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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

〒221-0832 横浜市神奈川区桐畑17-8

2018年度の説教

2017年度の説教はこちら(2018年1月~3月)

主の変容 2019年3月31日


 今日読みました聖書は、一般に「主の変容」と呼ばれる物語で、なんとも不思議な話です。その手前の部分は先週取り上げました受難予告のところです。この二つはセットで読む必要があります。十字架と復活は、今日の「お姿が変わる」という出来事と結びついているのです。別の言い方をすれば、この物語は、主の十字架と復活によってもたらされる新しい神の国を見せる、「窓」のような働きをしているのです。
 聖書によれば、突然に主のご様子が変わり、服が真っ白に輝いた、とあります。真っ白な輝きには、神様のご栄光、天の国のまばゆさが現れています。この地上でありながら、光り輝く天国の様子が見えている、ということです。驚くべきは、それだけではありません。なんとそこに、モーセとエリヤがいたというのです。モーセは、苦しむ人々をエジプトの国から救い出したあの出エジプトの功労者です。いつの時代も、出エジプト物語は、救いのイメージと直結していました。苦しいこの場所から連れ出してもらえる。約束の場所へと神様が送り届けてくださる。苦しければ苦しいほど、人々は童話のように聞かされてきて、自分も何度も想起した出エジプト物語を、もう一度思い出すのです。エリヤはアハブやイゼベルという悪しき権力者と果敢に戦った人物です。主イエスの時代もローマやヘロデにひどい圧迫を受けていたので、人々は終わりの日にエリヤが来て悪しき権力者たちを裁き、自分たちを天国へと連れて行ってくれるのではないか、と信じていたのです。
 こうしてモーセとエリヤがこうしてキリストの御前に現れたということは、過去の救いが今、キリストにおいて実現しようとしている、ということが示されたのです。ここに、ローマの圧政により人々の間に立ち込めていた暗い思いが吹き払われ、キリストにおいて救いの歴史がもたらされるのだ、という希望の心が吹き込まれたのです。
 しかし、そこにはいわゆる時間概念は通用しないように思います。なにしろモーセ、エリヤ、主イエスの三人が一緒にいるのですから。「過去」の救いが、きっといつかまた「将来」与えられる、というのではなく、すでにあるものとして受け取るべきです。将来どうか、救ってください、いつか必ず天の国に入れてください、という願いは、もはや必要ないのです。わたしたちは、すでに救いの中に入れられています。その約束は、ゴルゴダの丘にキリストの十字架が立てられたとき、すでに完成したのです。
 それゆえ、わたしたちは今の自分がどれだけ苦しくても、何も案じる必要はありません。今の自分にどれだけ大きな不安があっても、何も恐れる必要はないのです。この閉塞した世の中に、キリストは「窓」を開け、光り輝く天の国を見させてくださいました。わたしたちの心にも主の十字架によって穴が開くとき、そこから希望の光が差し込むのです。
 今日の聖書の様子をはたで見ていたペトロは、どうしていいかわからず、先生、仮小屋を三つ建てましょう、一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです、といいました。わたしたちには三つもいりません。光に輝く主の救いを受けた者として、キリストのための教会を打ち建てていきたいと思います。(2019年3月31日礼拝説教要旨)

     

自分の十字架を背負う 2019年3月24日


ルカによる福音書9章21~27節
 主イエスは、ご自分が十字架につけられる前、いわゆる「受難予告」をなさいました。それも一度だけでなく、何度も繰り返されたようです。その内容の一つが先ほどのところです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。「必ず」とありますように、キリストの受けられた苦しみと死は必然だといいます。本当にそうでしょうか。創世記6章6節によれば、神さまは人を造られたことを後悔なさったほどです。それだけ人間の罪は深いのです。仮にもそんな罪人が滅んでも、それはより良い地球になっていくかもしれず、神様にとって必然だとは思えません。ましてや、こんな罪人たちを救済する代わりに、わが子を犠牲にせねばならないとしたらどうでしょう。
 しかし神様はご自身が造られた被造物をどこまでも愛しておられました。罪人が永遠に滅んでしまうという暗闇の歴史を、愛する我が子の命と引き換えに、光の方向へと曲げられたのです。そして、キリストも「それ」が必ず起こらねばならないことだと理解しておられました。だからこそ「必ず」といわれたのです。
 このキリストが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」といわれるとき、わたしたちも覚悟をもって、キリストのみ跡に従いたいと思うのです。ここを読んで「とても自分を捨てることはできない」と思う人は多いでしょう。しかし自分の全部ではなく一部を手放す、と考えたらどうでしょう。本来は全部主のために捨てられれば一番いいのでしょうけれども、それはできない。しかし自分の一部を主にささげる、あるいは隣人のためにささげる、それはできると思うのです。その差異が埋められない人間の弱さです。でも主はそれでいいとおっしゃってくださいます。
 荷物を捨てるからこそ、負えるものがあります。十字架です。いつまでも自分の荷物を背負っていたら、主の十字架を背負うことはできません。自分の十字架を背負うということは、主イエスに従うということです。神様のために、教会のために、隣人のために、わたしたち一人一人がイエス様のお手伝いをするのです。キリストが覚悟と決意において語られたこの御言葉を、わたしたちも信仰的覚悟と決断において受け取らねばなりません。ただし神様は背負うことができないほどの重荷を、背負わせられることはないはずです。わたしたちなりに、与えられている神様からの荷を精一杯背負っていきたいと思うのです。その上で疲れてしまうことがあったら、マタイ11章にあるように、主イエスのところで荷を降ろせばいいのです。
 実は、今日の聖書には、他の福音書にはない言葉が出てきます。それは23節の「日々」という単語です。主の十字架を、「日々」背負う。それは問題を大きくしすぎないで、今日あなたに与えられた課題は何か、ということを考えなさい、というメッセージだと思うのです。今日、あるいは今週、主のために、重荷を負う。こういう生き方をしたい、そういう決断をしたいのです。小さくてもいいのです。自分の何かを放棄し、それで主の十字架を背負う。繰り返されるこの奉仕と献身が、生涯にわたり主の救いを証しするのです。(2019年3月24日礼拝説教要旨)

主が先頭に立たれる 2019年3月17日


詩編140編2~8節
 少々乱暴な言い方になりますが旧約聖書というのは戦いの書だと思います。出エジプトはファラオとの戦い、サムエル記はダビデとサウルの戦いおよびイスラエルとペリシテの戦いです。列王記はアッシリアやバビロンに翻弄されるイスラエルの姿が描かれています。イザヤ書やエレミヤ書など預言書の多くも、そうした戦争の影響下で書かれています。そこに共通しているのは歴史をつかさどる神様を信仰する姿です。彼らは「きっと我々を勝利に導いてくださるに違いない」と祈りつつ生きています。
 今日読みました詩編もそうです。詩編140編の作者とされているダビデは、主君サウルから命を狙われ、大変苦しい状態にありました。宿敵であるペリシテ人にかくまってもらったことさえありました。ですからダビデは「主よ、さいなむ者からわたしを助け出し/不法の者から救い出してください」と神に向かって必死に祈ります。苦しいゆえに、神様に対する信仰が深くなるのです。近年の聖書学ではダビデが作者ではないといわれていますが、この詩の作者が誰であれ、彼の深い信仰が表明されていることに変わりありません。
 その思いが頂点に達しているのが8節のところです。「主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、わたしの神よ、救いの力よ/わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。」万を討ったともいわれる猛将ダビデも、今はサウル軍に包囲され苦しい状況です。しかし詩人が神様に願ったのは、あなたが先頭に立って敵をすべて打倒してください、ということではありませんでした。自分が守られるように願いました。「わたしが武器を執る日」とありましたように、詩人は確かに武器を手にしています。しかしいざというとき、武器なんて何の役にも立たないことを彼は知っています。だから神様に守ってください、と強く願うのです。
 現在、世界には15000基の核爆弾があるといいます。9か国がこれを保持しています。その核兵器で、世界は守られているのでしょうか。むしろ世界は脅かされています。アメリカが核不拡散防止条約から撤退し、米ロのバランスが崩れる懸念が広まっていますし、インド・パキスタンの緊張、北朝鮮の問題もあります。そして核爆弾が使われたときは世界が終わるときです。何の役に立たない武器なのです。
 わたしたちがもしも、何かと戦わなければいけなくなったとき、武器を手にして、相手を傷つけ、排除していくような生き方は、信仰的ではありません。仮に武器を手にすることがあったとしても、心で信仰を持って戦いたいのです。信仰によって戦うということは、神が先頭に立ってくださることを信じることです。わたしではなく、神様が戦うのです。わたしではなく、神様がすべてをおさめてくださるのです。
 教会もわたしたちも、主イエスが先頭に立ってくださることを信じなければ、一歩も進むことはできません。困難ある時こそ、先んじて歩まれる神様が道を開いてくださる、この信仰を最大の武器に、前進してまいりたいと思います。(2019年3月17日礼拝説教要旨)

     

キリストを証しする 2019年3月10日


ローマの信徒への手紙10章8~13節
 戦国時代にキリスト教が日本に入ってきたとき、主にこれを受け入れたのが、大名やその家臣たちでした。その後キリスト教は禁じられ、ようやく明治維新の時代にキリスト教が広まった時も藩の役人たち、その周辺にいた学者など、社会的に地位が高い人がいち早く反応しました。こうして考えますと日本のキリスト教は、どちらかといえば理性や知性でもって理解されることが多かったのかもしれません。
 こうした理性的な態度は、福音を受け入れて自分のものとする内的信仰に集中し、そこから外で出ていく「表現としての信仰」になっていかないのではないか、と思うのです。簡単に言えば自分が救われたことについて理解していても、それを神賛美、隣人愛といった信仰的表現と結びつけるのが苦手ではないかな、ということです。常に矢印というのは、内向きと外向きがあると思うのです。内向きばかりが大きくなってしまうのではなく、それと見合った、外側向きの矢印も、我々に求められていることなのです。
 今日の聖書にこうありました。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。「御言葉」とは、「キリストの御言葉」を指しますが、これを救い、と読み替えることもできます。我々はイエス・キリストの御言葉、あるいは救いという外からの矢印を受けているのです。イエス・キリストの救いは、律法のように遠く離れた難しい問題ではない。それは十字架という極めてシンプルな事柄によって、あなたの内に与えられている。先ほど申し上げたように、わたしたち日本の教会は、ずいぶんと難しくキリスト教を考えすぎてきたのかもしれないですが、もっとシンプルに、もっと素直にキリストの救いを受け入れたいのです。
 重要なことはこの矢印を、外に向かっていかに表現するか、ということです。10節を見ます。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。パウロは、心で信じて義とされ、口でその信じた内容を公に言い表して救われるといいます。これは「心で信じ、口で言い表したら」→「救われる」といった条件ではなく、「心で信じること」と「言い表すこと」は救いの原点として理解したいです。外からの矢印「福音を信じること」、そして内から外の矢印「信仰を告白すること」は、主の十字架を受け入れた者に生起する同時的なふるまいです。外から来たものは、また外へと戻していく。わたしたちは、その働きが十分ではないのではないか、そう思うのです。
 外向きの矢印にはいろんな仕方があります。まずは礼拝です。礼拝において、信仰告白するときがあります。賛美を歌うときがあります。献金をする時間があります。それだけではありません。礼拝で受けた恵みを、その一週間外向きに証ししていくのです。
 救いの御言葉は、あなたの近くにある。あなたの口、あなたの心にある。わたしたちが苦しい時にも、主の御言葉は決してわたしたちから離れません。老いて自由が利かなくなっても、わたしたちからなくなりません。御言葉の恵みは、無尽蔵です。一人でも多くの人に、キリストの恵みを証ししてまいりたいと思います。(2019年3月10日礼拝説教要旨)

     

集められる人々 2019年3月3日


ルカによる福音書9章10~17節
 主イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」といわれるように、神様は常に群れを祝福し、養ってくださいます。旧約聖書には、出エジプト物語、バビロン捕囚など、集団として神に導かれた記憶が数多く残されています。一方で新約聖書にも強烈な集団の記憶が残されています。その一つが今日の話です。
 ベトサイダで、主は集まってきた人々の求めに応じ、癒しを施され、御言葉を語られました。その数、男性だけで五千人。女性や子どもも合わせると一万人くらいいたかもしれません。ただ、この一万人の記憶に残ったのは、癒しや御言葉ではなかったようです。なぜなら、今日の聖書にその具体的な記述がないからです。それとは対照的に、大変細かく、具体的に記述されているのは、そのあとに続く物語です。それは集団の忘れられない記憶として保存されたのです。
 夕方になり、もう一日が終わる時間が迫ってきました。弟子たちが「群衆を解散させてください」といっていますように、普通だったら帰宅し、食事をとる時間です。しかし主は、ここで群衆を解散させるようなことをなさらず、御業を続行なさいました。彼らの御言葉と癒しを求める気持ちを、主はお認めになったからです。ここに教会の原点があるのではないでしょうか。このように、主よ、わたしに語ってください、わたしを救ってください、とどこまでも主を追いかける、その熱意と信仰を教会はいつも持っていたいと思うのです。
その場には、五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。そんな量ではとても一万人の胃袋を満たすことはできません。弟子たちは、「わたしたちがどこかへ買いに行かない限り(どうしようもありません)」と途方に暮れるしかありませんでした。わたしたちがいろいろな問題に直面した時、わたしがなんとかしなければいけない、という「わたし中心」の考えが出てきます。しかしわたしではなく、キリストがそれを満たしてくださる、というキリスト中心の信仰へのシフトを、主は期待しておられます。
 主はそのとき、天に向かって感謝の祈りをささげられ、パンと魚を配られました。まさしくキリストを通して与えられる命の糧です。わたしたちもその余るほどの恵みをいただいています。と同時に、16節に「(それらを)裂いて弟子たちに渡しては群衆に配られた」とあるように、わたしたちにも世の人々に、その恵みをお分けする責任があるのではないでしょうか。神奈川教会を通して、一人でも多くの人に命の恵みを手渡していきたいと思うのです。
 わたしたち神奈川教会も強烈な記憶を保持しています。戦争のことです。空襲で会堂が焼け、教会員宅も焼け、多くの人は疎開していました。しかし神様は、この教会を解散させるようなことはなさらず、滝沢四郎先生を通して教会を建ててくださり、離れ離れになっていた人たちを、もう一度集めてくださったのです。こうして、わたしたちの福音的な歩みは、戦争をはさんで、続行することができました。それは命の御言葉を受けたい、癒されたい、という熱い思いを持った人々が大勢この教会に集まってきたからです。それは今も変わりません。ですから、これからも主において御業は続いていくのです。(2019年2月24日礼拝説教要旨)

起きて、歩け 2019年2月24日


詩編147編1~7節
 古来、人はどのようにすれば救われるのか、ということを求めてきました。ほとんどの宗教や社会において当てはまることは、因果応報的な思想を持つ、ということです。因果応報思想は極めて合理的で、社会や共同体を維持するうえで非常に有効な規範となります。
 因果応報は聖書にも登場します。食べるなと言われた木の実を食べたアダムとエバは、楽園から追放されてしまいますし、神様に忠実なノアは救われ、不信仰な人々は滅ぼされました。それはそれで、一つの大切な教えです。
 しかし新約聖書では、ずいぶん様子が違います。一言で言えば、罪びとが救われ、罪なき神の御子が十字架で死ぬ、ということです。これほど理不尽でおかしな宗教は、古今東西例を見ません。だからこそ、キリスト教は、貧困や差別、戦争、抑圧、そういうゆがんだ世界に光をもたらしてきました。個々人の問題で言えば、神に造られていながら神を愛せない、神に従わないという矛盾に満ちた罪の部分に光を当てたのです。
 今日の聖書も因果応報とは無関係の救いがあることを教えています。主イエスのところに、ある病人が連れてこられました。主イエスはその4人の友人たちの信仰を見て「(病人の)罪が赦された」と宣言されました。本人の信仰や行いは一切関係なく4人の友人の信仰と愛において救われます。この事実は、わたしたちに大きな希望を与えます。たとえその人が罪を犯す者、神様に従わない者であっても、隣人の愛と信仰において主が救ってくださるのです。
 次に主は「あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて歩け、と言うのとどちらが易しいか」といわれました。ファリサイ派たちも時々罪の赦しを宣言していたようですが、それは律法に従ったから赦されたのですよ、という因果応報的なものでした。しかし、その人が本当に罪赦されたかなど、誰にもわかりません。主イエスは「起きて歩け」といわれ、目に見える形で、その人が神に癒され、救われたことを示してくださいました。したがって、わたしたちがいま「起きて、歩いている」なら、それは罪の赦しの中を生きていることの証しなのです。
 25節では「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰っていった」とあります。神様をいっぱい賛美したから救われたのではなく、先に救いを受けたからこそ、感謝と賛美をもって、その後の人生を送るようになるのです。
 どんな人間にも欠点や失敗はあります。そういう人は良い人間になればいいのでしょうか。愛と奉仕、善い行いをすればいいのでしょうか。それはまさに、ファリサイ派、律法学者たちが求めていた世界です。「起きて、歩け」。まず罪びとであるあなたが赦される、という主の宣言を聞きたいと思います。主はそのために命までささげてくださったのです。そこから人は感謝をし、賛美をする人へ、罪びとから神の御心にかなう人へと変えられていくのです。
 十字架という、一見理不尽なこの出来事の中に、因果応報では決して解けない真理が宿っているのです。この主の十字架において、わたしたちは起き上がり、そして歩くのです。感謝して、この歩みを最後まで全うしましょう。(2019年2月24日礼拝説教要旨)

