の転換点に何があったのか。それこそが、イエス・キリストの十字架の贖いです。もう一度1章4節を読みます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。1章7節も読みます。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」。このように「あなたは生まれる前から罪人だったけれども、生まれる前から救われていた」というエフェソのメッセージは、キリストの愛、神の愛という一点において矛盾しないのです。
 手紙の著者は13節でこういいます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。かつて奴隷たちは、そうであることを示す焼きごてを押されました。それは一般市民としての価値を持っていないしるしでした。しかし、そんな奴隷たちはイエス・キリストによる見えざる証印が押されていることを信じました。「あなたは神にとって特別な、ひとかどの者だ」という聖書のメッセージを聞いたからです。その宣言は、今の我々にも届いています。我々が自分という者に価値を見出せないとしても、「あなたはひとかどの者だ」といってくださる主のメッセージを聞きたいと思うのです。我々は、どんなに罪深くとも救われて天国に挙げられるべき、価値ある存在だと、主は言ってくださるのです。(2021年5月30日主日礼拝説教要旨)

     

罪をお赦しください  2021年5月23日

詩編51編3~11節
 今日はペンテコステ礼拝です。なぜ詩編51編をペンテコステ礼拝で読むかというと、それは教会という共同体が、罪の赦しと深く関係しているからです。使徒言行録でいえば、あれほど神に背いたパウロが神の霊に打たれて信仰者となっていく。それが教会の設立につながっていきます。そこには赦しというものがありました。同じく弟子たちにしても、キリストを裏切って逃げ去った過去が赦されて、教会との指導者となっていきました。このように、教会の設立と罪の赦しは非常に密接につながっているのです。違う表現をすれば、教会は神の愛と憐みの上に立っている、ということができます。今日は詩編からそのことを学びます。
 詩人は「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」と告白します。この詩人は自らの罪について(品のないたとえで申し訳ありませんが)吐しゃ物のようなものに感じているのではないでしょうか。醜い内面から吐き出された、極めて恥ずかしい、誰にも見られたくない、自分でも見たくない、そういうものです。それは決して健康的とはいえない、詩人の内面を反映しています。その点、我々は自分の罪というものをどう考えているでしょうか。この詩人のように強烈で、突き刺さるような罪意識を持つことはあるでしょうか。我々は自らの罪というものをあまりにも矮小化して、簡単にそこを通り過ぎてしまっているのでしょうか。
7節に「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」とありました。生まれる前から罪の中にあった、というのは絶望的な告白です。しかし、この絶望の中でこそ、詩人は救いの光を発見するのです。
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように」ヒソプというのは、人を清める力を持つ草のことで、これで人の体をなぞると、病気が治ったり、穢れが清められたりすると考えられていました。詩人は、神様だけが醜い自分の罪を拭い去ってくださることを信じています。
もし我々が詩人のように、絶望的で、根源的で、恥ずかしい、おぞましい、自分の罪というものを認識したならば、繰り返してお赦しください、清めてください、と祈ることになるはずです。ただし、詩人は「ヒソプ」による救済を祈りましたが、我々は違います。イエス・キリストによる救いを祈り求めるのです。4節の「ことごく」とは何度も何度も、という意味です。ヒソプは一度で罪を清めることができず、繰り返す必要があります。しかし主イエスは一度でいいのです。たった一度の、十字架と復活の出来事が我々の罪を赦し、命を贖うのです。
教会というところは、クリスチャンが集まるところです。しかし別の言い方をすると罪人が集まる場所、といえます。それゆえ教会は赦しの場所でもあるのです。ここに集まる一人一人の罪びとが、真剣に自己を振り返り、その醜い罪を認識し、心から神に懺悔の祈りをささげることにおいて、キリストによる赦しを受けるのです。
そのために、我々は御言葉を聞きます。御言葉によって醜かった内面が清められ、輝く主の栄光によって歩み始めるのです。そしてこの教会から、罪の赦しを得させる神の御子を証するために出かけていくのです。(2021年5月23日ペンテコステ礼拝説教要旨)

