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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

〒221-0832 横浜市神奈川区桐畑17-8

2017年度説教company


あなたはまだ眠っている 2018年3月25日

マルコによる福音書14章32~42節
 マルコによる福音書14章を読みました。この辺りでは、いよいよ主イエスの逮捕、処刑が避けられない状況になってきます。主は逮捕される直前、最後の晩餐をし、弟子たちにパンとぶどう酒をわたしてこういわれました。「これはわたしの体である。これは多くの人のために流されるわたしの血である」。十字架での犠牲死と、そのことによる人間の救いが語られます。
 主は最後の晩餐を終えると、ゲッセマネの園へ行かれ、祈られました。そのときのご様子はとても痛ましいものでした。33節「イエスはひどく恐れてもだえ始めた」、34節「わたしは死ぬばかりに悲しい」、35節「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」。必死になって祈られる主のお姿は、驚くほど弱々しく見えます。けれどもそれこそが主イエスが救い主であることを決定づけています。
主イエスは真の神であり、真の人です。主は人として、わたしたちの感じるべき死への恐れと肉の苦しみをその身に引き受けてくださったのです。真の神が、真の人となって、わたしたち人間の罪をすべて負って死んでくださったのです。そこにこそ真の救い主の姿があるのです。
 ところが弟子たちは、主のお痛みとお苦しみにあまりにも鈍感です。主が祈っている間、彼らは目を覚ましていられませんでした。主イエスは38節で「心は燃えても、肉体は弱い」といわれましたように、彼らはその弱さの中で信仰的な眠りの中にいました。しかし、主は「これでいい」といわれ、どこか弟子たちをお認めになっているような感じです。
 ここで注目したいのが「休んでいる」という御言葉です。マタイによる福音書11章29節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」の「休ませてあげようと」同じ単語です。人は疲れたから休み、休むから立ち上がれます。これは弟子たちに向かって、苦難の中にも教会が打ち立てられていく時代になる、そういう歴史に「立ちあがっていきなさい」という主のお勧めでもあるのです。
 わたしたちは、今日の弟子たちと同じように、いかに信仰をもっていても、主のみ言葉に従うことができず、肉の弱さに支配される、という本質的な弱さを持っています。いつも目を覚ましていることができないのです。ところが主は、そんなわたしたちを「眠っている、休んでいる、それでいい」といってくださいます。そしてそのうえで「目覚めなさい、立ち上がりなさい」わたしたちを後押ししてくださるのです。
 主イエスは多くの病を持つ者、生きる希望をなくした者、罪を犯した者を励まし、新しい命、新しい一歩を与えられました。つまり主イエスにあっては、わたしたちの弱さでさえ、新たな一歩を踏み出すための礎としてくださるのです。ですから、わたしたちはどんなに弱くても、鈍くても、眠っていても、福音に向かって立ち上がっていく新たな一歩を、主の促しに従って踏み出していくことができるのです。
 次週はイースターです。時が来た、立て、行こう。眠っていたわたしたちは、復活の希望へ向かって、目覚め、立ち上がっていくのです。
(2018年3月25日礼拝説教要旨)

     