     

打ち砕かれた心を癒す 2019年2月17日


詩編147編1~7節
 ずいぶん前のことですが、テレビや新聞などで「癒し系」という言葉が流行りました。ちょうどバブル経済が破綻したころで、多くの人が破れや疲れを覚えていて、何か心が安らぐものを求めていたのだと思います。今はもう「癒し系」などという言葉は見ませんが現代人だって同じように疲れますし、癒しを求めています。そんなときわたしたちは、例えば映画を見たり、買い物をしたり・・・いろんなことをして自分の心を癒そうとします。そのような自分で自分をよくわかっている人、自分で処方箋を書ける人は幸いです。でも多くの人は、自分でもどうしていいかわからないまま毎日を生きているのではないでしょうか。
 わたしたちが本当に疲れてしまったとき、自分で処方箋を書くのをやめて、本当に癒す力を持つ方に信頼を置くことが必要ではないでしょうか。わたしたち人間には、自分でもどうしようもない魂の深いところ、自分では絶対に癒せない部分があるのです。主イエスが「丈夫な人には医者はいらない」といわれたように、傷ついた魂を癒す、まことの医者が必要なのです。
 今日は詩編147編を読みました。バビロン捕囚からの帰還、エルサレムの再建について書かれています。すでに何度も申し上げているように、バビロン捕囚という出来事は、南ユダ王国と神殿が破壊された出来事と連動しています。国が破壊され、人が殺され、知らない土地に連れていかれるという現実に、捕囚民は苦しいました。
 けれども不思議なことに、実はこのバビロン捕囚の時代に人々の信仰は大きく躍動しました。神殿がない異国の地で礼拝を守り続けました。割礼や安息日、律法などを厳しく守りました。さらには、旧約聖書の一部分がこの、バビロン捕囚の時代に書かれたことがわかっています。 国家と神殿は失われましたが、信仰は失われなかった。神を信じる人々の群れは、むしろ強められたのです。どこにそのような力があったのでしょうか。
 その答えはたった一つ、自分ではなく自分の外にある創造主を信じることにあったのです。その信仰が今日の詩編によく表れています。3節「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる」とありますが、この文の主語は「主」すなわち神様です。主である神さまが打ち砕かれた捕囚民の魂を癒し、その傷を包んでくださると希望をもって告白しています。
 さらに4節には「星」、また8節には「雲、大地、山々」という言葉も出てきますように、詩人は宇宙論的な視点で、創造主なる神を見ています。遠大な宇宙を造られた神様は、ほんの砂粒ほどの小さな、ちっぽけな人間に目をとめ、これを救い挙げてくださる、という信仰です。
 彼らはバビロニア帝国という、当時オリエントで最大の力を持つ国に捕らえられ、激動の歴史にもまれて、小さくなって生きている捕囚の民です。しかし彼らのまなざしは、下を向くことなく、自分を見るでもなく、バビロニア帝国でもなく、どんなときにも天国の神様のみを見上げていました。それは主なる神が、まことの救い主、癒し主だからです。わたしたちも、本当に自分を癒すことのできるお方にすべてを委ねたいのです。今週も主とともに、恵みの一週間を過ごしてまいりましょう。(2019年2月17日礼拝説教要旨)

     

外側と内側 2019年2月3日


ルカによる福音書5章33~39節
 今日の話の発端は、主イエスの弟子たちが断食をしていなかった、ということでした。これをファリサイ派や律法学者たちは見とがめ、批判したのです。当時の社会では断食、祈り、施しの三つが信仰者の模範的な行動とされていました。本来断食は神の御前に懺悔し、罪を悔い改める意味で行われていたものです。肉体的な飢餓状態で、神の御前に裸になる。弱い自分をさらけ出し、神以外に頼るものがないことを再確認する。そこで罪を認めることにおいて、真の悔い改めが起こり、生きる方向性が変わっていく。そういうものだったのでしょう。ところが、こういう中身の部分が失われ、とにかく週に二回せよ、という形だけが残されたのです。
 主イエスは「新しいぶどう酒には新しい革袋が必要だ」といわれ、このような古めかしい宗教生活は必要ないといわれました。新しいぶどう酒、つまりキリストにおける罪の赦しという救いの中身が訪れたからです。この新しいぶどう酒に、古いままの革袋は相応しくない。新しいぶどう酒に相応しい新しい革袋が必要だと主は言われるのです。
 今の我々で考える新しい革袋とは、キリストによる救いをしっかりと受け止め、これを保持して未来へと運んでいく、教会のことではないでしょうか。あれも守る、これも守る、という義務の中でびくびくしながら生きるのではなく、自由にここに集い、キリストによって罪の赦しを受け、永遠の命に生きる。それが新しいぶどう酒です。したがって新しい革袋とは、神様が打ち立ててくださった教会のことであり、礼拝から始まる、救い主を心から信じて生きる、そういう一週間の宗教生活のあり方すべてです。
 実は、キリスト教会は一度大きな、新しい革袋への更新を経験しています。宗教改革です。カトリックの人には申し訳ない言い方になりますが、中世のカトリック教会は救いの中身がかなり変質し、少し酸っぱいぶどう酒になっていました。当然、これを保持する外側の部分も、相当いびつなものになっていました。そこでルターをはじめとする宗教改革者たちが、もう一度新しいぶどう酒を醸造したのです。恵みを再発見した、というべきでしょうか。改革者たちはこれに相応しいプロテスタント教会という新しい革袋を準備し、そこに注ぎ込みました。
 個々人の問題で言えば、クリスチャンになる前の自分が古いぶどう酒で、受洗後に新しいぶどう酒になったといえます。当然、日曜日を中心とした生き方、日常の過ごし方、ものの考え方など見える部分がかわります。この変化は、クリスチャンになった後も続くはずです。ぶどう酒が少しずつ熟成するように、我々の中身は、少しずつ良くなっているのです。いつの間にか我々は、神様に喜ばれる薫り高いぶどう酒になっている。そう信じたいと思うのです。
 中身がよくなっているのだとすれば、外側の部分、つまり礼拝、祈り、施し、奉仕、隣人愛、そうした目に見える部分も少しずつ良いほうにかわっていくはずです。それも自発的に。
 始めは粗末なぶどうの実でしかなかった我々ですが、キリストによって変えられ、今もなお、天国に向かって命は豊かさを増しています。外側である生活の部分も、それに相応しいように、整えていきたいと思うのです。(2019年2月3日礼拝説教要旨)

     

新しい神殿 2019年1月27日


コリントの信徒への手紙二6章14節~7章1節
 わたしがサラリーマンをしていたとき、年に一度、社員総出でお宮参りをしていました。それを断ることはなかなかできませんでした。社員でクリスチャンは私一人だけなので、信仰的な話ができる人はなく、どことなく寂しい気持ちを感じていました。
 ある意味では、パウロはそういう状況にある人に対して今日の手紙を書いています。関田寛雄氏によれば、それは「分離」と「帰属」のことです。まず「分離」についてですが、パウロは14節でこういいます。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」。信仰のない人たちと一緒にいることは、整合性が取れなくなり、大きな問題となるとパウロは警告します。また、汚れたものに触れるのをやめよ、といい、不調和をもたらす異邦世界から分離せよ、というのです。
 ここで断っておかなければならないのは、この汚れた者からの分離という概念はパウロの中心的な思想ではないということです。パウロはローマ書などで誰もがキリストの御前で正しくはないのだから、すべての人が救われる必要がある。だから異邦人には異邦人のようになって伝道する、といっています。決して異邦人が汚らわしいから近寄るなというのがパウロの中心思想ではないのです。ではなぜパウロがこのようなことを言わねばならなかったのか。それはいよいよコリント教会に異邦世界あるいは異教世界からの、容易ならざる脅威が迫っていたからだと思います。外部からの迫害ではなく、むしろ信仰や教義を内部から崩壊させる危険がそこにありました。
 パウロは外見ではなく中身つまり霊的な部分が大事であると繰り返し語っています。わたしたちは霊の部分、すなわち内面の部分が汚されないように気を付けなければいけないというのです。たとえ世俗のキリスト者以外の人と付き合うとしても「わたしはこうだ」というキリスト者としての内面をきちんと整え保っていなければいけないというのです。
 その意味におきまして、今日のもう一つのテーマであった、「帰属」というものが大変重要な意味を持ってきます。16節にこうありました。「わたしたちは生ける神の神殿です」。神殿というのは、神に祈る場所、礼拝する場所です。わたしたちは永遠の救いの証しであるキリストの十字架において神とつながることができたわけですから、どんなことがあっても、いつでも神に属する者です。たとえ、この世が異邦世界で覆われていたとしても、わたしの内に広がる宇宙は、霊なる場所であり、神を礼拝し続ける場所です。そういう意味での神殿です。
 たとえば一人のクリスチャンがこの世に生まれるとしたら、そこには神に属する、神の神殿が一つできる、ということを意味します。その場所は清いところであり、同時に、この世に対して神を証しする場所でもあります。
 主イエスは宣教の最後には巨大で壮麗なエルサレム神殿に行かれましたが、宣教を始めたばかりのころは、地方の小さな会堂で教えておられました。わたしたちもまた小さい神殿ですけれども、ここにキリストが来てくださいます。ここが、神を賛美し、祈る場所として存続することが、キリストの大きな喜びとなるのです。(2019年1月27日礼拝説教要旨)


失われた命の回復 2019年1月20日


ルカによる福音書4章16~30節
 主イエスは、あるときお育ちになったナザレの村にきて、ユダヤ教の会堂に向かわれました。その日は安息日で集会が行われていました。そのとき主イエスに手渡された巻物は、イザヤ書でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである」。そう書いてありました。
 「貧しい人」と聞いて思い出すのは、「貧しい人は幸いである」という山上の説教です(マタイ福音書では「心の」が入っていてまた違う意味になります)。ルカにおいてキリストは、この世で一切を失っても、天国ですべてを持つことができるといわれます。第二コリント8章9節にこうあります。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためです」。それが本当の意味での貧者に対する福音です。
 次に「捕らわれている人」ですが、これはバビロンに捕囚された人のことです。しかしキリストにおいては全く別の意味になります。罪と死に捕らわれた人々の解放がある、というのです。バビロン捕囚を解放したのは、政治的に強大な権力を持つキュロス王でした。しかし十字架上のキリストは力ないご様子で、まるで弱々しい敗北者のように死なれました。神の子が一切の栄光を捨て、虚無の中に死んでいかれたのです。この尊い犠牲において人は赦されるのです。
 次に「目が見えない人」です。盲人に限ったことではありませんが、障害を持つ人は差別され、社会の一員としてみてもらえませんでした。キリストはそのような人々をお癒しになるとき、肉体の回復はもちろんのこと、人間としての尊厳を回復してくださいました。それは神から与えられたそのままの命が息を吹き返す出来事でした。
 もう故人ですが、青木優という牧師がおられました。若いころに目の病気になり、全盲になってしまいました。それでも猛勉強して神学校へ行き、牧師となった人です。その青木牧師がこんなことを書いています。「私の両目は視力を失い、ついには全く見えなくなった。しかし、受洗後、聖書を自分で読みたいと点字の学習を始めた。それから五十年余り経った。いま私は確かに『見えるようになった』と思っている。むろん肉眼が、ではない。新しい光の許に、である」。新しい光とは二つの意味があります。一つは盲人になってはじめて気づいた神様の救いの光です。そしてもう一つは障害者に対する社会の不正義、差別をなくすために働くのが私の使命だという、自分に当てられた新しい光のことです。それらを見ることが青木牧師の新しい生き方、福音となりました。
 わたしたちもキリストにおいて見えなかったものが見えるようになりました。一つは罪の中にある自分です。もう一つは十字架のキリストに救い挙げられる自分です。その自覚と喜びの中で、今週を過ごしてまいりたいと思います。(2019年1月20日礼拝説教要旨)


 

主の恵みを信じて 2019年1月13日 


ルカによる福音書5章1~11節
 主イエスがゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の湖畔に立ち寄られた際、二そうの舟が岸にあるのをご覧になりました。見ると漁師が網を洗っていました。彼らは一晩中漁をしましたが、一匹も捕れませんでした。家族を養う責任がある漁師にとって、魚が捕れないということは大変なことです。黙々と網を洗う彼らの心に、虚無や疲れがあったことは想像に難くありません。ところで「御覧になった」のギリシア語エイドンは、「見る」のほかに「目を注ぐ」「感ずる」するなどの意味があります。主イエスは単に舟を御覧になったのではなく、彼らがどんな状態だったのか、どのような気持でいたのか、そこに目を注がれ、心で感じておられたと思うのです。
 主はまず人々に説教され、その後ペトロに向かって「沖に出て網を降ろしなさい」といわれました。このときペトロは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と返事しました。プロの漁師であるペトロは、職業的経験からそれがまったく意味のない行動であることを知っていました。今から網を降ろしても、絶対に魚が捕れることはないのです。ペトロ同様、多くの人間がそうした自分の経験や常識に従って生きています。そういうものにすがって生きている以上は、それを超える存在に気が付かないものです。ところがペトロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と表明しました。それは先ほど触れましたように、主の説教を聞いたからです。これが御言葉の力です。すでにペトロは全くの別人となっています。意気消沈し、下を向き、むなしさの中でただ黙々と生きる人の思いを根底から変えていく力。それがキリストの存在と、主の御言葉にあります。
 「お言葉ですから」というフレーズは、「お言葉通り・・・」といった、あのクリスマスのっときのマリアを思い出させます。マリアもペトロも、この先どうなるかわからない、という不安を抱えていました。受胎告知を受けたマリアの場合は天使が、ペトロの場合は主ご自身が御言葉を語られました。そこで人間を超える力があなたに働く、ということを教えられたのです。
 今日の話は、わたしたちが人生に疲れたとき、どうすればいいのかを教えています。まず一つは、キリストがすでに、あなたの舟に乗っておられることを知ることです。聖書の中にキリストの乗られた舟が沈みそうになる話はいくつもありますが、沈んだ、という話はありません。キリストがともにおられる人生の航海は、力強く、安らぎに満ちたものです。もう一つは、わたしたちのすぐそばにおられるキリストの御言葉を、いつも聞くことです。キリストの御言葉は、わたしたちを取り巻く常識や人間的経験を打ち破って、全く新しい神の御心として、心の深くまで届きます。そこに愛を注ぎ、励ましを与え、命を新しく造り変えていきます。わたしたちはこの舟にキリストが乗っていてくださることを知っていますから、人生の荒波に向かって、安心して網を投げることができるのです。そしてこの舟が多くの恵みで一杯になることを信じることができるのです。(2019年1月13日礼拝説教要旨)

 

     