心の目を開いて  2021年5月16日


ルカによる福音書24章36~49節
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書における、最大の関心事は「十字架につけられたキリスト」と「復活されたキリスト」です。前者のキリストは、苦しみの中で我々の罪を担い、痛みの中に死んでいかれるキリストです。我々の過去を直視させ、自分がいかに罪深いものであったかを知らしめるキリストです。一方、後者の復活されたキリストは、明るい天の輝きに満ち、我々に赦しと永遠の命という約束を与えてくださいます。そしてこのキリストは、我々の目を過去ではなく未来に向けさせ、御国に向かって歩む力を与えられます。それゆえ、我々は両方のキリストを見なければなりません。
聖書によれば、愛する主のもとから逃げ去った弟子たちは、ある場所に集まっていたようです。そのとき、彼らは過去の自分の罪というものを見つめていたのではないでしょうか。自分も主イエスと同じように鞭打たれ、同じように十字架につけられていたかもしれないのに、自分はあの場にいなかった。その事実は、嫌でも自らの罪深さを認識させたはずです。そこに、復活の主はお姿を現されます。興味深いことに、その際主は魚を食されています。十字架で死なれた主が、今魚を食されている。弟子たちの目は過去から急速に今へと向かいます。
さらに45節で「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」とあります。キリストは、信仰的にぼんやりしていた弟子たちの心の目を開かれました。自分の未来像が描けない彼らが、これからどうすればいいかをしっかりと理解していくためです。
46節では「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」といわれます。かつて十字架前の主イエスは、病人や障害者の癒し、愛の行い、御言葉などを通して神の救いが実現することを告げておられましたが、弟子たちはそれを理解できませんでした。しかし今は違います。復活された主が目の前におられます。弟子たちにとって、目の前で魚を食される主のお姿は、神のお約束が実現することの何よりの証です。神の救いに関する、否定できない事実です。
さらに主は47節で決定的な御言葉を語られます。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々に宣べ伝えられる」。これは紛れもなく未来のことです。その業を担うのは弟子たちです。復活された主は、新しい弟子たちの生と、新しい神の歴史の両方をお見せになり、その結合を宣言されるのです。
ここで忘れてはならないのが罪の赦しです。主を裏切った彼らはその主によって赦され、新しい命を得ました。そして心の目が開かれて、未来の自分たち、未来の世界を見ることができました。我々はどうでしょうか。我々も信仰的な鈍さによって、これからをどう生きればいいのか、わからないでいるのではないでしょうか。それゆえ、我々は復活の主によって、心の目が開かれ、罪の赦しとしの復活が実際に起こったこと、そのことを通して、これからの自分がどう生きればいいのか、それをしっかりとつかんでいきたいと思うのです。キリストの愛に根ざし、御国を語る証人として生きる。それがこの地上を去るまで、我々が歩むべき道です。(2021年5月16日礼拝説教要旨)