十字架の勝利 2018年3月18日


マルコによる福音書10章35~45節
 ゼベダイの子、ヤコブとヨハネが主イエスのところにいってこう言いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、主イエスの活動初期からいる弟子たちです。けれども、主イエスを十分理解することはできなかったようです。本来、我々人間は罪深いゆえに、天の国にはふさわしくない者です。そんな罪の中に死せる我々が、主の十字架によって罪赦され、また、神の愛によって復活させられ、永遠に御国の住人とされるのです。ペトロとヤコブは、この恵みを「人の上に立ちたい」「人を支配したい」という人間的欲望の中で理解しました。
 そんなヤコブとヨハネに対し、主は「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問われました。杯やバプテスマというのは主のご受難と死のことを意味します。つまり、あなたがたはわたしが受ける苦しみや死を、同じように受ける覚悟があるのか、といわれるのです。彼らは即座に「できます」と答えますが、実際の十字架のとき、彼らは主イエスを見捨てて逃げ去りました。
 聖書は、大変強烈なコントラストでこのときの様子を描き出します。もし弟子たちがここまで止まりだったら、主の十字架は大変虚しいものになってしまいます。人の罪は罪のまま、罪人は永遠に罪人のまま固定されます。それはサタンの勝利であり、十字架の敗北です。しかし39節の後半で主はこう言われます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」。「〜ことになる」というのは、主の御受難の予告と同じで、必ず起こる、という意味です。ずっと後のことですが、彼らはすべてを投げ捨てて、教会を打ちたてていく者となります。伝承では殉教する者もあったといいます。それは、十字架が敗北ではなく勝利したことを証しするものです。
 主は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」といわれました。後に教会を指導するようになる弟子たちや、歴史上の教会に向けられた戒めです。勘違いし、思い上がって、自分の利益ばかりを求める。そういう傲慢な人間から、主の福音に仕え、すべてを捨てて奉仕に生きる者とされる。その驚くべき新生と転換をうながすものこそ、十字架と復活です。この十字架の勝利を証しする者は、弟子たちであり、教会であり、我々です。
 現在の我々は、弟子たちみたいにあちこちに教会を建てたり、命がけで伝道したり、そういうことまでできないかもしれません。わたしたちは小さいものです。小さい者なりに、誰かに仕える者になる、誰かの隣人となって働く。そういう生き方をわたしたちが選択するときに、主の十字架が勝利したことを証しすることになるのではないでしょうか。
この世的には負けたように見えることがあったとしても、わたしたちは負けていない。主において勝利の人生を歩んでいるのです。そのことを覚えたいと思います。
(2018年3月18日礼拝説教要旨)


     

約束は時間を超えて  2018年3月11日


マタイによる福音書17章1~13節
 ある教会におりましたとき、教会がある法人に敷地を貸しておりまして、その賃料を値上げしようということになりました。ところが契約書をあらためてよく見ると「この契約は20年間有効であり、特段の事情なき場合は破棄できない」と謳ってあり、まさにその期間中でした。その契約が結ばれたのはずいぶん前のことで、誰も覚えていなかったのです。反対に言えば、約束というのは時間が経てばいとも簡単に忘れられてしまう、ということなのです。
旧約聖書、新約聖書の約の字は契約の約で、聖書は全体を通して神と人との契約書ということになります。今日の聖書にモーセとエリヤが出てまいりますが、実は、どちらも神様との契約関係を示す重要な人物です。まずモーセについてですが、彼は神様から十戒と律法を与えられました。これは神様と人間との契約関係を示すきわめて重要なものです。そして時代が移り、今度は預言者たちが現れます。エリヤもその一人です。預言者の活動にもいろいろありますが、大雑把に言えば、契約を破った人間に対し、神に立ち返れと告げるのが預言者の仕事です。エリヤもアハブ王と妻イゼベル、そして違う神を信じる人たちを非難し、神への信仰へ戻るようにいいました。しかし彼らはその警告を受け入れませんでした。
 こうして考えると一つの筋道が浮かんできます。モーセによって結ばれた神との契約を、人々は忘れしまった。エリヤを含めて預言者たちがそのことを警告したが、人々は受け入れなかった。神様と人との間に立てられた契約は人間の不信仰により失われたのです。だから新しい約束が必要になるのです。新約聖書の主イエスによって立てられた約束です。
 イエス・キリストの約束は十字架、そして復活というものをもって示されました。十字架刑はゴルゴダの丘、誰もが見ることのできるところで行われました。そして復活についても、大勢の人たちに主はその復活の姿を表されました。つまり十字架と復活された主のお姿は、もはや消し去ることのできない救いの御業として、この世界と、我々の内面に深く刻み込まれたのです。600以上もの義務および禁止によって構成される律法の中身を覚えなくても、キリストがあなたのために死んでくださったということをさえ知っていれば、その人は神との正しい契約関係の中に置かれるのです。
契約というのは平等や対等という概念なしには結べません。しかし主イエスにおいてかわされた救いの約束はあまりに不均衡です。我々がどんな罪人であっても、一方的に、神の御子キリストの血によって救われる。この偏りのある約束について、せめて我々は神様への信仰、そして隣人への愛によって応えていきたいと思うのです。
神様からわたしたちに示された救いの約束は、無時間的、あるいは超時間的であると言えます。時間、時代、状況、といったことを超えて、必ず果たされる。神の約束は時間を超えて永遠に存続するのです。永遠を貫く神の約束に生きる者であるからこそ、残された時間を精一杯神と隣人のために生きていきたいと思います。
(2018年3月11日礼拝説教要旨)