通ったことのない道 2019年1月6日 


ヨシュア記3章1~13節
 モーセによって率いられたイスラエルの民は、40年にわたって荒野を放浪してきました。そしていよいよ、あとはヨルダン川を渡れば約束の地、というところまでくるのですが、そこでモーセは死に、一つの時代が終わりを迎えます。後継者となったヨシュアは、ヨルダン川西側のエリコを攻め落とすことを決断します。
ヨルダン川を渡る前、イスラエルの高官が人々に言いました。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」。
 「これまで一度も通ったことのない道」というのは、単にヨルダン川を渡る、という意味ではなく、これから経験する大きな試練、すなわちカナン定着のことでもあります。カナンにはすでにいくつかの王国がありましたから、彼らと争いに勝ってその土地を獲得せねばなりません。そのようなことは、彼らにとって初めての経験でした。
 ここで、ヨルダン川を渡るときの順番について目を留めたいと思います。まず神の箱が先頭を行き、その後人が歩いていきます。旧約では神の箱は神の御言葉そのものです。それはまさに、神の御言葉が時代を切り開き、困難を打ち破る様子を表しているのではないでしょうか。
 さらにもう一つは、13節の「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つ」という部分も大変重要です。神の箱が川の流れをせき止める、というのは、御言葉が襲い掛かる困難をせき止めるであろう、という意味です。これは旅の始まりにあった、葦の海の奇蹟の追体験です。旅の始まりから終わりまで、インマヌエルの主が共におられる、というメッセージがそこにあります。
 我々の信じるイエス・キリストは、人となられた神の言葉です。キリストは神から発せられる救いの源です。今日の聖書は、このキリストが迫りくる困難、苦しみ、痛みを押しとどめ、我々にまったき平安を与えてくださることを伝えます。キリストが、いつも一緒ならば、我々はどんな激しい流れにも逆らって歩むことができるのです。
 我々が経験するヨルダン川とはどのようなものでしょうか。それは人それぞれ違うと思いますが、誰もが人生の中では、一度や二度、それまで行ったことのない場所に飛び込まなければいけないときがあります。これを渡り切れるか、流されるのではないか。不安でいっぱいになります。しかし、我々が忘れてはいけないのは、いかなる困難、停滞、不安も、神の御言葉、すなわちイエス・キリスが我々に先んじて進まれる、ということ、さらにはキリストが、その困難を押しとどめてくださる、という約束ではないでしょうか。
 4節の最後には「あなたたちの行くべき道は分かる」とありました。今年、我々はそれぞれ、歩んだことのない道を行きます。どこを歩けばいいか、それは先んじて歩まれるキリストが必ず教えてくださるでしょう。(2019年1月6日礼拝説教要旨)

 

     

安らかに去るとき 2018年12月30日 佐藤千郎牧師


 ルカによる福音書2章22~38節
 「まことにキリストは悲しみと死の陰の下に生まれてきた。それが飼い葉桶の姿であり、神われらと共にいますことであった。」 この言葉は、1969年、日本基督教団総会議長として在職中に、56歳の若さで召された鈴木正久牧師のクリスマス・メッセージの一部です。鈴木牧師は先の大戦で、日本の侵略により深く傷ついたアジア諸国の痛みと悲しみに寄り添い、祈りつつ講壇からみ言葉を語り続けた人でした。
 クリスマスの季節は喜びの季節です。巷で祝われているクリスマスは賑やかで晴れやかです。ただ、それらの中にクリスマスを祝う意味を認めながらも、キリスト教会の立ち帰るべき場所は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と言うみ言葉です。神様は、貧しさと悲しみの中で誕生した主イエスを通して、神様の約束は貧しさの中でも悲しみの中でも、反故にされていないことを明らかにしてくださったのです。
 やがて、定めの時が来た時、両親はお宮参りのために、幼な子イエスをエルサレム神殿に連れて行きました。聖書の記述からは、貧しさの中でも、神様から預かった幼な子への祈りを続ける、両親の誠実な信仰が読み取れます。
 この箇所から、その後のキリスト教会に、多大な影響を与え続けている教父アウグスティヌス(354-430)の母モニカに関するエピソードを思い起こします。彼女は、熱心なキリスト教信者の家庭に生まれ異教徒と結婚しますが、夫の暴力・不倫に苦しめられます。加えて、世の享楽にのめり込んでいった青年時代の息子アウグスティヌスは、彼女にとって苦悩の極みでした。それでも、信仰に生き、涙の日々の中で祈り続けました。
 ある日、息子を追いかけて行ったミラノで、モニカはこの町の司教アンブロシュウスを訪ねて、これまでの思いを吐露し悲しみを訴えます。司教はモニカに語り掛けました、「安心して帰りなさい。涙の子(祈りの)は決して滅びることはない。」と。
人の悲しみに宿る主イエスは、涙の子を見捨てることも見放すこともありません。
 聖書は、主イエスのお宮参りに関連して、シメオンとアンナのことを伝えています。共に、悲しみを伴いながら高齢を迎えた信仰者、望みを失うことなく、祈りつつ神の救いの約束を信じて、生きてきた人たちです。二人は、その深い信頼の中で出会った幼な子イエスに救いを確信したのです。まさに、「飼い葉桶に寝ているイエス」の中に、神が共にいます(インマヌエル)と言う神の真実(メッセージ)を読み取ったのです。
 安らかに去るときを約束された信仰者に与えられた人生最後の務めは、遺される人たちに、「大丈夫ですよ、神が共にいてくださいます。」と語りかけることです。


 

     

救いは来たる 2018年12月23日


ルカによる福音書1章26~38節
 今日お読みした聖書は、マリアのところに天使がやってきて、救い主を身ごもるというお告げを受けるという話です。象徴的なこのシーンを多くの画家たちが描いてきました。それらを見ると、天使からお告げを受けるマリアが大変美しく、またきらびやかな服装をまとっています。しかしそれは、本当のマリアの姿ではありません。彼女は経済的に貧しく、家柄も普通でした。彼女は何も持たない、市井の人間に過ぎませんでした。
 信仰はどうでしょうか。そんなマリアは、天使から最初に「おめでとう」とお告げを受けたとき、「戸惑い、考え込んだ」とあります。「マリア、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」といわれても、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」といって素直には信じられませんでした。彼女はまだ十代半ばだったともいわれ、自分の身に何が起ころうとしているのか、それをすぐに理解することはできませんでした。わたしたちは、従順で信仰深くて・・・というすでに出来上がったマリア像から少し離れて彼女を見るべきです。確かにマリアは、最終的に天使のお告げを受け入れます。それはもともと彼女が素晴らしい信仰を持っていたからではなくて、むしろ普通の人間だった彼女が、神との会話の中で変えられていった、というべきではないでしょうか。
 わたしたちも、教会を初めて訪れたその日から、あるいは聖書の初めて読んだその日から、いきなりキリストを信じることができたわけではありません。何度も繰り返し、聖書から「救い主はあなたと共にいる」「神様にできないことなどない」という御言葉を受け、驚きながら、戸惑いながら、救いを信じられるようになったのです。
 人間という生き物は、とかく「持つ」ということにこだわります。持つことで幸せになれると信じています。確かに、この日本は豊かな国で、豊かに暮らす人が比較的に多いです。しかし家族があっても、仕事があっても、友人がたくさんいても、それでも自分は何も持っていない、と感じる人もいます。人生を左右する大きな問題とぶち当たったとき、わたしたちは「結局自分は何も持っていなかった」ということを知ります。マリアが言った「はしため」という言葉は、もともとは女性の奴隷を表す意味です。それは何一つ所有するものがない人間であることを意味します。天使のお告げを受けたマリアは、いまから起ころうとする出来事の大きさに比べて、今の自分が何も持っていないという事実に気がついたのです。だからこそ、戸惑いました。しかし最終的には、持たないから、主が来てくださった。何もないわたしだからこそ、神様が救いを与えてくださるのだ、そう気が付いたのです。それで、天使のお告げを受け入れることができたのです。
 このマリアの出来事は、私たちの出来事です。マリアの喜びはわたしたちの喜びです。キリストという救い主が、このわたしに来たる。その喜びを携えて、このクリスマスの時を過ごしてまいりましょう。(2018年12月23日礼拝説教要旨)

 

     

救いを内に宿す 2018年12月16日


ゼファニヤ書3章14~17節
 10年以上前、一人の青年が、教会を訪ねてきたことがありました。洗礼を受けたいのだがどうすればいいか、と尋ねられました。彼は、仕事や経済活動について、どんなことでもできないことはない、という万能感にあふれていました。一年近く教会にまじめに通い、洗礼を受けました。ところがしばらくして徐々に教会に来なくなりました。仕事をやめ、家族とも溝ができてしまい、ほとんど誰も彼とかかわりを持たなくなってしまいました。ものすごい自信家だった彼が、自分ではなく神様に救済を求めたことは、ある面で人間の真の姿を現していたと思うのです。救いは自分では作り出すことはできないのですから、外側にある神様に求めるしかないからです。しかし自分の外にある神様を信じる、ということは、その神を内に受け入れることと同じです。神様を信じるということは、古い自分を捨てて生ける神を内側に招き入れ、その神を中心に生きるということです。わたしは、彼にそのことを伝えきれなかったのではないかと、今でも悔やんでいます。
 本日は、ゼファニヤ書を読んでいただきました。預言者ゼファニヤはこう語ります。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルの王なる主はお前の中におられる」。それまで、数々の王がユダヤ人の前を通り過ぎていきました。しかし真の王なるお方は、そこを通り過ぎないで「お前の中に」とどまってくださる、とゼファニヤは言うのです。
 それは主イエス・キリスト以外にありません。主イエスは、永遠の神でありながら、有限である人間のお姿を取ってこの世に来られました。それは我々の肉なる痛み、苦しみを共に知ってくださり、死さえも共有してくださるという真理を通して我々を救ってくださるためです。それがわたしたちとともにいてくださる、本当の王の姿です。たとえわたしたちの人生や生き方が、あるいはその結末が期待とは違ったものになったとしても、わたしたちはキリストにおいて、滅びから永遠の救いへと入れられています。その主を信じ、内に受け入れるのです。
 クリスマスのときに必ず出てくるのはマリアの受胎告知です。マリアの経験とは何でしょうか。いわゆる処女降誕の出来事は、神の摂理として人の力のよらずに救いが完成させられる、という意味があります。一方、人間の側の受け止めとしてはどうでしょうか。それは「通り過ぎない神」が内に宿された、という経験ではないでしょうか。まさんそれは人間から遠かった神の力が内に働いた出来事でした。マリアはこのとき、神の子という決して通り過ぎない、永遠の救い主が内在化したことを知ったのです。
 わたしたちも、マリアのようでありたいと思うのです。すでに申し上げたように、人は、自分で自分のことを救えません。だから神は天から主イエスを遣わして下さったのです。主イエス・キリストこそが、わたしたちの内に宿ってくださり、わたしたちを真に生かてくださるお方です。あのマリアの驚きと喜び、これはわたしたち自身の驚きと喜びなのです。
 すでに、救いへの胎動ははじまっています。神の命の脈動を感じながら、次週クリスマス礼拝を迎えたいと思います。(2018年12月16日礼拝説教要旨)

 

     

キリストの使命 2018年12月9日


イザヤ書55章1~11節
 イザヤ書は旧約聖書の枠組みのなかで書かれている預言書です。しかし新約聖書を読む我々はこれを新約的な視点から読み返す必要があります。そうすることで、旧約の歴史とキリストの歴史が重層的に見えてくるのです。
 1節を見たいと思います。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。バビロン捕囚からの救いを告げる御言葉です。ここを読んで、マタイ11章の「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい」やヨハネ4章の「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない」を思い出す人も多いでしょう。まさに旧約聖書はキリストを預言する書であり、旧約の歴史と新約のキリストは重なっているのです。
 「価を払うことなく」とありましたように、神様の一方的な恵みによって命が回復され、豊かな世界が取り戻されていきます。旧約において、その場所はエルサレムのことです。しかし新約的意味ではそれは教会であり、教会で出会うキリストです。キリストはそのために来られたのです。
 続いて10節を見たいと思います。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない」。天から降った雨が大地を潤し、豊かに実らせ、そしてまたいつしか天に帰っていく、ということは誰もが知っていることです。しかし新約ではキリストが天からくだされる命の水だと考えます。人々を癒し、命を与える雨です。さらに11節を見たいと思います。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」神様の望むこととはなんでしょうか。それは人々が罪から解放され、救われることです。空から降ってくる一滴の水も、大地を実らせるという神の使命があるように、キリストも命の水として人々に救いを与える、という使命を帯び、この世に降りてこられました。
 イエス・キリストは人間の姿を取ってこられた神そのものです。そのキリストは、人間の価値観においては十字架というもっとも悲惨でむなしい死に方をなさいました。そこで歴史が終わっていたら、キリストはむなしいまま、人の救いも訪れないままになっていました。しかしそうではありませんでした。主はむなしさではなく、栄光をまとって神の国へと帰られました。むなしさを生きるわたしたちにとって、そこに希望があるのです。
 キリストの十字架は、わたしたちを罪と苦しみから救い出すと約束してくださった、神様による新しい契約の証です。わたしたちは、もう古い時代の御言葉である600以上ある律法を覚えなくてもいいのです。ただ主イエスが、このわたしを救う方である。それさえ信じて神の国へ続く道を歩いていけばいいのです。すでに、わたしたちの人生の中で主の使命は実現されたのです。その喜びを確かめながら、この待降節のときを過ごしてまいりたいと思います。
(2018年12月9日礼拝説教要旨)

約束は、果たされる 2018年12月2日


エレミヤ書33章14~16節
 第二次世界大戦のとき、ドイツとソ連はお互い攻撃しないという独ソ不可侵条約を結んでいました。しかしドイツは一方的にこれを破棄、ソ連に侵攻しました。ソ連も日本に同じようなことをしました。その日本も、東アジアに八紘一宇の大東亜共栄圏をつくる、といって戦争に進みましたが、共栄圏どころか日本を含む東アジア全体を崩壊させました。約束というのは、平和や秩序の安定のためにするのですから、これが破られると大変なことになります。それは神と人との間についても同じです。
 聖書の人々は、かつて神様と契約を結びました。大雑把に言えば、神に従うならば、平和と繁栄が与えられる、というものです。しかし聖書によれば、人々は神に従うことをやめてしまい、結果として戦争など重大な結果を招いてしまいます。預言者エレミヤは神に従うという約束を破った人々に、裁きを警告します。けれども、そのような警告も虚しく、とうとう南ユダの町は滅び、人々も捕囚されてしまいます。これはある意味で「約束通り」の結果なのです。
 しかしこの命が失われた町に、神は今一つ新しい約束をなさいました。10節、11節を読みたいと思います。人も獣も住まないほど荒れ果てた地域に「喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の歌を歌う声がやがて響き渡るようになる」という告知です。それは命の再生を約束する御言葉でした。この約束は、町と同じくらい荒れ果てていたイスラエル人の心にこだましました。そして14節で神様はいわれます。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日がくる」。バビロンに捕われていた間、ユダヤ人たちは、この約束が果たされる日だけを信じて生き続けたのです。そして50年ほど経って、ペルシャの王にバビロニアが滅ぼされ、人々は解放されます。神様の約束は果たされました。
 今日はアドベントの第一週です。なぜアドベントの第一週にこの聖書が選ばれているのかというと、神様のお約束が、主イエス・キリストのご降誕と結びついているからです。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日がくる」。命の復活を告げるこの御言葉を新約的に解釈するなら、それはイエス・キリストの救いのことではないでしょうか。キリストのご生涯、十字架、そして復活の御業、それら主にまつわる出来事全体が神様の新しい約束である、というのです。
 人は約束を守れない。しかし神様は一度なさった約束は必ず果たされる方です。その約束を守るために、主は地上に来られ、十字架をもって命を捨ててくださり、復活によって永遠の命を示してくださいました。「わたしはあなたを救い出す」という神様の約束は、御子イエス・キリストを差し出してまで完成させられたことなのです。
 人間はこのお方の出現をずっと待ち望んでいました。このお方だけが、神の約束を完成させ給うのです。主イエスは、草木も生えないほど生気を失ったわたしたちに、もう一度命を与え、豊かな実りとして永遠の御国に挙げてくださるのです。わたしたちは「契約の当事者」として、いつもそのことを覚えていたいと思うのです。(2018年12月2日礼拝説教要旨)

 

     