キリストの祈り  2021年5月9日


マタイによる福音書6章5~15節
 今日の聖書はいわゆる主の祈りの部分です。ルターは「キリスト教の最大の殉教者は主の祈りである」と指摘しました。毎週毎週決まった通りに主の祈りを祈るうちに、内容への意識が薄れ、言葉だけが虚しく通り過ぎているのではないか、という懸念です。そこで主の祈りというものを改めて考え直してみると、そこには人々が忘れてしまっていた何かを思い出させるものがあると思います。神様と人間との結びつき、人が生きるということ、信仰を持つということ、そしてこの世界はどこに向かうのか・・・主祈りはそうしたことを思い出させます。
 まず主は、ファリサイ派や異邦人のようによい祈りを祈ろうとするな、といわれます。祈りは基本的に祈り手と神との関係で成立するものですから、「これを聞いている人はどう思うか」などの人からの評価は意味がありません。あなたの内面から人の姿を排し、ただひたすらに神に祈れ、というのです。これは非常に重要なことだと思います。
 わたしの理解では、主の祈りは「そうではない事実」があったことをうかがわせます。例えば「御名が崇められますように」という祈りは、今の地上がそうはなっていない、ということの反映だったのではないでしょうか。同じく11節の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りも、必要な糧が届いていない、という現実からの祈りです。貧しさや病、差別、そして暴力。そういったことのために今日の糧がない人のためにも「今日の糧を与えてください」と祈れと言われるのです。ここで「わたしたち」をとらえ直す必要があります。もしここに座っているわたしたちが、身体的にも、経済的にも、政治的にも今日の命を奪われないとしても、わたしたちの背後には今日を生きられない「わたしたち」が大勢います。11節を祈るときには、その人たちのことをも覚えたいのです。
 12節には「負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とありました。これも罪深い自分と、他者を赦すことができない自分がいることを示唆するものです。それなのに長い教会生活のために自分が赦されることは当然視し、他者を許すことはそのままにしています。このアンバランスさは「キリストの十字架」の忘却によるものです。本来なかったはずの「わたしの赦し」が十字架によって成し遂げられたのであるなら、「負い目のある人を赦しましたように」をどう考え、どう決断するか、それが問われる祈りです。
 13節は「わたしたちを誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」とありました。わたしたちが弱く、悪の支配を受けたままであることを示唆します。わたしたちはしばしば「弱い者ですから、罪人ですから」と「から」をつけて自分をごまかそうとします。そうではなく、「から」を付けずに自分の弱さと罪をしっかり見つめ直す必要があります。そのときに一つの事実に気が付くはずです。ここから救い出せるのは神しかおられない。この祈りは、自分というものを真剣に問い続けた者が到達する、一つの答えなのです。
 わたしは主の祈りを祈るとき、できるだけゆっくり祈ります。一つ一つの項目の内容を考えながら祈るためです。ぜひ皆さまも主の祈りを殉教者にさせず、神と自分との関係を取り戻すために、自分の生き方を問い直すために祈ってください。(2021年5月9日礼拝説教要旨)

     

キリストという道を歩む  2021年5月2日


ヨハネによる福音書14章1~11節
 冒頭で主は「心を騒がせるな。神を信じなさい」といわれます。この御言葉を、一世紀のヨハネ教会の人々は激しい迫害の中で聞きました。今のミャンマーや香港で起こっているようなことが、一世紀のヨハネ教会でも起こっていました。そのような人々の中で、「心を騒がせるな。神を信じなさい」という主の御言葉がこだまします。そして今の我々は、コロナという状況において、この御言葉を聞きます。「心を騒がせるな。神を信じなさい」。一世紀のヨハネ教会も、香港で戦っているクリスチャンたちも、コロナで苦しむこの世の教会も、みなこの御言葉が必要なのです。
 続いて2節では、「わたしの父の家には住むところがたくさんある」といわれます。主イエスが天国で我々の居場所を用意してくださるといわれます。続く3節では「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とあり、天国において主イエスとともなる安らぎがあるといわれます。このようにして、2節、3節で天国への言及が繰り返され、読者の視線は天国へと集中することになります。
 ところが4節で方向性が変わり「道」という言葉が登場します。道というのは、目的地への道程ですから、その手前にあるわけです。ここでトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」といいました。主が言われる天国が彼にはわからないのです。それは我々も同じかもしれません。でも「道」をしればそれでいいのです。
 天国については、ぼんやりと素晴らしい所、と思う人もありますし、よくわからないという人もあると思います。神学的には「神の支配の満ちる所」といった言葉で説明されますが、実は多くのクリスチャンも、ともすれば牧師たちも、よく掴み切れていないのではないかと思います。天国は非常に観念的だからです。その点について、主は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」といわれました。天国というものがイメージとして掴み切れなかったとしても、目の前の主イエスを道だと信じ、主の道を歩むならば、それが天国への道となるのです。
 ではキリストをという道を生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストが命じられたように、そしてキリストがそうなさったように生きることです。すなわち天の御神を信じ、愛をもって他者に接する。それがキリストの道を生きるということなのです。日本には剣道、柔道、茶道、華道、書道など、道が付く伝統活動があります。もともと道の「しんにょう」が道を表していて、そこに人の命を意味する首が行き来することによって道ができるということだそうです。先駆者が命をかけて切り開いてくれた道を、後に続く者が逸れずに間違わずに歩むことが必要です。キリスト教も同じです。キリストが命を懸けて、いや命を捨てて切り開いてくださった天国へ通ずる道を、後に続く我々も命を懸けて歩き続ける。逸れずに離れずにただひたすらその道を歩む。教会はそのような営みにおいてより強く、困難の中にあっても前進し続けるでしょう。そして我々自身も、その道の途中でよりはっきりと天国というものが見えてくるのです。(2021年5月2日礼拝説教要旨)