自分の十字架を背負う  2018年3月4日


マルコによる福音書8章31~38節
 十字架が近づいてきたとき、イエス様は弟子たちに対し、受難の予告をなさいました。ペトロがそれを聞いたとき、思わずイエス様をわきにお連れして、いさめ始めはじめました。そこで主は「サタンよ引き下がれ」と言われました。ここについてはいろいろな解釈があると思うのですが、主はペトロそのものをサタン視されたのではなく、彼の中に潜むサタン性、すなわち、神よりも自分の思いを優先させる心を戒められたのだと思うのです。
 この話の前、ペトロは主イエスへの信仰を告白しています。模範的な信仰者の態度です。しかしその直後に叱責を受けているのは、どんなに正しく見える人でも、サタンの侵入を防ぐのは容易ではない、ということを示しているのではないでしょうか。また主は「弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」とありますが、それは「よく聞け、あなたたちもそうなのだ」という意味があったのではないでしょうか。いざとなったら主イエスではなく、この恐ろしいほどの自己中心性はペトロ固有のものではなく、弟子たちも、そしてわたしたちも同じものを共有しています。ペトロはそのような弱さを抱える人間の代表であり、すべての人がサタンの誘惑にさらされている、ということを示すものです。
 ではサタンの誘惑に打ち勝つにはどうすればいいのでしょうか。主は「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」といわれました。きっと弟子たちもそうだったでしょうが、ここを読む我々は、そんな生き方ができるのだろかとドキリとするのです。
 最近、ボンヘッファーの本を読んでおりますと、そこに出てくる事柄が、まさに今日のテーマのことを指していると感じました。ボンヘッファーはナチスに迫害を受けて命が危なくなった時に、友人の手引きでアメリカ行きの道が開かれました。そこで安全に暮らすこともできたのですが、彼はアメリカからすぐにドイツに戻ります。ヒットラーを倒すためです。そして地下運動に入り、暗殺計画に加担します。しかしそれが失敗、ボンヘッファーは逮捕、拘留されます。そしてドイツ降伏直前の1945年の4月、絞首刑に処されました。
 自分を捨て、自分の十字架を背負う。それはボンヘッファーの場合ヒットラーを倒すということでした。弟子たちの場合、それは教会を建てるということでした。ここにおられる方の多くは、そういう生き方はできません、と思うでしょう。でも、自分の十字架を背負うということの中身は、一つではありません。最初からできないと思っていたら、何も進みません。十字架を背負うというのはどこか重苦しい響きがありますが、突き詰めれば主に従う、ということなのです。ここで、昨年流行に流行ったあの言葉を、わたしは堂々と使いたいと思います。「忖度」です。我々信仰者は、主の御心を忖度して生きるのです。主よ、あなたは何をお求めでしょうか、わたしはあなたの御手、御足、御声になって何ができるのでしょうかと真剣に祈るとき、答えが与えられるのです。どのような人にもふさわしい働きがあり、役割があります。小さな器でも、主は豊かに用いてくださるのです。今日一日、今週一週間、祈りつつ主に従う選択と決断をしていきたいと思います。
(2018年3月4日礼拝説教要旨)