まことの王 2018年11月25日


サムエル記下5章1~5節
 旧約聖書・新約聖書を併せ読むと、ダビデとイエス・キリストがいくつかの点で符合していることがわかります。旧約聖書のダビデにかわる新しい王、まことの王として、新約聖書に描かれたキリストは再解釈されています。
 今日の1節のところで「ご覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です」と人々がダビデへの忠誠を誓う部分がありました。まさしくキリストは、わたしたちと同じ肉体を共有され、生きる苦しみ、死ぬ苦しみを味わわれる方です。神の御子であるにもかかわらず、わたしたちと同じ肉なる姿をとられ、わたしたちの王となってくださったのです。それゆえ、わたしたちはどのようなときにも平安を覚え、この王に従っていこうとするのです。
 また、ダビデは自分を苦しめるサウルを最後まで愛し続けましたが、それは旧約聖書中、もっとも崇高な敵愛の精神だったといえます。されにこれは、主イエスが教えてくださった「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という戒めの実現でもあります。わたしたちはダビデの物語を読んで、どうしてこんなにもサウルのことを愛せるのだろうか、と不思議に思いますが、それは翻って、なぜキリストは「神に敵対し続けるわたし」をこんなにも愛してくださるのだろうか、という不思議さに跳ね返ってくるのです。
 また、油注ぎも重要です。油注ぎは、王や祭司の任職の際に行われる儀式です。キリストは十字架にかかられる前、すなわちまことの王としてその責任を果たされる前に、一人の女性によって香油を注がれました。キリストはその香りを携えたまま十字架にかかってくださったのです。ダビデは政治的、軍事的な意味においてメシアとして働きを期待されましたが、キリストは、永遠の王、メシアとしてわたしたちを導くため、この地に来られたのです。
 本日は創立記念礼拝ですから、以上のことから教会論、信仰論として3つのことを考えたいと思います。一つ目は「集う」ということです。1節では「イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った」とありました。弱き民が、力強い王のもとに集まるのはいつの時代も同じです。こうして神に導かれてダビデのもとに集まった人々のように、まず、我々はまことの王キリストのもとに集まるのです。
二つ目が「分かち合う」ということです。イスラエルの民が、王であるダビデと骨肉を共有している喜びを分かち合ったように、我々はこの教会の中で、聖餐という形でキリストと命を共有している恵みを分かち合い、生も死もキリストと深いところでつながっていることを感謝するのです。
 そして三つ目は、今日の長老たちのように、主イエスに油を注ぐこと。つまり、あなたがわたしの王です、と高らかに宣言することです。敵であった我々をどこまでも愛し、十字架においてその罪を赦し救いへと導いてくださったキリストを賛美するのです。これまでの143年の歩みにおいて、牧師も信徒もみなそのような営みを続けてきました。そしてその営みは、御国が来るまでずっと続いていくのです。(2018年11月25日創立記念礼拝説教要旨)

     

燃え尽きぬ炎 2018年11月18日


出エジプト記3章1~15節
 モーセは旧約聖書の歴史におけて、もっとも大きな足跡を残した者の一人です。モーセはエジプトから数十万もの人間を率いて、40年間も荒れ野を旅しました。時々人々が不平不満をこぼすこともありましたが、そのときはモーセは神と人の間に立ち、むしろそのピンチを恵みに変える働きをしました。神はそのためにもっとも相応しい一人を選び、召されました。
 今日の聖書は、そのモーセが神に召命を受ける場面です。あるとき、モーセは羊の群れを追っているうちに神の山ホレブに来ました。そこで不思議な光景を目にしました。今まで歩いてきた道から少しそれたところに、柴が燃えていたのです。そして、その柴は、燃え尽きることなく、いつまでも燃え続けていたというのです。モーセはその時、こうつぶやきました。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」。「道をそれて」。今まで歩んできた道をそれる。それは、今までとは違う人生に入っていくことを意味していました。
 わたしたちはそれぞれ、この世の道を歩んでいます。多くの場合それは利己主義、能力主義というこの世の理(ことわり)に支配されたものです。エジプトの強大な力は、まさにそうした理屈の軍事力、経済力、人民力に依拠していました。そして、それらの点ですべてに劣るイスラエル民たちが、エジプトから簡単に脱出できるはずがありません。しかしモーセは、この世の理からそれたところにある炎を見たのです。彼は少し躊躇するのですが、炎の中に現れたる神と対話を交わす中で、考えが変わっていきました。そしてついに出エジプトのために立ち上がることを決心したのです。
 わたしたちもこの世の常識やこれまでの自分、今の自分、というところから少しそれて、燃えている神の炎を見つめ、神と対話を交わす中で、新しい道を歩みたいと思うのです。わたしたちの信仰でいえば、燃え尽きない炎とは主イエスのことです。わたしたちが信仰生活を送るようになったのは、この世から少し離れたところで輝く、イエス・キリストの光を見たからだ、といえないでしょうか。人生は、まさに荒れ野の旅です。飢え渇き、苦しみ、失望の日々です。しかしその人生の傍流で、いつも輝いている炎がある。不思議に暖かく、強い力を帯びた光です。その炎を見たときに、わたしたちは新しい人生、新しい自分を発見するのです。
 そしてもう一つ、主イエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれましたように、この教会が燃える柴といえないでしょうか。わたしたちは日曜日の朝になれば、ぞろぞろと、この坂を上って教会に集まります。「この世の道」だけを歩いてきた人からすれば、実に不思議な光景です。あの場所は何だろう。いったい何があるのだろう。道をそれて、それを見届けたい。わたしたちの教会は、そういう輝きを持つところでありたいと思うのです。
 モーセはあの柴の炎を見てから、すべてが変わりました。つらいけれども、素晴らしい人生でした。わたしたちも教会という場所で、永遠に輝く主イエスのご栄光をしっかりと見て、喜びに満ちた、素晴らしい人生を歩んでいくことを信じたいと思います。(2018年11月18日礼拝説教要旨)

     

神の選び 2018年11月11日


ローマの信徒への手紙9章1~9節
 10年以上前のことですが、我が家で猫を飼うことにしました。ペット屋さんに行ってみると、白い猫、黒い猫、灰色の猫、寝ている猫、いろんな猫がいましたが、そのなかでもひと際わたしたちの目を引いたのが、小さなお人形さんみたいな、白い猫でした。毛が長くて、目がクリクリの女の子の猫でした。わたしたちはその猫を飼うことにしました。名前はランとつけました。
 それ以来、毎日が楽しくなりました。リビングが一つしかないような狭い家でしたが、ランは飛び跳ねたり、走ったり、何かをつまんだり、ころがしたり、とにかく元気いっぱいです。何をしてもかわいらしく、本当の子どものような感じでした。
 数年後、わたしたち夫婦に男の赤ちゃんが与えられました。それまでとは違う形の幸せがやってきました。次第に子どものことでもっと忙しくなり、ランと一緒にいられる時間が少なくなりました。さらに悪いことに、子どもに猫アレルギーが見つかりました。ランは狭い書斎に閉じ込められることになりました。仕方がないこととはいえ、ランにひどいことをしている、申し訳ないという気持ちを持っていました。
 あるとき、ランが元気がなくなっていることに気が付きました。お医者さんに連れていくと腎臓の病気でもう治らない、といわれました。二週間後、わたしの大好きなランちゃんは、天国へ行ってしまったのです。まだ7歳でした。わたしは悲しくてわんわん泣きました。ごめんなさい、と天国のランちゃんに謝ってばかりでした。空を見ると、浮かんでいる白い雲がランちゃんに見えて、また涙が出てくる、そんな日々でした。あのとき、ランを選んでよかったのかな、もっといい飼い主がいたかもしれないな、と思ったりもしました。けれどもふと、神様がそれでよかったのだよ、と言ってくれたような気がしたのです。あのペット屋さんで猫ちゃんが並んでいたなかで、ランを選んで本当によかった、と心の底から思いました。いや、わたしたちが選んだというより、神様がこの子を選んで、わたしたちの家に連れてきてくださったのだと思いました。神様ありがとう、ランちゃんありがとうとお祈りしました。
 今日の聖書には、人間の子どもが生まれるとき、それは神様の選んでくださった子が、神様のお約束で生まれてくる、ということが書いてあります。世界で一番そのおうちにぴったりの子こどもを、神様が選んでくださるのです。ときどき「子どもをつくる」という人がいますが、それは間違いです。わたしたち人間に、子どもをつくることなどできません。産む、産まないという選択や、いつ産むかという選択はできるかもしれませんが、一つの命を、人間が作れると考えるのは行き過ぎています。
 ここに集まってくれた子どもたちのなかで「自分のお家じゃなくて、あのお友達の家に生まれたかった」という人はいますか?お父さん、お母さんのなかで「この子じゃなくて、あの子がよかった」という人はいますか。いないはずです。多少ケンカしても、うまくいかないときがあっても、わたしたちの大切な家族は大丈夫です。なぜなら、わたしたちは神様に選んでもらった、世界で一番ぴったりの人なのですから。(2018年11月11日合同礼拝説教要旨)

     

虹の契約 2018年11月4日


創世記9章8~17節
 第二次世界大戦において、日本では軍人200万人、民間人100万人が亡くなったといわれます。わたしたちの教会にもその記憶とともに生きている教会員がいます。これだけ悲惨な経験を持つ日本も、それと同じかそれ以上のことを、中国、韓国、アジアの人々にしてきました。ヨーロッパでも惨い戦争状態が長く続きました。あの時代は、まさに、この世が終わるのではないか、と思うほどの、破壊と混乱が地球規模で続いた時代でした。
 なぜこんな話をしたかというと、今日の聖書を読んで、世界規模で起こった激しい艱難を生き抜いたノアの家族と、我々とに重なる部分がある、と思ったからです。地上に増えた人々が、いつしか堕落し、悪しき行いをしていた、という話からこの物語はスタートします。聖書を読めば読むほど、我々の時代もそうではないか、と思わされます。神は全人類とすべての生き物を滅ぼされるとお決めになりましたが、しかしノアを選ばれ、家族と一部の動物を箱舟に乗せて救われました。我々は生き残った者なのです。
 ノアの物語には、勧善懲悪的な意味もあったと思いますが、神様が赦しの中で善なる世界を希望し、この世をもう一度再創造してくださったという恵みを、人類全体に伝えるためではなかったでしょうか。
 ですから、あの悲惨な世界大戦を生き残った我々としては、それを引き起こした人間の過ちを伝えるとともに、そんな我々をも神様は愛してくださり、戦後の復興と平和への歩みを進んでくることができた、ということも語っていきたいと思うのです。
 さて、ノアが洪水の後、大地を見つけ、そこで新生活を始めたとき、神様は何を与えられたでしょうか。それは「虹の契約」でした。人類が古い時代に終わりをつげ、新たに神様との関係を結び直して、祝福に満ちたよい世界を築く時代を迎えていく、という契約です。虹という言葉は、もともとは弦を意味する単語だったようで、これを縦にすると「弓」という意味になります。縦にすれば、人間を撃つ裁き、しかし横にすれば、人を生かす希望の懸け橋になる。確かにノアの時代、神様は確かに大きな裁きを加えられ人々を撃たれました。しかし神は、弓を持ちなおされ、これを横にしてくださったのです。そこに平安と希望を与えられたのです。ノアはこの虹を見ました。そして彼が生き残りの命を与えられたのは、この裁きと救いの両方を意味する虹について後世に伝えることだったのです。
 ある意味では、わたしたちもノアが経験したような悲惨な状況から命を与えられ、生かされている者です。最終的には、神が人を撃たれる縦の弦ではなく、横の弦、すなわちイエス・キリストという、希望と輝きに満ちる虹を与えてくださいました。それゆえ、我々自身もまた、いつまでも縦の弦を持ち続けるべきではありません。人を攻撃し、痛めつけ、傷を負わせる。そのような縦の弦に頼ってはいけない。そう思うのです。横の弦、虹に契約よって生かされているのですから、我々も平和を、和解を、希望を、横につなげていきたいのです。
 虹の見えるときも、見えないときも、いつも創造主である神様、そして救い主であるキリストのことを信じていたいと思います。(2018年11月4日礼拝説教要旨)


 

     

神の英知、人の無知 2018年10月28日


ヨブ記38章1~18節
 「どうして神様は、ウィルスなんてつくったの?」と、息子に聞かれたことがあります。困りました。ちょうどそのとき、アフリカでエボラ出血熱が流行っていた時期で、多くの人が亡くなっていました。「ウ、ウィルスがあるから、人類は強くなったのだよ」などと、ほとんど答えになっていないことしか言えませんでした。息子が知りたかったのは、なぜ神様がそのような理不尽な状態を容認しておられるのか、という哲学的な問いです。それに対する答えを、わたしは持ち合わせていなかったのです。
 旧約聖書のヨブ記も、理不尽な状態がなぜ起こりえるのか、ということをテーマにしています。具体的には「なぜ正しい人が苦しむのか」ということです。ヨブはまったくの義人なのに、家族を失い、自分もひどい病に見舞われます。こうしたことについて、例えば仏教では、あなたが理不尽な目にあうのは、前世か先祖が悪い行いをしたからだ、と説明されることがあります。だから来世で不幸になりたくなかったら、現世でいいことをしなければいけない、となるわけです。これは極めて合理的な考えで納得させられます。
 聖書はそのような合理的を与えていません。ヨブ記を読み進めてもなぜ正しい人が苦しむのか、ということについての答えはないままです。わたしには、それは「人は無知である」という謙虚さに立たねばならない、というメッセージに思えます。
 神様は2節でヨブに話しかけられます。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」。経綸とは神の秩序を意味しますが、この場合それは創造や自然ということです。考えてみれば、わたしたちが宇宙や自然について知っていることはそう多くはないです。ほんの少し前まで、地球が丸いということさえ知りませんでした。今もって、重力、光、素粒子、生命の発生、宇宙の始まり、それら神の経綸に関することは、まだ何もわかっていないのです。あるいは自分自身についてはどうでしょうか。自分の性格も能力も、他人から見ると全然評価が違っていたりします。自分ではもっとよい生き方をしたいと思っていても、それもできない。わたしたちは自分のことを知らず、コントロールする術も知らないのです。
 ヨブ記は、「人は何も知らない」という究極の認識を語るのです。しかし知らないという現実に立って初めて、見えてくる世界があると思うのです。
 ヨブの最後の言葉は「わたしは自分を退け、悔い改めます」です。ヨブは知らなかったのに知っているようなつもりでいた自分を退け、悔い改めました。それは神にすがり、神を中心とした信仰に立ち返ることを意味しています。何も知らない赤ちゃんが親にすがり、親によって生きることができるように、我々も、知らないことを通して神にすがって、神によってのみ生かされる存在である、ということを再認識すべきです。
「なぜですか」「どうしてですか」と答えのないものを求めて神様に矢印をぶつけ続けるよりも、神様がこの試練を通してわたしに何を求めておられるのかという、神様からの矢印をいつも感じていたいと思います。(2018年10月28日礼拝説教要旨)

主の山を目指して 2018年10月21日


イザヤ書25章4~10節
 イザヤ書の各所には、神に背いた人々の罪とこれに対する裁きの言葉があふれています。しかしそれだけでなく、預言者イザヤは救いについても語ります。「まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/(中略)暴虐な者たちの歌声を低くされる」(4~5節)。神様は弱い者の砦となって強国の攻撃を鎮めてくださるといいます。それだけでなく、神様は「山」で民を祝福されます。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。主はこの山で/(中略)死を永久に滅ぼしてくださる」(6~7節)。この山とは、シオンの丘のことで、かつてソロモン神殿があったところです。イスラエルの人々にとっては、心のよりどころ、神がおられる場所です。そこでは永遠に死がなく、救いと平安に包まれています。そこから転じて、イスラエルの国そのものを指す言葉にもなりました。
 ところで皆さんは、シオニズムという言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。「シオンの丘」にもう一度国家を建てる。ひたすらその望みをもって生きていくこと、それがシオニズムです。しかしシオンというのは、単に空間的な場所、あるいは地上的な国家を指すのではありません。先ほどの7節に「死を永久に滅ぼし」とあるように、時間を超えて神様の約束が満たされる場所、この世を超越した永遠性を有する場所です。
 歴史の中で祖国を失ったイスラエルの人々は、数千年もの間、この地上にそうした場所が実現することを求めてきました。それも彼らの信仰の形でした。そして相当無理な形でしたが、第二次世界大戦後、イスラエル国があの場所にできたのです。しかし残念ながら、今のイスラエルの人々も、そして彼らに抑圧されているパレスチナの人々も、命を失い、涙を流し続けています。今のイスラエル国家というのは、その意味で本当のシオンではありません。政治的な力、経済的な力、軍事的な力、そのようなこの世の力でもって神様の約束された国は実現できないからです。
 では本当のシオン、神様の約束された国はどこにあるのでしょうか。それはキリスト・イエスによって啓示された、天の御国以外にありません。苦しみがなく、涙がない、死さえも滅ぼされた永遠の平安。これはユダヤ人のみならず、我々人間なら誰もが求めている究極的な場所ではないでしょうか。この世の一切の営みを介さず、ただイエス・キリストの十字架と復活によってのみ完成される天の御国です。我々にとってのシオニズム運動とは、イエス・キリストをただ信じて天国を目指して生きること、これに尽きます。
 9節、10節を読みたいと思います。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。」
 人生というものを、この世的な意味で見通すなら上り坂があり、下り坂があります。しかし霊的な意味では、つねにわたしたちは山の頂上を目指して上り続けるものです。最後まで主と共に、光り輝く頂上を目指して歩き続けたいと思います。(2018年10月21日礼拝説教要旨)