死すとも生きる者  2021年4月25日


ヨハネによる福音書11章17~27節
 聖書の登場人物にもいろいろありますが、死んでから復活したというラザロほど強烈なインパクトをもたらした人物も珍しいでしょう。それなので復活したことがクローズアップされがちなラザロですが、より重要な証言が11章5節にあります。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。ラザロがどういう人物だったか、福音書は彼について何も語っていません。それだけに「主が愛しておられた」という記述が光ります。この一言だけで彼の人生が実りあるものだったことが分かります。我々クリスチャンも主の愛の中に生き、主の愛において死んでいきます。そしてラザロに起こったことは、すなわち我々にも起こることです。我々も主の愛において、復活をする。その希望を、ラザロの物語は伝えているのです。
ラザロの死後4日たって主イエスがマルタの家に行かれたとき、マルタは主イエスに対してこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったことでしょう」。この言葉には「どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という気持ちが滲んでいるように感じます。我々も大きな苦しみを経験するとき、「どうして神様は助けてくださらなかったのか」と思います。実はそこに、不信仰が芽生えかけています。
しかしマルタは続けてこういいます。「あなたが神にお願いになることは何でも神は叶えてくださると、わたしは今でも承知しています」。重要な局面で、マルタは主によってラザロが復活すると信じました。なぜマルタは、不信仰から信仰へと引き戻されたのでしょうか。それは、主イエスの臨在を経験したからです。すなわち「私は復活であり、命である」といってくださる主が傍にいてくださることにおいて、彼女は信仰を取り戻したのです。
主は14節でこう言われました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである」。先ほどもいいましたが、我々は何かうまくいかないことがあると、主のご不在を感じ、救いや恵みを疑います。困難の中には、不信仰の種があります。しかし同時に、そこに信仰の種も埋まっているのです。我々は、目の前の困難をよく見なければならない。それが破滅をもたらし、希望を奪い、我々を虚無と死に向かるためのものなのか。それとも、我々を強め、新しい命を与える出来事となるのか。それをしっかりと見極めなければなりません。マルタは主によって信仰の種を見つけ出し、選ぶことができました。彼女はラザロの死が、虚無に終わらないことを知ったのです。それゆえ、今日の話はラザロの復活物語ではありますが、マルタの復活物語でもあるのです。
主は25節で、わたしを信じる者は死んでも生きる、といわれました。これはいわゆる終わりの時に、死んだ者も永遠の命を受けるという、復活の宣言でありますが、同時にこれは、今を生きる我々が死すとも死なず、という希望の宣言です。この世の旅路で、我々が虚無に、不安に、病に、貧しさに、罪に襲われるとも、キリストを信じる者は決して虚しさの中に死なない。我々の傍には、いつも復活の主がおられ、死を超える希望があると教えてくださるからです。主はマルタに、あなたはこのことを信じるか、と問われました。我々もその問いに、信仰をもって応えたいと思います。(2021年4月25日礼拝説教要旨)