祈りの力 2018年2月25日


ヤコブの手紙5章13~18節
 牧師になりたてころ、先輩牧師からこんなことをいわれました。「いいか、牧師というのは忍の一文字やぞ」。それを聞いたとき「お前は何があってもひたすら我慢するのだ。それが牧師というものだ」といわれたように感じ、正直に言って、あまりよい気持ちにはなりませんでした。しかし牧師としての年数を重ねていくうちに、忍もまた祝福であり、試練の中で神様に近づいていくときなのだ、ということがわかるようになってきました。
 忍耐という言葉は、ヤコブの手紙にも比較的多く出てきます。5章7節にはこうあります。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」。これは、主の救いを与えられるまで待ちましょう、ということであり、そこには永遠の命の希望があります。ヤコブ書は、忍耐とはただ耐えることではなく、その先にある恵みを信じて待ちなさい、といいます。耐え続けることは大きなエネルギーが必要です。そのエネルギーの源は祈りです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」(13節)。苦しむ人こそ希望をもって祈らなければならないのです。
 けれども実際のところ、祈りがよい結果につながるとは限りません。内村鑑三は最愛の娘・ルツ子が病気になったとき、祈りの力で必ず癒されることを信じて、朝に夕に神に祈り続けました。しかしその祈りは聞かれず、ルツ子は19歳の若さで亡くなりました。内村鑑三は深く失望し、祈りの力を疑いました。しかし彼はやがて、なぜ祈りは聞かれなかったか、と神に問うことをやめ、聞かれない祈りは自分を神に近づけられる恩寵の手段だった、という深い信仰的洞察に至ります。
 わたしたちは、祈って神様に何か物事を変えてもらおうとしますが、祈りは神様を思い通りに動かす呪文ではありません。もし祈りが聞かれなくても、へりくだって神の御心を聞こうとする気持ちを持ちたいと思うのです。キリストの十字架を思い起こせば、そのことはよくわかります。主はゲッセマネの祈りで、この杯を過ぎ去らせてください、と祈られました。けれども最後には「御心のままに」とへりくだって十字架を受け入れられました。主は、神の御心がこの絶望の中にのみ成就することを知っておられたのです。我々も謙虚な思いで、神の御心を聞きながら祈りたいと思うのです。
 今一度考えたいと思います。祈りの力とはどこにあるのでしょうか。祈りの力とは、物事を変えていくのではなく、自分が変えられる力のことです。神に自分の苦しみを訴える中で、ただひたすらに耐える、というところから、希望の中で待つというポジティブな信仰へと変えられるのです。もしわたしたちが忍の一文字で過ごさねばならないとしたら、それはただ耐え忍ぶの「忍」から、すべてを主にお任せするという「任」へ、祈りが変えていくということではないでしょうか。祈りつつ、主のすべてをゆだねて、これからも過ごしてまいりましょう。
(2018年2月25日礼拝説教要旨)

 
 

連続と断絶 2018年2月18日


エレミヤ書31章31~34節
 預言者エレミヤが活躍した時代、イスラエルにはいくども危機が訪れました。そのとき、神様はエレミヤを遣わされ、警告と裁き、罪、そして救いを語られました。それは、離れていく人々をつなぎとめるための預言でした。
当時、南ユダ王国はバビロニア帝国に攻め込まれようとしていました。その混乱の中、エレミヤはこのように預言しました。「主は言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する」(32章3節)。それはもはやバビロンの侵略とユダ王国の崩壊は避けられない、という厳しい預言でした。
 なぜこんなことになったのでしょうか。それは人々が罪を犯し、神様から離れていたからだとエレミヤは言います。彼は9章および11章で「神の言葉に聞き従うことを拒み、他の神々に従ってそれらを礼拝している」「偶像礼拝に傾いている」と告発し、また7章および22章においては、人々が外国人や弱い立場の人々に対して隣人を著しく欠いていた、と指摘します。これは良きサマリア人のところで示された「神への愛」「隣人への愛」のまったく逆であり、いかに当時の人々が神様から離れていたか、ということを物語っています。
 やがて、エレミヤの預言通りユダ国は滅びます。もしそこで歴史が終わってしまったら、この世と神様とは断絶したままです。けれどもエレミヤはその次を語ります。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす」(23章3節)。神と人との「断絶」を覆す「連続」があります。そのことを踏まえて、今日読みました31章31節以降を読みましょう。まず「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、この契約を破った、と主は言われる」(32節)とあり、神と人の断絶があります。一方で「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」とあり、神との関係が「新しい契約」によって連続を持つとエレミヤは預言するのです。
 この「新しい契約」とは何のことでしょうか。32節で「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」とあります。それはシナイ山で受け取った、あの石の板に刻まれたものではない、つまり旧約ではない、ということです。これはイエス・キリストによってわたしたちの心に刻まれた、新しい契約のことです。新約の「約」とは、そのことを指します。愛する御子イエスを、十字架につけてまで、罪びとを救うという契約です。これは歴史上もう二度とそれ以前にさかのぼることのできないものです。二度と壊されてはならないものです。それほど尊い契約です。
 契約というからには、当事者が二つあります。一方は神様で、一方は我々です。我々はこの契約によって、神様ともう一度つながることができた。失われるはずだった命が回復させられたのです。離れていた二者をつなげてくださったのは主イエス・キリストです。主に感謝して、契約の当事者として、神と隣人に対してその責任を果たしてまいりたいと思います。
(2018年2月18日礼拝説教要旨)


 