 

     

信仰による生涯 2018年10月14日礼拝


ヘブライ人への手紙11章17~31節
 先日の祈祷会で「信仰を持って生きることは本当に大きな恵みですね」といった方がありました。その方はクリスチャンではありませんが、すでに神様が大きな信仰を与えておられることに感動しました。
 多くの人にとって、信仰というのは必要不可欠なものではありません。それがなくても生活は成り立ちます。私がサラリーマンだったころはまさにそういう日々でした。クリスチャンではありましたが、教会や礼拝なしに毎日の生活が成り立っていました。今思えば、あのときのわたしは信仰の灯が消えかかっていたと思うのです。けれども神様が聖霊の風を送ってくださり、御手をもって炎が消えないよう守っていてくださったのです。それで今、このように教会で神に礼拝をささげる生活をしておりますと、逆に「もし信仰を持っていなかったらどうなっていただろうか」という思いがします。
 信仰を持って生きることの素晴らしさとは何でしょうか。わたしが思うに、それは三つあると思うのです。まず一つ目は「御国という平安を常に与える」ということです。13節では、アブラハム、イサク、ヤコブたちが、信仰によって本当の故郷である御国を待ち望んでいた、とあります。おそらく、信仰を持たない人々は、自分がやがてどこへいくのかということについてはどこかぼんやりとしたビジョンしか持ちえません。その点我々信仰者は、自分という存在がどこへ向かうのかをはっきりと知っているので、いつも平安でいられるのです。
 信仰が与える二つ目のものは「試練を受けたときの力」です。17節によれば、アブラハムは試練を受けたとき、信仰によってイサクを献げたとあります。ヘブライ書の著者によれば、どんなに大きな苦難が訪れても、信仰によってこれを乗り越える力が与えられるというのです。
 信仰が与える三番目のものは「人生のつながり」です。「人生の意義」といってもいいです。23節から29節にかけて、モーセの誕生と生涯のすべてが、神の賜る信仰によって裏打ちされ、意義づけられていく様子が語られています。神への信仰が、人生が神においてつながっていることを確信させるのです。
 モーセほど、スペクタクルな人生を送る人は少ないと思いますが、それぞれ人生の中では節目があったり、大きな転機が訪れたりします。それらの出来事が、単なる偶然の産物であって、意味を持たない事象の連続であるならば、それは虚しいことではないでしょうか。しかしモーセが信仰深い両親のもとに生まれ、燃え尽きない柴の中で神の御声を聴いたのは、偶然ではなく神の必然でした。命の創造主である神様は、あなたの命と人生は、そこになければならないと、定めてくださる方です。それを信じるのが信仰です。この信仰によって生きる者は、自分という命が創造されたこと、および神様によって彩られた人生の一つ一つに意味があることを信じられるのです。我々にとって、信仰はなくてはならないものです。
 これからも、主の日の礼拝を重んじ、御国に向かって、意義深い、恵み豊かな信仰の道を歩みたいと思います。(2018年10月14日礼拝説教要旨)

 

     

真実を見る心 2018年10月7日礼拝


使徒言行録5章27~42節
 鎌倉幕府が成立した年?と聞かれたら、1192年と答える人は多いと思います。しかし最近の研究でそれが1185年ごろに変わったそうです。わたしたちが教科書で教えられたことは、必ずしも正しいことばかりではないということです。にもかかわらず、わたしたちは「教科書」にあまりにも無批判だとはいえないでしょうか。
 あるとき、ペトロと使徒たちが大祭司から尋問されていました。ペトロたちは、大祭司からの伝道するなという命令に背き、堂々とイエス・キリストの福音を伝えていました。ペトロは「わたしたちは人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」といい、さらには「あなたたちが殺したイエス・キリストを、神は復活させられました。あなたたちは、その罪を悔い改めてイエス・キリストを信じなさい」と説教をしたといいます。これに、大祭司やサドカイ派が烈火のごとく怒り、ペトロたちを殺そうと考えました。彼らの怒りは、自分の中に生成されていた「律法」という教科書(それは必ずしも聖書の律法と同じではない)に反するために生じたものです。要するに自分という教科書に従っていただけなのです。
 そのとき、ファリサイ派の教師ガマリエルが立ち上がりこういいました。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。ガマリエルはファリサイ派の教師ですから、基本的にはイエス・キリストや弟子たちには反対の立場です。しかし彼は、もしペトロたちキリスト教徒が滅びずに歴史の中で活動できるならば、それは神がお認めくださったことだと考えたのです。ファリサイ派としての教科書ではなく、神の御心を教科書にしようと考えたのです。
 この冷静さは大変重要であると思います。かつてアメリカが同時多発テロの報復としてアフガニスタンに攻め込んでいったとき、アメリカ議会でたった一人だけバーバラ・リーという議員が反対しました。彼女はクリスチャンです。彼女が反対票を投じたとき、次のように演説しました。「このほど、アメリカに起こった言葉にできないほどの悲しい出来事は、わたしを道徳と、良心と、そして神に従うよう迫ります。わたしは、通っている教会で牧師の説教を聞いた時、反対票を投じる決意ができました」。彼女は、世の中の風潮ではなく、説教を通じて神の御声を聴き、これに従おうとしました。結果は420対1でした。しかし歴史を見れば、バーバラ議員が正しかったことは証明されています。
 大きな悲しみや強い怒りが自分を支配しようとするとき、今神様の示される真実とは何か、選ぶべき正しい道は何か。その答えを心を静かにして待ちたいのです。教師ガマリエルが語ったように、歴史の中でキリスト教は滅びませんでした。イエス・キリストが真の救い主であり、主の十字架がすべての人を御国に導く真理であるということを歴史を通して神ご自身が証明されたのです。わたしたちがこのキリスト教の歴史に参与し、推し進める働きに身を投じることは、神の救いを証する素晴らしい働きではないでしょうか。自分ではなく聖書、すなわち神の御心を教科書にして、歩んでまいりましょう。(2018年10月7日礼拝説教要旨)

 

執り成しの愛 2018年9月30日礼拝


出エジプト記32章7~14節
 旧約聖書の冒頭には失楽園の物語があります。そこに人間は本質的に罪を内包しているのだ、という聖書の根本的なメッセージが示されています。そして、今回の話も罪の問題です。モーセがシナイ山に登っている間、人々は不安になり、金で子牛を作って拝んでいました。これまで過去何度も人々の罪を赦された神様ですが、今回のことはレベルが違いました。10節でこう言われます。「わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くす」。この御言葉を割り引いて読むべきではないと思います。人の罪が極まれるとき、神様はその罪を根源的な人間もろとも消し去ろうとなさいました。神様以外の像を作って拝むということは、神様の存在を否定することです。神様の存在を否定するということは、この世と歴史のすべてを無価値にしようとする試みです。被造物たる人間の、これ以上ないほどの大罪を、神様が怒りをもって処断なさることになんの留保が必要でしょうか。
 モーセは、そんな神に対して懸命に執り成そうとします。「あなたは子孫を天の星のように増やすと約束なさったではありませんか」。「罪に堕ちる人々」「怒りに燃える神」そして両者の間に立ち「執り成す者」。この三者は、新約聖書になって違う形で現れます。
 マタイによる福音書3章10節に「斧は既に木の根元に置かれている」とあります。良い実を結ばない木は切り倒され、火に投げ込まれるといわれます。罪深き人間に対する神の厳しいまなざしは、旧約も新約も本質的には同じです。裁きの斧はすでに根元に置かれているのです。
 一方、ヨハネによる福音書17章21節では、主は神に向かって次のように祈られました。「すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください」。罪人の救済を願う、切なる祈りです。このようなところを読むと、モーセと、主イエスのお姿が重なって見えてきます。両者は、神と人との間に立ち、迫りくる神の怒りを押しとどめ、滅びに定められていた人々を救い出すのです。しかし、キリストとモーセでは本質的に全く違います。モーセは一切の犠牲を払うことなく救いを願いましたが、キリストはすべてを投げ棄てて執り成してくださいました。モーセの救いは、その時代、その場所にいる者のみに与えられましたが、キリストの十字架は、すべての時代に生きる人に与えられる永遠の救いです。
 「わたしはこれからヨルダン川を越えていこう、わたしはこれからそこへ行こう、わたしの兄に会うために故郷へ帰ろう、わたしはこれからそこへ行こう」(黒人霊歌)。苦しみにあえぐ奴隷たちにとって、ヨルダン川の向こう側は、最終の地、約束の場所です。物理的な意味ではなく、霊的な救いの場所です。キリストによって救われ、天国へと凱旋するのです。それはキリストによる新しい出エジプトを意味します。我々もそうであることを信じたいと思います。罪深き我々のために、命を捨てて執り成してくださったキリストを信じ、我々の旅の最終地点天へ向かって歩むこと。この罪深き世界と自分から解放されて、永遠に天国の住民となること。それを新約聖書のみならず、旧約聖書のどのページを見ても信じられる者でありたいと思います。(2018年9月30日礼拝説教要旨)

秘められた計画 2018年9月23日礼拝


コロサイの信徒への手紙1章21~29節
 よくテレビドラマなどで、最初のほうにちょっと気になるシーンが出てきて、後でその意味が分かる、ということがあります。いわゆる伏線というやつです。聖書で言えば、最大の伏線は、アダムとエバが罪に堕ちてしまうことです。神が創られた素晴らしい世界に罪が入り込み、人間は罪を犯すようになった。この伏線は、新約聖書になって引き取られていきます。
 22節を読みます。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」。キリストにおいて、我々は神と和解し、神のみ前に立たされたとしても、とがめるところのない者となった、というのです。
 なぜ神は長い間このご計画を秘めたままにしておかれたのでしょうか。一つの考え方として、ローマ書3章26節の「神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」があります。神様は忍耐をもって我々がご自分に立ち返るのを待っておられたが、人は背いたままであったので、いよいよキリストを遣わされ、救いを与えられたのだ、とパウロは言います。
 我々には、神が周到に練られた救済計画のすべてを理解することはできません。しかしながら聖書を知識としてではなく一人の登場人物となって経験するとき、本当の意味で書き手の意思がわかってくるのではないでしょうか。わたしたちは、例えば苦しんでいる人のそばを黙って通り過ぎる者の中に自分を見ます。あるいは「社会的常識」「自分の価値観」という石を握りしめ、他者に向かって投げつけようとする人の中に自分を見ます。あるいは、重荷を負い、苦しみの中を倒れる者として自分を意識します。これらの状況をひっくり返す人物は、聖書には出てこないのです。あのみすぼらしい格好をした主人公を除いては。
 そしていよいよ、我々は神が「ここ」とお定めになったページで、その主人公と出会います。そこで、罪赦しが宣言され、痛みや苦しみからの解放が告げられ、光り輝く世界についての希望が語られます。長く隠されていたご計画が、明らかにされます。そこで我々は、5000人の食事や、病気の癒しや、ラザロの復活と同じ経験をするのです。すなわち、失われていた命がキリストによって回復させられるということを、我々自身が経験するのです。
 我々はしばしば思います。どうしてこうなってしまったのか。なぜうまくいかないのか。そういう引っ掛かりを覚えたまま、人生を歩んでいます。しかし本当の意味でキリストと出会ったときに、それらの出来事がすべて、キリストという神の秘められたる計画(ミュステーリオン)と出会うための、伏線であったと気が付くのです。
 人生が、神がお定めになったページに進むまで、キリストの存在は隠されていました。それでよかったのです。周到に練られた、崇高で完全な、神の御計画です。そして我々はついに、喜びに満ちた結末へと導かれるのです。それはすでに、聖書において示されています。光り輝く救いの世界へ、我々はついに入っていくのです。(2018年9月23日礼拝説教要旨)

たった一度の犠牲 2018年9月16日礼拝


ヘブライ人への手紙9章23~28節
 イスラエルに旅行する人は「嘆きの壁」に立ち寄ると思います。昼夜を問わず、ユダヤ人たちがここにやってきて一心不乱に祈りをささげています。2000年前、このエルサレム神殿の至聖所というもっとも神聖な場所で、一年に一度、大祭司が山羊の血を振りかけて人々の罪を贖う儀式をしていました。それから、生きているオスの山羊の上に手を置き、荒れ野に放つ、という儀式もありました。荒れ野には餌となるものがありませんから、山羊はいずれ死んでしまいます。そのときに、全ユダヤ人の罪が赦されるというのです。
 これらの儀式は複雑で、神秘主義的です。人の目から遮られているために、罪が赦されたと人々が実感することは難しいのです。また、毎年繰り返す必要があり、その意味でこれらの儀式は不完全であったといえます。
 主イエスの時代になって、このような儀式的意義がひっくり返されます。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」。昔の大祭司は自分のものではない血、すなわち山羊の血を携えて至聖所に入りました。しかし主はご自身の血をもって、十字架という贖いの場へと臨まれました。また、かつての大祭司が、人眼から遮られたところで、秘儀として行われた贖いの儀式は、主の十字架においては、誰もが目にすることのできる、自分のための救いの出来事だと実感できる形で行われたのです。さらに、これらの儀式は毎年毎年、同じことの繰り返しをしなければなりませんでしたが、主イエスはただ一度、十字架にかかられたのです。それこそが、完全であることの証であり、救いの永遠性を示しているのです。
 世の中には、繰り返しが必要なものは多いです。勉強も芸術もスポーツも、繰り返しチャレンジすることでより良いものになっていきますし、愛情も一回よりは繰り返すほうがいいです。信仰生活においても、礼拝出席や祈りは繰り返されることでその人の霊性を高めていくことになります。しかし誤解を恐れずに申し上げるならば、繰り返しというのは、不完全の裏返しではないでしょうか。芸術、スポーツなどは繰り返すことで中身が向上します。信仰についても、繰り返してこれを実践して、天への道から離れないようにしなければならないのです。
 すべてのものが過ぎ去り、すべてのものが移り変わっていくこの世です。およそわたしたちが見、手に触れ、感じることのすべては、完全ではありません。しかし、わたしたちが生まれ、ここに生かされていることは確かな事実です。そしてこの一人の、一度きりの人生とたった一つの命のために、主が命を捨ててくださった。それも真理です。不完全なものでありながらも、完全に罪赦され、けがれなき者として天国に挙げられるという、上なき恵みを、一度の主の十字架、そして主の復活がもたらしたのです。
 わたしたちには、きらびやかな神殿も、かわいそうな山羊も必要ありません。ただお一人の救い主さえおられるだけでいいのです。このキリストと共に生きる幸いをかみしめつつ、これからの人生を過ごしてまいりたいと思います。(2018年9月16日礼拝説教要旨)


     