魂は再び安らう  2021年4月18日


詩編116編1~14編
ダビデは国民に大人気の武将で、多くの戦果を挙げ、人望も厚く、まさに旧約聖書中屈指の英雄です。しかし彼の人生は意外にも孤独でした。愛する主君であるサウルに命を狙われ、ダビデのことを必死に守ってくれた親友のヨナタンとの仲もそのサウルに引き裂かれます。家族にも恵まれませんでした。最初の妻ミカルはサウルの娘で、最後までギクシャクしたまま離婚しました。その後新たに結婚した6人の妻との間に生まれた子どもたちは、互いに憎しみ合うようになり、死人まで出てしまいます。ダビデには多くの側女がいたようですが、本当の意味での家庭的な幸せ、安らぎというものは、彼にはなかったように思います。
 今日読みましたが詩編の著者は、そんなダビデの気持ちになって詩編を書いています。傷つき、血を流していた彼の心はどこに癒しを求めたでしょうか。それは天の御神です。
 「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう」。神の愛と詩人の信仰とが深い交わりの中にあることが示されています。「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。詩人は生きながらにして死を見つめています。彼にはもはや、地上のあらゆるものは助けになりません。それゆえに彼は神の御名を呼び続けます。
 詩人は7節でこういいます。「わたしの魂よ、再び安らうがよい。主はお前に報いてくださる。」最近出た協会共同訳ではこう訳されています。「私の魂よ、休息の場に帰れ。主はお前に報いてくださった」。疲れた彼の魂は、元居た場所に帰りたがっています。
 ダビデは非常に力強い男でした。もちろん肉の意味でもそうですが、彼の本当の強さは、肉の部分ではなく、霊の部分に宿っています。サウルから命を狙われ、ヨナタンとの友情を引き裂かれ、家族、息子たちとも分かり合えなかった。人間の愛が途絶えたところで彼が見たものは何だったか。帰るべき平安の地、天国と、そこにいます御神です。
 12節で詩人はこういいます。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」。これはすべてのクリスチャンが自ら問うべきことです。恵みに満ち足りているときにはその事実に気づきにくいものです。むしろ苦しみ悩みの中にあるとき、人は神の深い恵みを知るのです。こんなにもひどい状態にある私を、神様はこんなにも憐み、愛してくださった。苦しい者こそ、神の憐みを知るのです。それを知ったとき、自分はどうあるべきか。クリスチャンはそれを常に問い続けなければなりません。
 詩人は今日の詩編をこのように締めくくっています。「救いの杯を上げて主の御名を呼び、満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で」。救いの杯を上げてというのは、広い意味では礼拝のことです。主の恵みに感謝して礼拝に参ずる。そして満願の献げ物を主に献げる。献身と奉仕ですね。これに身を投じる。そのような生き方を神は求めておられます。
 幸せというのは、今その人が満ち足りているかどうかではなく、安らげる場所を知っているかどうか、ということではないでしょうか。我々は幸せ者なのです。主の恵みを覚え、献身と奉仕に生きる者でありたいと思います。(2021年4月18日礼拝説教要旨)

復活の命を幻に見て  2021年4月11日


イザヤ書65章17~25節
 先日妻がアレッポの石鹸というものを買ってきました。その石鹸は独特の香りと使い心地がとても素晴らしく、我が家ではお気に入りだったのですがシリア内戦で入手できなくなっていました。しかしこのほど久々に買うことができたので見てみると「シリア情勢が悪くなったため、一時的にトルコで石鹸を作ります」とありました。戦争のため外国に追いやられた人々の、故郷を思う気持ちに胸が痛みました。と同時に、バビロニア帝国から侵略を受けたエルサレムの人々のことを思い出していました。
バビロンに国を破壊され、捕囚された人々に向け、今日の聖書で神はこう語られます。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(17節)。黙示録にあるような、世の終わりと天地の再創造のことではなく、「新しい天と地」と呼ばれるべき捕囚後の世界が、神の御手によって展開されていくというのです。「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(19節)。ここに書かれていることは、戦争と正反対の国の姿です。バビロン捕囚の民がずっと憧れてきた平和な故郷の様子です。「彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる」(21節)。家と農地(あるいは仕事)というのは、古代の人たちだけでなく、誰にとってもこの二つは幸せな生活には欠かせないものです。そのような世界を、人々はイザヤを通して幻に見ています。亡くなった中村哲さんが荒廃したアフガニスタンで農耕を再開させたところ、多くの人が武器を捨てて農業に戻ってきた、ということがありました。神が天地を創造されたとき、武器は造られませんでしたが、土に関するものはたくさん造られました。要するに、人間というのはそういうふうにできているのです。
 神様は22節でこう言われました。「わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる」。一般論として木というのは大変寿命が長いです。従って、わたしの民の一生は木の一生のようになるという主の御言葉は、みんなが長生きできるくらい良い世界がやってくる、という祝福の御言葉です。
 単に寿命が長いというだけでなく、木は復活についてのイメージも持っています。たとえば、ノアの箱舟のとき、一旦破壊された世界が再創造されたことのしるしとして、オリーブの葉っぱが与えられました。新約聖書の手紙には、折り取られた枝が接ぎ木され、再生されるという話が載っています。強く、高く、豊かに枝葉を拡げる木というのは、多くの者に再生と復活の幻を見させるのです。今日のイザヤ書も、そのことを伝えているのです。
 バビロニアに侵攻された紀元前6世紀のパレスチナだけでなく、世界大戦、原爆被害、中東地域の紛争、大震災、そして今のシリアなど、ほんの一例ですが、我々は幾度となく、見ている世界が一面瓦礫となることを経験しました。しかしいつも神の憐みによって再生すること(ないし再生に向かうこと)ができました。わたしたちが忘れてはならないのは「あなたの一生は木のようになる」という御言葉を信じ、復活の命を幻に見て歩み続けることです。そして今苦しむ人たちのために、祈り続けることです。復活の主は、永遠に、わたしたちから離れることはないからです。(2021年4月11日礼拝説教要旨)