嵐を鎮めたまう主 2018年2月11日


マルコによる福音書4章35~41節
 主が「向こう岸に渡ろう」といって舟に乗り込まれると、突然大嵐に見舞われました。弟子たちは死の危険を感じ、艫のあたりで休んでおられた主に向かって「先生、わたしたちがおぼれてしまってもかまわないのですか」といいました。主は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」といわれ、湖に「黙れ。静まれ」と言われました。すると風は止み、すっかり凪になったといいます。ここで聖書が語っているのは、キリストは自然現象をも鎮められるお方だということです。それは驚くべきことです。しかしわたしたちが本当に驚くべきは、そういうお方が「この舟」に乗船しておられる、ということの方ではないでしょうか。
 わたしたちの人生も信仰生活も舟みたいなものです。絶えず動いていきます。良い方向へ動くこともありますが、悪い方向へと動くこともあります。そういうときに、ただ平安の中に留まり続けられる方が傍におられると福音書は語ります。それこそがまさに奇跡です。この世のものでは決して得られない、本当の安息が主のところにあるのです。
 新約聖書には嵐で舟が沈みそうになる話はたくさんありますが、沈んだという話は一つもありません。唯一、使徒言行録で、パウロが乗った船が座礁する話が出てきますが、乗っていた人は全員が助かりました。主イエスの舟はどんなことがあっても、沈まないのです。
 続いては教会論としてこの話を見てみたいと思います。主はどこに向かっておられたかというと、それはゲラサ地方でした。ゲラサ地方はギリシヤ風の町々が並ぶところであり、聖書の世界から見れば、いわゆる異邦世界です。つまり、ここには異邦人伝道という新しい時代に向かっていくという教会論的な意味があったと思われます。しかし、向こう岸へ行くには、嵐を通らなければならなかった。それゆえ「向こう岸に渡ろう」という御言葉は、困難な場所にわたしと一緒に行こう、という励ましに満ちたものでもあったのです。
 多くの時代で、教会が歩んだ道は凪ではなく嵐でした。150年前に海を越えてこの日本にわたってきた宣教師たちもそうです。彼らの場合はむしろ日本に着いてからが大変でした。まだまだ攘夷運動が盛んであり、しばらくキリスト教伝道はできなかったといいます。そこで宣教師たちは、私塾を開いたり、医師として活動したり、日本語の研究をするなどして日本文化への理解と親和に努めました。そしていよいよキリスト教禁令の札が撤去された暁には、一気に伝道が広まり、多くの受洗者を生んだのです。
 このように、キリスト教の伝道は、常に生死の間を行き来するような、嵐の湖を渡ってきたのです。しかし舟は沈まず、向こう岸についた。なぜか、キリストが乗っておられたからです。教会もわたしたちも、この世を航海しながら最終的な目的地天の国に向かっています。いま、もう一度主の「向こう岸に渡ろう」という御言葉を聞きたいと思います。約束された土地、新しく命が始まるところ、永遠の平安。わたしたちが乗る舟は必ずここに到着します。復活の主と共に、恐れることなく、この世の旅路を続けてまいりましょう。
(2018年2月11日礼拝説教要旨)


 