与える人に 2018年9月9日礼拝


コリントの信徒への手紙二9章6~15節
 2000年前、スタートしたばかりの教会に、二つの軸が形成されていました。一つは、パウロを中心として西の異邦人世界に広まった異邦人教会、もう一つはエルサレム教会です。そして、はっきりとしたことはわかりませんが、エルサレム教会は律法主義に回帰していき、金銭的には苦しい状態になっていったようです。パウロは、律法解釈をめぐって、エルサレム教会と対立したことがあります。そのパウロが、今日の聖書で何を語っているかというと、エルサレム教会への献金です。
7節に「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」とあります。いやいやではなく、自発的にこの献金活動に参加せよ、といいます。これはまさしく敵愛や隣人愛の精神です。
 続いてパウロは、10節でこのように語っています。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」。
 わたしたちは献金を用意する時、これをどうしようか、あれをどうしようかと、あらゆることで思い悩みます。おそらくまじめな人ほど、献金に悩むのでしょう。パウロは、献金は根本的に自分で作り出すことはできず、神様が与えてくださるものだといいます。つまりあれこれ心配する必要はなく、献金できるだけのものを、神様が与えてくださるというのです。
ある教会に70代半ばの女性がおられました。なんとそのお年で社員として働いておられました。彼女が言うには「働くことで、献金ができますから」ということでした。神が彼女に与えておられるのは、経済的なものだけではなく、「ささげよう」という前向きな気持ちや、またそれを支えるだけの健康や時間も与えてくださるということを知りました。
 11節に「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり」とありますが、すべてのことに富むというのは、そういうことです。教会に奉仕することができるだけの、信仰、体力、時間、環境、あらゆる備えを神様がしてくださる、そういうことなのです。ですから、献金をしたり、奉仕をすることができる、というのはそれだけで感謝なのです。
 その一方で、奉仕をする余裕はない、礼拝出席さえも難しい、そういう人もおられます。しかし、神様がその人に与えられているものは、ゼロではないはずです。一週間、なんでもいいから神様と隣人に身をささげるような生き方が本当の献金です。心のこもった気持ちと、いくばくかの時間を、神様と隣人にささげる。小さくても、それが本当の献金です。
 逆にそのチャンスがありながら、これを活かすことができていないとすれば、とても残念なことです。神様の求めを、軽んじるべきではありません。そこには「〇〇できない自分」がいるのではなく、「〇〇できる自分」がいるのではないでしょうか。いいわけせずに、至らなかった自分を見つめ、悔い改めなければならないと思います。そして感謝をもって、ささげる人に、与える人になりたいと思います。(2018年9月9日礼拝説教要旨)

主へのささげもの 2018年9月2日礼拝


マルコによる福音書12章38~44節
 あるとき、主イエスと弟子たちは、神殿にやってきました。目の前に賽銭箱が置かれていました。そこに一人一人が献金を入れていきます。大勢の金持ちがたくさん入れていく中、レプトン銅貨二枚(100円~200円程度)を入れたやもめがいました。そのとき、主イエスが弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。
 もしあなたは、いつも主に何をささげていますか?と問われたらどう答えるでしょうか。恥ずかしく思ったり、居心地が悪いと感じるのではないでしょうか。それは、自分の信仰が主の恵みに対して十分ではないと知っているからです。しかし、考えてみてください。わたしたちが神様から受けた愛という大きな負債を、完全に返済することは可能でしょうか。それはできません。わたしたちは有限で、主の愛は無限だからです。たとえ不十分でも、しっかりと心を込めて、主のためにささげものをしたいと思うのです。
 主は「やもめが生活費の全部を入れた」といわれましたが、「そのとき」の全財産であり、そこで持っているもののすべてをささげた、という意味に理解しています。すなわち、自分の持ちうるものの中で区切りをつけて、ここは神様に、ここは自分にという選択があっていいのではないでしょうか。ルカによる福音書19章によれば、罪深いザアカイは、主イエスと出会い悔い改め、貧しい人にお金を返す約束をしました。その際「半分」を放棄することで、主から祝福されています。全部でなくてもいいのです。その人がなしうるところの全部、ということです。その代わりささげるものについては、真剣に祈りつつささげるのです。
 たとえば今日ささげられる献金が、たとえ全財産ではないとしても、真剣に、教会のために、神様のためにと祈りながら、ささげる。そういう姿勢を問われているのです。あるいは、司会であれ、掃除であれ、お花や教会学校の奉仕であれ、神様が喜ばれるように、真剣に準備し、日曜日に臨む。それが持っている物をすべてささげるということです。
 同志社大学を創立した新島襄は、まさに今日の聖書と同じ体験をアメリカでしました。所属するアメリカン・ボードという教団の総会で、日本にキリスト教の学校を建てるための献金をください、と涙ながらに訴えました。即座に一人の紳士が立ち上がり、1000ドルを寄付すると約束しました。現在の日本円で3000万円~4000万円という金額です。また、一人の老人が新島に近づき、歩いて帰れば3時間で帰れるからといって、汽車賃の2ドルを渡してくれたそうです。さらに、会場の外に出たとき、そっと2ドルを献金した貧しい婦人がありました。そのどちらも使って、同志社が設立されました。おかしな言い方ですが、2ドルで大学が建ったのです。わたしたちの献金や奉仕も、わずかなものではありますが、それが精一杯ささげられるときにこの教会が建ち、御国が建てられていくのです。祈りつつ、精一杯のささげものをしたいと思います。(2018年9月2日礼拝説教要旨)


 

     

愛は滅びない 2018年8月26日礼拝


コリントの信徒への手紙一13章1~13節
 先日、道端で酔っぱらって寝ていた人に声をかけましたら、ニコリと笑って「いや~、愛だね」といわれました。わたしは、自分のことを愛情深い人間だとは思っておりません。むしろその反対です。だからわざと声をかけて、まるでアリバイ作りのようなことをしているのです。
 ところで、認識と行動に関する四つの段階、というものをご存知でしょうか。例えば食事前に手を洗う、という行動があるとして、第一の段階は手を洗うという意味や必要を感じない。第二は手を洗うべきだと知っているけれども、なかなかできない。第三は、気を付けて手を洗うことができるようになった。第四は、自分でも意識しないうちに手を洗っている。というものです。先ほどのわたしの例でいえば、第二から第三段階をウロウロしているわけです。
 この点について、使徒パウロは当時のコリント教会が、実は第一段階、つまり何が問題か全く承知していない状況にあったことを示しています。当時のコリント教会は、礼拝の時に行われていた主の食卓、聖餐について、主だった人が先に食べてしまい、後から来た貧しい人などが食べられなかった、ということがありました。彼らは自分たちが主の食卓を軽んじ、命の恵みをないがしろにしていたことを理解しておりませんでした。まさに、愛が滅んでしまったのではないか、と思うような状況であったわけです。
 しかし愛は決して滅びない。滅ぶようなことがあってはならない。それがパウロの主張です。4節から7節にかけて、愛とはこういうものです、ということを語っています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」この個所は、我々がこのように生きなければならない、という目標であると同時に、その根源を示しています。それはすべてイエス・キリストのお姿と一致します。主は忍耐をもって、我らを愛され、高ぶらず、自己の利益など一切求めず、罪人のために命をお捨てになりました。それゆえに、わたしたちは一切の地上の罪から解き放たれ、生きながらにして、永遠の恵みに移されているのです。
 キリストの愛は、罪深いところ、愛が滅びゆくところに注がれます。キリストの愛は、沈黙や、鈍さや、惰性の中にこそ、注がれます。我々は4節から7節の部分と自分との間にある差異について認識し、悔い改めなければなりません。そこから、気づかなかった者から気づく者とされ、愛を実行できなかった者から実行できる者とされるのです。教科書みたいに聖書を読んでも、おそらく身に付きません。聖書の物語をわたしのストーリーとして読み、悔い改めの中で、キリストが今も聖霊を通してこのわたしに働いてくださることを信じるとき、真の愛と信仰に生きることができるのです。愛に欠け、第一、第二、第三のところをうろうろする我々であっても、永遠に朽ちることのない愛よって生かされることを信じたいと思うのです。
 キリストは根源であり目標です。小さなキリストになって、小さなところから、愛の道を選びたいと思うのです。(2018年8月26日礼拝説教要旨)

 

神と共に生きる 2018年8月12日礼拝


ミカ書6章1~8節
 今日読みました聖書は、ミカ書の6章です。ミカという人は、紀元前8世紀ごろに南ユダで活躍した人です。ちょうどアッシリアに北イスラエルが攻めてきて、次に南ユダも滅ぼされていく、という時代でした。ミカ書によれば、当時の人々は罪に対して鈍く、偶像礼拝をおこなっていました。指導者たちも搾取やわいろなど、完全に腐敗していました。東の強国アッシリアが迫っているというのに、彼らには緊張感がありませんでした。ミカは、そのような民に語ります。「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである」。これが神によって示された生き方でした。しかし、結果として彼らはこれを受け入れず、戦争、そして国の崩壊という悲しい歴史を歩むことになるのです。
現代では、戦争を神の裁きだと考える教会はほとんどありません。原爆で広島14万、長崎7万人の人たちが亡くなったのは、人類が神に背いたゆえの裁きです、などといったら、広島、長崎の人はだれもキリスト教を信じないでしょう。
 しかしそれでもなお、わたしは今日のミカ書から一つの警告が発せられていると思うのです。それは神から離れた傲慢な生き方が、(裁きではないが)恐ろしい結果を引き寄せる、ということです。自分の利益を最大化し、他者の痛みにはまったく関知しない。その悪魔めいた考えの極まったものが、あの二つの原子爆弾でした。だからあれは神の裁きではなくて、人の傲慢が生み出したものなのです。人間のエゴイズムという得体のしれない黒々としたものが、人々の上空で炸裂し、多くの命を奪っていったのです。
 そして、そのような恐ろしい得体のしれない何かを、わたしたち自身も持ってしまっている、ということも、認めなければなりません。戦争とか、原爆とか、犯罪とか、そういう特別な状況の中にある得体の知れなさと、わたしたちの日常に潜む、自分だけが知る、いや自分さえも感知できない得体の知れなさ。そこはどこかでつながっているのです。
ミカ書に出てきた人々は約束の地であるイスラエルにいながら神を裏切っていました。そして、わたしたちはこの教会に通いながら、実は神を裏切るような生き方をしてしまっています。その罪に、わたしたちはどうしようもないほど鈍感です。それは裏を返せば、主の恵みに鈍感だからです。ミカは、イスラエル人に、苦しかったエジプトから神が助け出してくださった恵みを忘れていないか、と問いました。同じく、わたしたちもまた十字架の命をもって贖ってくださったキリストの恵みを忘れていないか、と問われています。
それゆえに、緊張感を持ち、ミカの語る「正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと」という御言葉を大切にしたいのです。エゴイズムを捨て、神と共に生き、愛をもって隣人に仕える。そういう信仰の証を立てていきたいと思うのです。それは、裁かれたくないからそうするのではなく、すべてを捨ててわたしたちを救ってくださったキリストの愛に応えるために、そうするのです。
(2018年8月12日礼拝説教要旨)

 

     

家は主が建てられる 2018年8月5日礼拝


詩編127編1~5節
 わたしは棟上げ式に呼ばれますと、今日の詩編127編を読み、二つのことを申し上げるようにしています。一つは「家を建てるのは誰か」ということです。今日の1節には「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」とありますように、クリスチャンにとって本当の施主は神様であり、神様がその土地と家を愛され、最後までこの工事を導いてくださることを祈ります。
 わたしが棟上げ式で二つ目に申し上げること、それは、そもそも「家とは何か」ということです。家のことを、英語ではハウスといったり、ホームといったりします。わたしの理解では、ハウスというのは、どちらかというと物理的な構造物のことで、ホームというとそこに入る家族のことだと思うのです。そして外側だけでなく中身の部分も主が建てていかれると思うのです。
 どのような家庭であれ、主が頭としてそこにおられ、これをよいものに組み立ててくださる。それを信じるときに、真のクリスチャンホームが形成されます。クリスチャンホームといっても、全員がクリスチャンでなければいけない、ということでもないと思います。一人でも二人でもクリスチャンがおられ、切なる祈りの中でその家が成長していくのであれば、それもまたクリスチャンホームの一つの形です。
ここまで申し上げてきたことは、教会についても当てはまります。本当の教会に教会が立ち上がっていくというのは、外側の建物ではなく、その中に入る信仰の共同体が形成されていくことを言います。その共同体としての教会を建てていくのは何か。宗教改革者カルヴァンによれば、それは説教と聖餐式、この二つです。毎週毎週、どの牧師も命を削るようにして説教を準備します。けれども、説教を語っているのは牧師ではなく神ご自身です。同じく聖餐式も司式は牧師がつかさどりますが、パンと葡萄酒を通して働かれるのは、聖霊なる神ご自身です。聖餐と御言葉を繰り返し受けることで、教会は命を新しくしていくのです。
 わたしたちが教会に通い始めたとき、主が御言葉をお語り下さり、内面が整えられていきます。そしてしかるべき時が来ると、キリストを救い主として告白し、洗礼を受けます。その後も聖餐式と説教を通して、聖霊を受け、クリスチャンとしての生涯を送ります。そう考えますと、わたしたち自身が主のおられる宮、一つの家だ、ということもできます。第一コリント3章には、「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」という御言葉があります。主の霊によって、わたしたち自身が建ち上げられていく必要があるのです。
 わたしたちの内面は、それこそ、大変弱いものです。誰もが、かけたる自分、罪おおき自分を知りながら、この場に座っています。けれども、ここに聖霊と御言葉が注がれ、わたしたちは生涯をかけて組み立てられ、作り上げられていくのです。家は、主が建てられる。わたしたちの家庭であれ、教会であれ、わたしたち自身であれ、どれもが主の愛される家です。それぞれの成長は、これからも続いていくのです。
(2018年7月29日礼拝説教要旨)


 

愛の律法 2018年7月29日礼拝


申命記10章12~22節
 わたしが過ごした中学校では、男子は全員丸坊主ということが決まっていました。また、わたしが所属していたバスケット部では、練習中水を飲むことが厳禁でした。今なら大問題ですが、当時はそれが当たり前でした。靴下は白がきまりで、あるとき生徒会役員がこの問題をめぐって教師たちと言い争っていました。こうした規則やしきたりは、しばらくしてなくなったと聞きました。時代の変化とともに、中身のないルールは変わっていく必要があるのです。
 主イエスの時代、聖書の律法も、形骸化した、中身のないものとなっていました。先週もお話ししましたが、食物規定や割礼のことなどがそうです。教会が異邦世界に広がっていく中で、こうした問題は教会内部の分裂や差別につながっていきました。
 そもそもの、律法の理念は、「愛」です。律法をよく読めば、神様が共同体とそれに連なる個人を深く愛され、何とか救い出そうとしておられることが伝わってきます。613にものぼる義務と禁止のすべてに、愛というものが通っているのです。なのに、いつしか律法から愛の精神は消え去り、人を差別したり、自らを称賛するためのものとなっていたのです。
 この神の愛から導き出される応答的態度についても、律法に書かれています。それが今日読んだところです。そこには、「神を愛すること」「隣人を愛すること」が書かれていました。まず、神を愛することについては、12節~13節を読みたいと思います。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し・・・・」。今日の個所が素晴らしいのは「それはなぜなのか」という理由についても書いてあるところです。15節では、神様はあなたを選んで、愛してくださったから、とあります。親子でも友人でも、人から愛されてこそ、人はだれかを愛すことができるのではないでしょうか。わたしたちが神様を愛すのは、そうしなければいけない、という律法主義的な理由ではなく、イエス様の十字架をもって救われたから、という愛の理由でそうするのです。
 隣人を愛すことについては、19節に「寄留者を愛しなさい」とある通りです。なぜ貧しい隣人を愛して、助けなければいけないのかというと、それはあなたがたが寄留者だったころ、神様はあなたを選んで、愛してくださったから、というのです。そしてもう一つは、18節にあるように神ご自身が隣人たる寄留者を愛しておられるからです。わたしを愛される主は、わたしの隣人をも愛されるのです。だから、わたしたちも隣人を愛する者として招かれています。
 主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)といわれました。古い律法は、主の御前で一度崩れ去り、そして十字架という一点において新しく完成させられたのです。そしていま、わたしたちはこの新しい法則、愛の律法によって生かされているのです。仕組みやルールの話ではなく、内的で自発的な信仰によるものです。キリストの愛と救いが、このわたしと隣人、そして世界を包んでいるという感謝の中で、精一杯の応答をしてまいりたいと思います。(2018年7月29日礼拝説教要旨)

     