新しい命に生きる  2021年4月4日


ローマの信徒への手紙6章1~11節
 イースターおめでとうございます。コロナ禍中にある我々は今日、特別な思いをもってイースター礼拝を共に過ごし、復活の喜びを分かち合いたいと思います。
 先ほどローマの信徒への手紙6章を読みました。この部分は復活というより罪がテーマです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(6節)。我々の罪深き、古い自分は、キリストと共に十字架に磔(はりつけ)にされて死んだのだ、とパウロは言います。そして、キリストがこの世に来られたのは、旧約聖書の時代にアダムを通して入り込んだ原罪を、根源から取り除くためであった、というのです。
 パウロは「洗礼」についても新しい光を当てています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(3節)。我々が洗礼を受けるとき、罪が洗い流されるといわれます。それだけではなく、さらn二つの意味があるとパウロは言います。一つはキリストの死とのつながりです。我々が洗礼を受けたのはキリストに結ばれて、キリスト共に死ぬためだった、とパウロは言います。かつてはヨルダン川でざぶんと浸かって洗礼を行っていましたが、いつもお話ししますように水というのは死と直結するものです。従ってパウロは、あの浸かるという動作(バプテスマとは浸かるという意味)に罪の洗浄だけでなく、人の死そのものを見たのです。我々が洗礼を受けて水に浸かるとき、キリストの十字架とつながっていて、古い自分が死ぬのです。それは私自身でできることではなくて、キリストが成し遂げてくださるのです。これは当時のクリスチャンにとっても大きな発見だったのではないでしょうか。
 もう一つは何でしょうか。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4節)。我々が洗礼を受ける時、復活の主が死の水から我々を引き揚げ、新しい命を与えてくださるというのです。そのための洗礼なのです。そのことを結論的に示すのが11節です。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。
我々は、古い自分が依然として自分の中にいることを確認せねばなりません。洗礼を受けていても、罪を犯す自分と決別することは困難です。しかし今日の聖書にあるように、主が古い自分と一緒に死んでくださり、新しい復活の命を与えてくださったことを忘れてはなりません。
 長い間、我々は苦しみの期間を経て、今日イースターの日を迎えました。しかしコロナで大変だった、しかしこうして礼拝が復活した、という意味だけで今日の日を過ごしてはならないのです。罪多き自分が赦されて今ここにあるということ、そのことを土台としてこそ、我々と我々の愛する神奈川教会がこの死せるコロナ禍から復活を赦された喜びを、心から分かち合えるのではないでしょうか。復活の主と共に、教会も我々も新しい命に踏み出したことを信じて、前進していきたいと思います。(2021年4月4日イースター礼拝説教要旨)



     


  





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