床を担いで歩きなさい 2018年2月4日


マルコによる福音書2章1~12節
 4人の男がイエス様のところに中風の人を運んできました。中風というのは手足がまったく動かせなくなった人のことです。ところが人がいっぱいで、主イエスのところに近づくことができません。すると彼らはなんとその家の屋根に上り、主イエスがおられるあたりのところまで行き、屋根をはがして中風の男を吊り下ろした、といいます。
 イエスは4人の友人たちの信仰を見て、中風の人に癒しを宣言なさいました。不思議なことに本人の信仰はまったく無関係です。このことは一体何を意味するのでしょうか。人に与えられている愛や信仰というものが、その人の内面に留まるものではなく、もっと広く、驚くべき仕方でもって広がっていくことを伝えているのではないでしょうか。4人の男たちは、中風の人だけでなく、そこに愛と信仰を携えてやってきたのです。主はそれをご覧になりました。たとえ小さくても、足りなくても、我々の愛や信仰は主に承認され、形を変えて誰かに伝わっていく。我々はいわばそれを持ち運ぶ器です。できるだけそれをたくさんの人に伝えられるように、器としての自分のスペースを大きくしたいと思うのです。
 病者の罪の赦しを宣言なさった主に対し、律法学者は「神のほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」といって反発しました。そこで主は「中風の人に向かって『あなたの罪は赦される』というのと『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか。」と問われ、御子による癒しがその権威を示すと言われました。「あなたの罪が赦される」と宣言するのは誰にでもできることです。罪が赦されたかどうかは誰にもわからないからです。一方「床を担いで歩け」というのは当然ながら誰にでも言える言葉ではないです。ゆえに、中風が癒されたとしたら、そこに赦されざる罪の赦しという神の御業が起こる、ということが明らかとなるからです。
 「床を担ぐ」という御言葉。わたしはこの御言葉にも深い意味を感じます。日本語でも床に就くという言葉があるように、床というのは病を象徴する単語です。床は病者を地面に縛り付けるものであり、彼の苦しみの歴史そのものです。しかし主によって、床は担ぐことができた、つまりそれは彼から離れたのです。
 「起き上がり」は復活を意味する言葉でもあります。彼は「死せる生」から復活したのです。「起き上がり、床を担いで歩け」という御言葉は、我々もまた聞かなければいけない御言葉です。この世でいかんともしがたい力が働き、わたしたちを「死せる生」に縛り付けたりするものがあるとしても、そこからわたしたちを立ちあがらせ、命の復活をもたらしてくださるのはキリスト・イエスお一人です。
 わたしたちは自分の信仰だけで、ここに来たわけではありません。主のお招きがあり、たくさんの人に担がれてここまでやってきたのです。今度はわたしたちが担ぐ者となる番ではないでしょうか。主の助けを必要としている人のために進んで担ぐ者となりたい、そう思います。
(2018年2月4日礼拝説教要旨)


 

百倍の実り 2018年1月28日

マルコによる福音書4章1~9節
 先日の修養会で宗教改革について取り上げましたが、そのテーマの一つが「聖書のみ」でした。宗教改革により、御言葉の大切さが再確認されたわけですが、もちろん主イエスも御言葉の大切さを語ってくださっています。
 主イエスは、四つの場所に落ちた種の話をなさいました。農夫が種を蒔きます。道端に落ちます。それでも農夫たちは、黙々と種を蒔き続けるのです。我々がどんな荒れ果てていようとも、主はただ黙って御言葉を蒔き続けられます。それを受け止められないのがわたしたちです。種は奪い去られてしまいました。次に、石だらけの土地に種は落ちます。ここもまた農地に適しているとは言えない場所です。それでも農夫は種を蒔きます。一旦芽が出ますが、根が伸びずに枯れてしまいました。次に茨の中に種が落ちます。やはり、少し芽が出ますが、結局は茨が邪魔をして、実を結ぶには至りませんでした。
 最後に、種はよい土地に落ちます。その場所は種が成長するに相応しい場所であり、30倍、60倍、そして100倍の実りを付けるまでになった、というのです。そして我々はそのよい土地になることを期待されています。
 この時代、御言葉と律法は同一視されていました。律法をしっかりと身につけ、これを実行することが御言葉を大切にするということでした。しかし主イエスは、御言葉は救いのための道具ではない、他者を裁くための物差しでもないと教えてくださいました。律法ではなく、神の御言葉自身が我々のうちに命となって宿るのです。
 新約聖書では、主はたくさんの御言葉を語ってくださいました。聞いたその人に命を吹き込み、30倍、60倍、100倍となって広がっていきます。ちなみに、当時の麦の収穫倍率はだいたい7倍くらいだったといいますから、100倍というのは、信じられないような数字です。神の御言葉に生きる者は、そんな驚くべき豊かさを得ることができるというのです。その豊かさとは、もちろん地上のそれではありません。11節で「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」とあるように、これは神の国の豊かさ、実りのことです。地上の人生で思うように収穫できなかったという人も、神の国で「永遠の命」という大きな実りを受けるのです。
 主イエスだけでなく、我々も一生懸命種まきします。けれども、なかなか実りまで行き着く種は少ないです。収穫倍率は7倍よりもぐっと少なく感じます。それでも、主がそうであったように我々も黙々と種を蒔き続けたいのです。その中から、30倍、60倍、100倍の実りにつながる種がある。たとえ失敗したように見えても、天国においては、信じられないほどの豊かな実りとなる。この主イエスからの励ましを受けて、わたしたちも主のために働きたいのです。
 わたしたち自身、小さな一粒の麦の種です。この種は、この教会という良い土地に落ちました。そして、その一つ一つは、天の国の豊かな実りに向かって、今も霊の成長を続けています。我々も教会も、主によって豊かに祝福された存在であることを信じて歩んでまいりましょう。
(2018年1月28日礼拝説教要旨)