弱さをもっていても 2018年7月22日礼拝


コリントの信徒への手紙一12章14~26節
 少し前に、この横浜で、原発被害から逃げてきた子どもに、菌をつけて名前を呼ぶという信じられない事件がありました。このようないじめは、一向に減る気配がありません。悲しいことですが、人間は、自分とは違う者、弱い者を排除することをやめられない生き物です。
 同じような図式が聖書の中にもあります。その一つは律法主義です。主の時代には、律法からはみだす者=自分たちとは違う者を差別的な意識で見ていました。まじめな集団であればあるほど、このような弱者や律法から外れる人の排除は、正義となっていきます。
 もう一つ、聖書にみられるいじめの構造は、今日読みましたコリント教会にて発生していました。当時のコリント教会が大きな問題を抱えていたことは先週も申し上げました。礼拝の時に用意されていた食事を、心無い者が先に食べてしまい、貧しい人が食べられなかった、という事例がありました。そしてこの食事は聖餐式でもありましたから、これにあずかれないということは、主の命の糧をいただけない、ということになり、信仰生活全般にかかわる事態となってしまいます。
 パウロは、そのようなコリント教会に対して「目が手に向かってお前は要らない、とは言えず、頭が足に向かって、お前たちは要らない、とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」といいます。体はどこをとっても必要です。だから体のパーツ同士で排除しあうことなどありえない、とパウロは言うのです。すなわち、教会に招かれているのは、だれもが例外なく罪人である、ということで一致しており、同時に神の憐れみにより、主の十字架によって、永遠の命を与えられた仲間であるからです。たとえ弱さを抱えていても、わたしたちはキリストに連なる、かけがえのない一人の人間、一つの命ですから、誰であれそれを退けることはできないのです。
 それだけではありません。パウロは、かえって弱く見える存在こそ、全体にとって必要であり、よい意味をもたらす、とさえいいます。20年ほど前、ある教会が礼拝堂を建て直すことになりました。どんな礼拝堂にするかを話し合っていたとき、その教会には、盲人の方や足の不自由な方が通っていたので、障害者でもすっと入って来られる礼拝堂にしよう、ということになり、入り口から礼拝堂まで一切の段差がなく、そして扉も自動ドアにしました。すると結果的に、誰でも使いやすい、よい礼拝堂となりました。障害者という一見ほかよりも弱く見える存在を、神様は光を当てて引き立ててくださり、調和をもって全体を創られるのです。これは建物の話ですが、人間関係の構築でも、それは同じことなのです。
 わたしたちは、気に入らないという理由で、あるいは自分にとって価値がないからという理由で、どれだけ他者を排除してきたでしょうか。わたしのために死んでくださったキリストは、隣にいる人のためにも死んでくださったのです。そのことを噛み締めつつ、最後の聖句を読んで、今日の説教を終えたいと思います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
(2018年7月22日礼拝説教要旨)

 

     

神の恵みを無駄にせず 2018年7月15日礼拝

「神の恵みを無駄にせず」
コリントの信徒への手紙二 6章1~10節
 息子がピアノを習っています。まだ始めたばかりですが、わりと難しい曲にもチャレンジしたりして、少しずつですが成長している姿を見るのはうれしいです。実はわたしも子どものころピアノを習っていました。しかし、ピアノの時間が苦痛で、友達と遊ぶ方が面白かったものですから、やる気も起きず、家ではほとんど練習しませんでした。そんなことでは上達するはずもなく、とうとう数年でやめてしまいました。時間と、先生の善意を無駄にしてしまったと後悔しています。
 パウロは、今日の聖書で、あなたがたは神の恵みを無駄にしているのではないですか、と問いかけています。この無駄にする、という動詞は「虚しくする、からっぽにする」という意味です。神から受けた尊い恵みを、あたかもなかったかのように虚しくしてはいけない、とパウロは語っています。なぜなら、「今や恵みの時、今こその救いの日」だからです。既に訪れた主の救いと恵みに気づかず、自分勝手に生きることは、その神の恵みを虚しくすることだ、というのです。
 当時のコリント教会には、いくつかの危機的な問題が生じていました。その一つは食べ物のことです。律法で禁止された食べ物を堂々と食べる人がいる一方、まったく食べられない人がいたりして大きく混乱していました。また、愛の欠如という問題もありました。当時のコリント教会では礼拝に来た人に食事をふるまっていましたが、教会の主だった人や、貧しくない人々が食事を食べてしまい、貧しい人が食べられなかった、ということもありました。山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しいと、パウロはいいます。
 教会をダメにするのは外からの迫害ではなく、内部の崩壊です。このような教会の危機に対して、パウロはまず自分たちが「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって」生きてきたことを示し、そのように生きなさいと伝えます。御言葉を受けつつ、神様に対しては誠実に、人には偽りのない愛をもって、寛容に生きる、ということです。それがキリストの十字架の犠牲に応える信仰共同体の姿です。
 今日のみ言葉では、さらにもう一つ、パウロから重要なテーマが示されています。神の恵みは、どんなことも無駄にはならない、ということです。「わたしたちは、人を欺いているようでいて、誠実であり、罰せられているようで、このように生きており、・・・無一物のようで、すべてのものを所有しています」(8節)。多くの迫害を受け、生と死の間を縫うようにして走ってきたパウロだからこそ言える言葉です。神の恵みは、どんなことにおいても無駄にはなりません。むしろ苦難や行き詰まりのときにこそ、神の恵みが働いて、わたしたちを進ませるのです。
 今や恵みの時、今こその救いの日。わたしたちは大いなる神の恵みの中を生かされています。だからこそ、神の恵みを無駄にしてはならない。そしてどんな労苦も無駄にはならない。パウロがそうであったように、これからもわたしたちは、その信仰に立って歩み続けたいのです。
(2018年7月15日礼拝説教要旨)

 

両の手で 2018年7月8日礼拝


マルコによる福音書8章22~26節
 あるとき主イエスと弟子たちは、ベトサイダというところに行かれました。そのとき、町の人たちが一人の盲人を連れてきました。主は盲人の手を取り、町の外に連れ出しました。そして目に唾をかけ、両手をその人の上に置きました。「何か見えるか」と主がお尋ねになると、「人が見えます。木のような人が歩いているのがわかります」といいました。主イエスがもう一度両手をその人に置くと、今度はすべてのものがはっきりと見えるようになりました。
 この話の特徴の一つは、二回目の行為で完全に見えるようになったという、段階的な癒しです。ただ、二回目で見えるようになったというのは、主の全能性と整合性が取れない、という疑念を与えかねないためか、マタイ福音書やルカ福音書はこの話が載っておりません。しかしもちろん、この段階的な癒しにも福音的な意味があります。それは繰り返される主との出会いにおいて、人は徐々に癒され、救いにあずかっていく、ということです。
 信仰において、最初からすべてがはっきりと了解できる人はありません。誰もが礼拝や課題の中で繰り返し主イエスと出会うことにおいて、少しずつ信仰を与えられていくのです。たとえば、親の愛だって、子どものうちは、よくわからないこともあります。受けているけれども、よくわからない。それが愛です。しかしこれを長い時間をかけて、人生の中で繰り返し吸収していくとき、ようやく実感していくことができるようになるのです。頭で「理解する」というよりも、深いところで「経験する」という言葉がぴったりです。これと同じように、神様の愛も、すぐに理解できなくても、長い人生の中で繰り返し主と出会って、霊の深みにおいて経験していくのです。そして、わたしたちが天に召される頃、それらの経験は何をもってしても覆されない、確固たる救いの確信へと変わっていくのです。
 もう一つ、大切なことは「両手で」と書かれているところです。かつて、サラリーマンをしていたころ、上司に名刺のもらい方についてうるさく言われました。片手で受け取るなど言語道断、相手の目を見て、両手でしっかりと受け取れ、そう言われました。相手への気持ちがそこに現れるからです。両手で、と聖書が書くとき、主の愛の傾斜がそこに示されています。主は存在のすべてをかけてこの男を救おうとなさっておられるのです。もしも、二階から落ちてくる人を助けようと思ったら、片手では難しいです。全存在をかけ、本気でその人を想い、それを行動に移そうとするとき、その想いは両の手に現れるのです。
 イエス様の両の御手。皆さんはどんなイメージをお持ちですか。主はかつて木工職人をしておられましたから、どちらかといえば大振りで、ごつごつしたイメージです。それは、こぼれ落ちそうになる者をしっかりと掴み、抱きかかえ、救いへと引き上げる、非常に力強い御手です。一方でその両手は、ローマ兵が打ち込んだ釘によって、深くえぐられ、血が流れています。わたしたちは、このキリストの御手により、丸ごと救い上げられた存在なのです。わたしたちを掴んで離さない、この御手に導かれながら信仰生活を続けてまいりましょう。
(2018年7月8日礼拝説教要旨)

神様がこの時のために 2018年7月1日礼拝

「パン種に注意せよ」
ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節
 旧約聖書には、割礼についての記述が多く出てきます。ユダヤ教ではこれが律法の一つとして義務化されていました。そして、新約聖書の時代になっても、ユダヤ的キリスト教では、割礼を受けていることが当然とされていました。しかしギリシア的キリスト教が異邦世界、すなわち小アジア、ギリシア地方へ伝道する際、割礼が大きな障壁となりました。そこでパウロはエルサレム教会と話し合い、割礼なしでキリスト教徒になれることを認めさせたのです。
 そのような状況にあって、ガラテヤ教会も大きく揺れ動いていました。クリスチャンになるときに、割礼を受けるべきか、受けざるべきか、人々は悩んでいました。そのことを知らされたパウロは「律法(割礼のこと)によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」と手紙に書きました。割礼や律法ではなく、キリストの十字架のみが人を義とするのだ、というのです。また9節でこう警告しました。「わずかなパン種が、練り粉全体を膨らませる」。一見正しいように見える律法主義も、悪しきパン種であり、これに支配されることのないように、というのです。
 悪しきパン種が膨らむ。このようなことは、いつの時代の教会にも起こりえます。1960年代、教会にはヘルメットをかぶった学生クリスチャンたちが押し寄せ、説教中に牧師を公然と批判するなどしていました。ある教会では副牧師と活動家たちが、寄ってたかって主任牧師をつるし上げ、その牧師はとうとう教会を去りました。大勢の人が心傷ついて、教会から離れていきました。歴史はいろいろな解釈、評価があるでしょうが、わたしはあのときの教会は、悪しきパン種が広がった時代ではないか、と思います。
わたしたち個々人の内面も同じことが言えます。わたしたち、という練り粉の中に、神様以外のものが入り込んできて、どんどんと膨らんでいくのです。それは神を礼拝し賛美する心、隣人を愛し敬う心に内面から攻撃を加えます。わたしたちは自分の内面を顧みて、過去にそういうことがなかったか、今そういう状態ではないか、「パン種に注意せよ」というパウロの警告をしっかりと聞き取らねばならないと思います。
 それでは、わたしたちはこの世の様々なパン種に打ち勝つために、どのようにすればよいのでしょうか。それはこの世のパン種に優るものを、内に据えていくことです。ガラテヤ書4章19節では「キリストがあなたがたの内に形づくられる」という言葉があります。わたしたちの内に、キリストという存在をしっかりと形作らるときこそ、悪しきパン種が駆逐されるのです。そのために必要なことは、礼拝と聖書です。今日の手紙も、聖書の一部です。礼拝にしっかりと通い、聖書によって信仰を整えていく必要があります。それからもう一つは、キリスト者として愛の奉仕に生きることです。6節でパウロはこう言います。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。礼拝、聖書、そして隣人愛、これらをしっかりと守り続けたいと思います。
(2018年7月1日礼拝説教要旨)

 

     

神様がこの時のために 2018年6月24日礼拝


エステル記4章4~17節
 イエス様の時代から遡ること500年ほど前、ペルシア国にエステルという女性がいました。彼女はユダヤ人で、叔父であるモルデカイと一緒に生活していました。あるとき、ペルシャのクセルクセス王が国中で一番美しい者を妻にすると言い出し、このエステルを妻に迎えることになりました。同じころクセルクセス王の部下、ハマンは、自分に敬礼しなかったモルデカイに激怒し、彼を含むユダヤ人全体の抹殺を企てます。ハマンはクセルクセス王を騙すようにして「王に従わないものは処刑する」という新法を作らせ、これをもってユダヤ人を根絶やしにすることにしたのです。
ハマンの策略を知ったエステルは、クセルクセス王に進言しようかと思いました。けれども、王妃といえども無許可で王に会いに行くと処刑する、というルールがあったので悩みました。するとモルデカイはこういいました。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。エステルは意を決してクセルクセス王に会いに行き、仲間であるユダヤ人たちが苦しんでいることを全部、王に告げました。王は訴えを認めました。一方、事件の首謀者であるハマンは、王を騙したことが明らかになり処刑されました。
 今日の話から、わたしたちは何を受け取るべきでしょうか。まず一つは、神様だけを礼拝する勇気、これを持ちたいと思います。わたしたちはいつも礼拝に通っておりますから、神様を中心とした生活を送っていると思います。しかしこれがいろいろなものが邪魔をして、神様だけを礼拝することが邪魔されたりします。そういうとき、わたしたちは神様だけを礼拝する勇気を持っているのか。そのことを自問したいと思います。
 もう一つは、自分の存在が神様から見てどうあるのか、何すべきなのかについて、しっかり考えていきたいと思います。エステルは、モルデカイとの会話中、仲間であるユダヤ人たちを救うために神様からその立場が与えられたことを悟りました。わたしたちも、「ここだ」という重大な局面に出合うことがあります。そのときこそ「神様がそのために私を生かしてくださっている」と思えるようになりたいのです。
 昭和初期の話です。「忠やん」という青年がいました。彼は発達に遅れがありましたが、舛崎という牧師がやっていたキリスト教施設の中で育ちます。あるとき、彼はそこを家出同然で飛び出し、機帆船に住み込みで働くことになりました。数年後、その船が大嵐に見舞われ、座礁してしまいました。すると忠やんは、船底に空いた穴に自分の足を突っ込み、浸水を食い止めました。船は沈没を免れましたが、忠やんは出血が止まらず、そのまま亡くなりました。その船の船長は忠やんの荷物の中に一冊の聖書があるのを見つけ、そこに名前のあった舛崎牧師を訪ねて事情を話してくれたそうです。
 人は神に用いられることが必ずあるはずです。大きな事でなくても、この時のために神様は今までわたしを生かしていくださった、そういうときが必ず来ます。その時には勇気をもって立ち上がりたいと思います。

主のお悲しみ 2018年6月17日礼拝


マルコによる福音書6章1~6節
 主は故郷のナザレに戻られ、そこの会堂で人々に教えておられました。それを聞いた人たちは大変驚いたといいます。主イエスの素晴らしい教えや奇跡にではなく、その教えを語る人物が単なる大工であった、ということに驚いたのです。大工として生活された頃の主イエスや、その家族のことをよく知っていたため、主の神性を認めることができなかったのです。
 主イエスは神でありながら、人のお姿をとってこの世に来られました。このことを、ナザレの人々は信じることができなかったのです。ちなみに、マルコによる福音書3章21節には、主イエスの身内の者が、「あの男は気が変になっている」として、主を取り押さえに来た、とあります。残念なことですが、家族からも気が変になっていると思われていたのです。
 注目したいのは5節です。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。全能の神の御子なのに、奇跡を行うことができなかったというのは、おかしいのではないでしょうか。マタイでは「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と柔らかい表現になっています。
 しかしわたしは、やはり今日読みましたマルコが正しいと思います。主は本当におできにならなかったのです。期待して帰った故郷にも受け入れられず、家族からも疎まれ、主は深くお悲しみになり、心が癒しの業に向かわなかったのです。
 それは我々と同じ人格と心を持たれる救い主が、我々の打ちのめされた心を知っていてくださることを意味します。これほどの慰めがあるでしょうか。
 あるハンセン病の元患者さんがこんな話をしてくださいました。療養施設に入所後、久しぶりに父が面会に来てくれました。その父が最後に言った言葉は「すなない。ここに一生いてくれ」というものでした。当時の日本では、ハンセン病がうつる病気だと誤解され、家族の中に患者があった場合、就職も結婚もできなくなることもありました。家族から見放された彼は絶望のどん底に突き落とされました。しかし、そんな彼を救ったのが、施設に設置されていた教会でした。キリストによる罪の赦しと永遠の命を知り、心からの平安と喜びを得たのです。
 キリストは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」といわれました。これは嘆きではなく希望の御言葉です。まさにキリストのお働きが教会として実を結んだのは、故郷ではなくエルサレムでした。そして今度は、その教会が迫害されてエルサレムにいられなくなったとき、西のギリシア・ローマ地方へと広がり、結果として世界的なキリスト教伝道へとつながっていったのです。
 主の深いお悲しみは、お悲しみに終わらず、違う形で実を結びました。歴史の教会も深い悲しみを負いましたが、それをこの世の喜びへと主が変えてくださいました。ですので、わたしたち自身が深い悲しみを覚えるとき、その悲しみを引き受けてくださるキリストがともにおられることを信じたいのです。我々の悲しみを、喜びへと変えてくださるインマヌエルの主を信じて、生きてまいりたいと思います。 (2018年6月17日礼拝説教要旨)

    