新生と転向 2018年1月21日


使徒言行録9章1~9節
 「生まれ変われたらどんなにいいだろうか」。人はそんな願望を抱くことがあります。実際はそれほど簡単ではありません。固定化された状況に誰もが生きているからです。
 ところが、聖書は神によって人は生まれ変わるといいます。そのもっとも有名な話がパウロです。パウロはファリサイ主義の急先鋒として活躍し、キリスト教を激しく攻撃していました。そんな彼を、強烈な天からの光が照らします。パウロは倒れ、目も見えなくなりました。
 パウロが光に倒れされたこと、そして目が見えなくなったことには深い意味があります。「倒れる」というギリシア語ピプトウは、しばしば死ぬ、滅びる、という意味でも使われます。彼は倒れ、古い自分が死んだのです。目が見えないということも、ファリサイ主義者として見ていたものがいったん見えなくなったことを意味しています。さらに、9節で「サウロは三日間、目が見えず、食べもしなかった」とありますが、三日間というのは、キリストの十字架の死から復活までの三日という数字に符合します。パウロはのちのローマの信徒への手紙6章4節でこう書いています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。パウロは、キリストと共に死に、新しい命に生まれ変わったのです。
 わたしたちも何かの出来事によって打ち倒されることがあります。あるいは、何もかもが見えなくなるということがあります。わたしたちはそういうときどうあるべきでしょうか。そういうときこそ、心を静かにして神からの呼びかけを聞きたいと思うのです。パウロは「わたしはあなたが迫害しているイエスである」というご自身についての宣言がなされ、次いで「起きて町に入れ、そうすればあなたのなすべきことが知らされる」という御言葉によって生き返りました。パウロがそうであったように、倒れ、見えなくなる時こそ、その人にもう一度命を吹き込み、立ち上がらせるのは主の御言葉に聞きたいのです。
 新生というのはそれ自体で完結するのではなく、その次につながってこそ意味を持ちます。生きる方向性が変わるということです。パウロは御言葉による新生と同時に、それまでとは全く違う方向に、生き方が変わりました。主によって示された真理をかかげて、堂々と時の権力者に向かって立ち上がりました。新生は転向とセットです。神と御子によって新しい命を得た者は、それまでと同じ生き方というのはありえないのです。
 わたしたちがもし、キリストによって復活の命を受けた、と本当に信じることができるなら、その人はいつでも、生まれ変わることができるはずです。真人間になるとか、善人になるということではありません。主と離れていた人生から、主とともに歩む人生へ、罪の中に死んでいた自分から、喜びと感謝の溢れる自分へ、わたしたちは転向するのです。わたしたちが手にする聖書の御言葉と主との交わりによって、これが可能となることを信じて生きてまいりたいと思います。
(2018年1月21日礼拝説教要旨)



 

信仰が海を割る 2018年1月14日


出エジプト記14章15~22節
 出エジプトの際、ユダヤ人は一旦脱出に成功しましたが、しばらくするとファラオの追っ手がやってきました。戦車600台と数千の兵隊たちです。ユダヤ人たちは海とエジプト軍に挟まれた状態になりました。もう逃げ場はありません。すると彼らはモーセに向かって「どうして我々を導き出したのですか、荒れ野で死なせるためですか。そんなことならエジプト人に仕える方がましです」と不平を口にしだしました。それはまさしくわたしたちの姿ではないでしょうか。
 わたしたちは、人生がうまくいっているときには「神様ありがとうございます」と感謝の気持ちを素直に口にできますが、都合が悪くなった途端に、不満を口にし神信仰から離れていくことがあります。苦しい時ほど、本当のその人が見えてくるのです。ある牧師が同時期に重い病気になった二人のクリスチャンについて、一人はどこまでも信仰と感謝を貫き、もう一人は不平不満を口にしながら召された、といっていました。しかしそれが人間というものなのです。苦しい時に信仰というものを維持できず、素直な気持ちで神様に向き合えなくなるのは、その人が悪いというのではなく、誰もが持つ人の罪というものが、苦しい状況において顔を出すということなのです。
 今日の聖書においても、人々は不信仰のなかに陥っていたわけですが、その不信仰の中にただ一点、真実なる信仰を持っていたのがモーセでした。神様は不信仰なるイスラエル人を見ずに、ただモーセの信仰のみを見て、民を救われたのです。これはキリストの十字架と似ています。不信仰と裏切りのなかで、キリストというお方だけが、まことの信仰をもってこの世と対峙なさいました。そして、このキリストによって、罪と死の中に敗北を喫していた我々を、神様は勝利へと導いてくださったのです。
 この新約聖書の出来事を予見するように、モーセの物語は進んでいきます。モーセが杖を高く上げると、海が割れ、イスラエルの人々はそこを渡りました。モーセの信仰が海を割ったのです。しかし、ここでの本当の奇跡とは、海が割れたことではなく、不信仰の中にたった一つまことに信仰が残っていた、ということではないでしょうか。
 「ほとんどすべてが」「全体的には」、我々人間はそういったところで物事を見てしまいます。イスラエルの民は、その意味では不信仰な共同体でした。しかし神様は不信仰の中にもきらりと光る信仰を見られたのです。そして、 それで十分だったのです。
 不信仰の中の信仰という問題は、どんなことがあっても、わたしたちにはどこかで神を信じたいという部分が残されているということにほかなりません。そして神様は、そこから、イエス・キリストの十字架の贖いにおいて、その人全体の救いというものを起こしていかれるのです。それが、我々の内面に生起する奇跡というものです。
(2018年1月14日礼拝説教要旨)


 
 

日、昇る国の救い 2018年1月7日


ゼカリヤ書8章1~8節
 預言者ゼカリヤが活躍するその少し前、ユダヤ人がバビロンの侵略によって捕囚の民として連れ去られるという出来事がありました。バビロン捕囚と呼ばれる事件です。その後キュロス2世によって解放令が出され、人々は故郷に帰ってきますが、そこで大きなショックを受けました。国家としての姿かたちはなく、神殿も数十年破壊されたままでした。
 捕囚民たちは、神の国を取り戻すべく、神殿の再建に着手します。しかし現実的には思うようにいきません。まだ帰ってきた人の数が少なくて、労働力が足りなかったことや、再建に必要な資金や物資が止められてしまったことなどが理由です。気が付けば、再建を開始して18年の歳月が流れていました。そこで立ち上がったのが預言者ハガイとゼカリヤでした。彼らは荒廃した大地に立ち、落胆していた人々の心の中に、希望に満ちた御言葉を語り続けました。
 今日はそのなかでもゼカリヤの預言を見ていきます。まず4節、5節を見たいと思います。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には ふたたび老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして 都の広場はわらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いさざめく」。戦争や貧困の一番の被害者は、老人や女性、子どもです。だからこそ、ゼカリヤは上のように主張したのです。それはエルサレムという町を一つの命として見た場合、まさに命の再生がここで起こる、エルサレムが復活する、という驚くべき預言でした。
 7節のところを見ましょう。「万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からもわたしはわが民を救い出し、彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる」。ここでゼカリヤが見たのは、戦争でちりじりばらばらになってしまったユダヤ人のことだったと思いますが、「日が昇る国」と読んでわたしたちははっとするわけです。この日本はしばしば日出ずる国として呼ばれるからです。聖書の世界から見れば、日が昇る国はオリエントのことですが、それは陸続きの極東アジア、そして日本も含まれると考えるのは行き過ぎでしょうか。
 この地球のどこでだって神様は救いを起こしてくださる。だからわたしたちは今日もこうしてこの場所に座っているのです。その場合、今日の聖書ででてきたエルサレムというのも現実的な都のことではなく、霊的な意味で考えるべきです。わたしたちは、この世でどのように生きどのような最期を迎えたとしても、神に復活の命を与えられ、約束のエルサレムに帰っていくのです。
 戦争によって荒廃した、エルサレムに、あるいは広島に、長崎に、ここ横浜にも、神様は復興を与えてくださいました。わたしたちは70年頑張ってきました。そして、街の復興だけでなく、神様は神奈川教会をたて、わたしたちを荒廃した罪と死の世界から救ってくださり、永遠の都、エルサレムの住民としてくださったのです。この一年もイエス・キリストにしっかりと寄り頼みながら、天へと通ずる道を歩んでまいりたいと思います。
(2018年1月7日礼拝説教要旨)



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