成長させてくださる神 2018年6月10日礼拝


コリントの信徒への手紙一3章6~7節
 この地球には、色々な生き物が生きていますね。その生き物たちが生きていくためには、食べ物や、栄養や、酸素や、水や、太陽が必要です。でも世の中、そういうものだけで成り立っているわけではありません。すべての命は、神様からの見えない力で生かされているのです。いま、幼稚園の園庭にはオクラやキュウリ、トマトなどが植わっています。一つ一つ、タネを植えて、水をしっかりやって、そして日当たりのいいところに置いておけば、ちゃんと芽が出て育っていきます。日に日に大きくなっていくツルを見ていると、神様の命と、優しい愛とが、この一本のツルに注がれているなあ、と思うのです。
 今日の聖書には、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神様です」と書いてありました。これは植物ではなく人のことです。パウロがあちこちで神様を信じる心のタネを蒔いて、アポロさんという人がこれを育てて、教会が大きくなっていきました。でも本当は、二人の力ではなく、神様が愛をいっぱい注いでくださったからこそ、神様を信じる心も教会も大きく成長していったのです。
 それは一つのおうちを見ても、同じことがいえます。どのお家でも、お家の子どものお父さんやお母さんは、美味しいご飯や、楽しい遊びや、その子のためになると思ったものは、なんでも用意しようと思います。先日は、とても残念なことに、そういうお父さんやお母さんの愛情が足りなくて、子どもの命がなくなってしまったニュースも聞きました。やはりおうちの愛はとっても大事ですね。ただ、その人が本当によい人間として成長するためには、神様からの目に見えない愛が必要なのです。
 わたしのある友達は、子どもの頃からお金持ちで、頭もよくて、入るのがとても難しい学校に通っていました。けれどもどういうわけか、友達の心は荒れていました。中学生のころからタバコを吸いだして、高校生の頃にはパチンコ屋さんに通っていました。そんなことだから、学校の成績もどんどんと落ちていきました。そんな彼は、お母さんに連れられて教会に通いました。すると不思議なことに、神様がともにいてくださることを感じられるようになり、心が落ち着きました。そしてついに、洗礼を受けて神様の子どもになることを決心したのです。それだけでなく、今日のパウロやアポロと同じように、神様のことを伝える人になりたいと言って、いま教会で働いています。
 おうちでどんなにすばらしい愛情を受けていても、若い時は心がひねくれてしまって、思い通りにいかないこともあります。そんなときに、神様から愛と命をいっぱい注がれて、わたしたちは本当にちゃんとした人間に育っていくと思うのです。
 ここには小さな子どもさんから、そのおじいちゃん、おばあちゃんくらいの人たちがいますが、人間いくつになっても神様の子どもです。これからもわたしたちは神様から命をいただきながら、自分らしい、よい成長を続けていきます。
(2018年6月10日花の日・子どもの日礼拝説教要旨)

  

話さずにはいられない 2018年6月3日礼拝


使徒言行録4章13~22節
 使徒言行録は使徒たちの活動記録であるわけですが、「行」だけでなく「言」の字が付されているのは、その働きが「語る」という性格を帯びていたからです。当時の教会は厳しい迫害下にありました。7章ではステファノが、12章では主の兄弟ヤコブが殺害されています。しかし迫害者が押さえつけようとすればするほど、エルサレム教会はさらに大きな声で主の福音を叫び続けるのでした。その力はどこにあったのでしょうか。
 今日の話の少し前に、ペトロとヨハネはエルサレム神殿で足の不自由な人を癒し、主の福音について説教をしていました。そのことに腹を立てた祭司や神殿守衛長たちに、彼らは捕まってしまい、最高法院という議会で取り調べを受けることになりました。ちなみに、主イエスが十字架につけられる前にも、この最高法院で裁判を受けられ、死刑の宣告がなされています。そういう意味では、ペトロとヨハネは、相当な覚悟をもってこの場に臨んだと思います。
 命の危険が迫るなかで、ペトロらは堂々と次のように語りました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・。キリストの名によるものです」。「あなたがたが十字架につけて殺し」といって、ユダヤ人の罪を告発しますが、彼らは何も言い返せませんでした。なぜなら14節にあるように、実際に足を癒してもらった人が傍にいるのでは、どうしようもなかったのです。彼らができたことといえば、せいぜいペトロとヤコブに脅しをかけるくらいでした。ここに、神の力と地上の力の対比が描き出されています。いかに大きな権勢を誇る地上の力も、神の御業の前にはまったく霞んでしまいます。
 これらの言葉を聞いて、ペトロたちを勇猛果敢なヒーローのように扱うべきではありません。彼らの勇気ある言動は、人間性や性格によるものではなく、その内面から突き動かす神由来の力、すなわち聖霊の働きによるものだからです。
 20節でペトロはこう言いました。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。この言葉、これが福音宣教の原点だと思うのです。わたしたちが主イエスとの交わりによって経験した貴重な喜びを、語らないではいられない。それを可能とするのが聖霊の働きです。伝道するというのは、聖書を語り、そしてわたし自身が見たこと、聞いたこと、これを聖霊の助けによって語っていくことだと思うのです。
 今日のペトロとヤコブは一度は主を裏切った人物です。主がわたしの罪をお赦しになった、という当事者的な思いがあったからこそ、口を閉ざすことができなかったのではないでしょうか。キリスト教は、神に救われた当事者の、溢れ出る感謝の証によって広まってきたのです。
 ある人がいつもわたしにいうのです。いろいろあったけど今の教会生活が一番幸せ。これも証です。またある人はいいます。今が一番辛いけど教会に来るとまた一週間過ごせる。それも証です。わたしたちは誰もが、話さずにはいられないという信仰の熱意を持っているのではないでしょうか。主の恵みを指折り数えて、それを教会の内外で語ってまいりたいと思います。(2018年6月3日礼拝説教要旨)


神の相続人 2018年5月27日礼拝


ローマの信徒への手紙8章12~17節
 使徒パウロは、しばしばわたしたちを取り巻く事柄について、霊と肉という言い方でもって説明しています。中心的な考えは、霊は清いものであり、肉は悪しきものである、というものです。パウロは、肉なる生き方を脱し、霊なる生き方に転換するよう諭します。わたしはこの霊なる生き方を考える時、凧のことを想起します。空に浮かぶ凧は、糸でつながっていなければ凧として存在できません。それと同じように霊に生きる人は、見えざる霊で神様とつながっていなければ人として存在することができず、また天国へと昇っていくことができないのです。
 ところで、今、世間を騒がせているいくつかの問題には、共通するものがあると思っています。この世でどんなに偉い人でも必ず間違いを犯す、ということです。自分は正しい、自分は間違いない、という肉の判断に捉われている限り、いつかは転落していく。そして、自分の世界だけで完結しているので、自分を超えて自分を規定する存在、人知の及ばぬ最高善に気が付くことはできないでしょう。
 パウロが肉なるものを悪とし、霊なるものを善とするのは、そこです。肉なるもの、つまり人間的なものというのは、どこかで欠けがあったり、ほころびが出る、それが本人の意図しない部分であっても、かならず悪という引力に引っ張られて、下向きに転がり落ちていくのです。そして、最終的には神との正しい関係を得ることができず、永遠の死に至るとパウロは警告します。一方、神の霊によって生きる者は、自分や人間に依らず、最高善である霊なる神に従って生きるものです。聖霊の導きの中で、神との正しい関係性を保って生きる者は、終わりの時に永遠の命を受け継ぐ者とされる、とパウロはいうのです。
 パウロは、そのような人を「神の子」「神の相続人」と表現しました。わたしたちは神の子であり、神様の財産を受け継ぐ者であるというのです。財産とは永遠の命のことであり、イエス・キリストが肉なるわたしたちの代表として十字架につかれたことにおいて受けるものです。。8章3節にはこうあります。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために、御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。それはキリストを通して罪の赦しと永遠の命が与えられるためでした。
 聖餐式の式文にこんな言葉があります。「主は、わたしたちの罪のために十字架にかかり、その死によって夜をあがない、わたしたちを招いて、いさおのないままに神の子とし、永遠の命を約束されました」。キリストの血潮により、わたしたちはもう神の子とされ、永遠の命という相続を受ける者とされたのだ、との信仰です。キリストの霊によって生きるというのは、このキリストの十字架と復活を固く信じ、人間ではなく神に従って生きることをいいます。
 やがて、この地上から天へと召されるとき、わたしたちはなにも天国へ持って行くことはできませんが、ただ神様から与えられた霊の命だけは相続します。その感謝をもって過ごしてまいりたいと思います。(2018年5月27日礼拝説教要旨)

 

神の舌を受ける 2018年5月20日ペンテコステ礼拝


使徒言行録2章1~13節
  ペンテコステというのはかつて主が天に戻られた後、地上に残された人々に聖霊が降り、そのことをもって教会の活動が始まった、という日です。聖書によりますと、(2節)そのとき、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。そのときに「一同は聖霊に満たされ」とありますように、炎のような舌は、聖霊そのものであり、聖霊が見える形として現れたものです。
  この炎の舌が降されると、なんと一瞬にして、その場にいた人々は、自国の言葉ではなくいろんな地域の言葉で話すようになりました。この舌は、神の福音を伝えるための舌です。従って、この出来事は単に言語的な能力として、外国語が話せるようになったというだけでなく、そこに神の愛と救いを伝えていくため、という目的がありました。
  聖書の世界では、神の御言葉は非常に重要です。旧約では、律法と預言が御言葉でした。律法と預言だけでは、人々に救いは訪れませんでした。新約の時代になり、神は新しい言葉をこの世に与えられました。それがイエス・キリストでした。主の御言葉、御業は神の御言葉そのものです。それを見れば、神の深い愛が伝わってきます。あなたは愛されている、あなたは救われている。そういう神の御心が、言語ではなく、圧力のように迫ってきます。
  こうして、神の御言葉として送られた主イエスは、地上での働きを終え、天へと戻られました。その後に働きを受け継いだのが、今日の聖書にあった原始教会の人々です。ですので、彼らは教会の歴史がスタートするときに、今一度神の言葉を受け取る必要がありました。そして、炎の舌、という形でこれを受け取ったのです。
  炎、ですから、熱を帯びた舌です。キリストによってわたしも救われた。あなたも救われる。旧約聖書の時代では完成しなかった救いというものを伝えたい。黙ってはいられない。それは言語ではなく、存在と行動をもって福音を示す舌なのです。
  ペンテコステにおいて、各地の言葉が与えられたということは、それはわたしとあなたの壁が取り払われたことを意味します。従って、わたしたちがこのペンテコステの日に覚えるべきは、この教会にも、あなたとわたしの壁を乗り越えるこの舌が宿っているということではないでしょうか。その舌を使って、誰かに出会っていく、ということではないでしょうか。神の良き知らせを欲している誰か、は必ずいます。わたしたち自身が語るのではなく、神の舌が語りだすのです。聖霊の助けを受けて、堂々と神の福音を届けていきたいと思うのです。
  わたしたちの教会が聖霊の力を受けて、この地で宣教活動を開始して、142年が過ぎました。関東大震災の炎、戦争の炎にこの教会は焼かれましたが、信仰の灯は耐えて、しっかりと燃え続けました。そしてこれからも、炎の舌がこの教会に宿る限り、どんな困難があってもわたしたちの教会は前進していくのです。
(2018年5月20日ペンテコステ礼拝説教要旨)

 

母の愛 2018年5月13日礼拝


ルカによる福音書7章11~17節 
  ナインという場所で葬儀が行われていました。死んだのは若い男性で、ある母親の一人息子でした。この母親には夫がおらず、二人で今まで暮らしてきた息子が、死んでしまったのです。12節の後半に「町の人が大勢そばに付き添っていた」とありますが、母親は誰かに支えなければならないほど憔悴し、やっとの思いで立っていたのかもしれません。
  そこに主が来られました。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう、泣かなくともよい」といわれました。憐れに思いとあるのは、もともとは内臓という名詞が動詞化したものです。当時、はらわたは人の奥深いところで愛情を感じる器官のようなものと考えられていました。主はそのもっとも深い部分で、この母親の苦しみを引き受けられたのです。
  聖書はこの母親の信仰について何も語りません。むしろどこにでもいる、普通の母親だったのではないでしょうか。愛する息子を失い、どうしようもなく、悲嘆にくれる一人の母親です。そういう意味では、主イエスは、決して特別ではない人の知れぬ悲しみをまた、知っていてくださるということではないでしょうか。主は「もう、泣かなくともよい」といわれました。「あなたの悲しみはわたしがここで癒す」ということです。
 ところで先ほど主が言われた。「もう、泣かなくともよい」という言葉は、今日の話では息子の復活において実現しました。しかし我々の場合は、残念ながらそのような奇跡は起こりません。では、主はどのようにして我々の涙を止めてくださるのでしょうか。
  北海道で牧会された立石賢治牧師という方がおられます。立石先生はお連れ合いが先にクリスチャンとなり、むしろ立石先生はお連れ合いが教会へ行くのを嫌がっていたそうです。結婚25年が過ぎ、奥さんの祈りがついに実って先生は50歳で洗礼を受けます。さらに、これからは一生をキリストに捧げる、と決意して、仕事を辞め夫婦で神学校へ通いました。
  それから4か月たったころ、奥さんの体調が急変し、ひと月も経たない間に召されてしまいました。劇症肝炎でした。病のことは奥さんに告知されず、立石先生は一人で祈り続けましたが、聞かれませんでした。立石先生は「わたしには主の御心はわからない」としながらも、人間は無力であり、寄りすがるのはキリストしかいない、キリストはそのような悲惨の極みにあってもともにいて悲しんでくださる方である、ということを信じ続けた、といいます。
その2年後、立石先生が晴れて伝道者となった時、天のお連れ合いに向けてこのような言葉を残しておられます。「ありがとう。あなたは天国に、わたしは地上にあって相見ゆることができませんが、わたしたちはいつも、わたしたちの主イエス・キリストにあって一つです」。
  わたしたちの悲しみが癒されるのは、ただイエス・キリストの十字架によって、天における永遠の命が与えられるとの恵みの希望に生きる時ではないでしょうか。今は離れていても、やがて我々は天において愛する家族と再会するという約束こそが、流れ続けていた我々の涙を押しとどめるのです。「もう、泣かなくともよい」そういってくださるキリストに生涯頼みながら、過ごしてまいりたいと思います。
(2018年5月13日礼拝説教要旨)


 

悲しみは喜びに変わる 2018年5月6日礼拝


ヨハネによる福音書16章12~20節
 牧師という仕事をしておりますと、いろいろな人から相談を受ける機会が多いです。そのような悩みを持った人とお会いすると、人生というのは常に喜びに満たされているわけではない、という当たり前のことを教えられます。わたしなりにそのようなことを経験させていただくうちに、あることに気が付くようになりました。相談者にはクリスチャンの方もそうでない方もありますが、クリスチャンの方は最後まで心が破綻せず、どこか粘りのようなものがあります。最悪の結果になっても、希望を失わず、光の方を向いて歩いておられるように思うのです。それはその人の性格によるものではなく、聖書に基づく希望なのだと思います。なぜならば、最悪のところからの復活、ということが聖書に書かれているからです。
 今日読みましたのは、ヨハネの16章です。十字架にかかられる直前の主が、弟子たちに何を語られたか、というとそれは二つあり、一つはすぐに最悪の出来事が起こるということ、もう一つは、その中から最上の喜びが生まれるということです。主は16節で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」また20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは、喜びに変わる」といわれました。これは十字架と復活について語られた御言葉です。十字架という最悪の出来事は、しばらくすると復活という大きな喜びに変わる、といわれます。
 主はそれをいわゆる産みの苦しみに例えられました。出産というのは、本当に大変なことで、母子ともに命の危険があるし、出産にまつわる緊急手術の話などを聞くと、男であるわたしは血の気が引く思いがいたします。しかし多くの女性は、まさに主が言われるように子どもが生まれるとその苦痛よりもはるかに大きな喜びを感じます。同じように、十字架という主の喪失による痛みは、永遠の喜びを世に生み出す痛みであるというのです。本当に痛みを負われるのはご自分であるのに、主は愛する弟子たちを慮って、そのようにいわれました。
 先ほど主がいわれた「わたしを見なくなるが、しばらくすると、わたしを見るようになる」という御言葉、そして「あなたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という御言葉は、わたしたちの人生に生ずる絶望とそこに差し込む希望のことです。わたしたちが生きるとき、そこにキリストが見えなくなるような、主の喪失を感じるような悲しみは必ず生じます。しかしそれは孤独な苦しみではありません。十字架の主がともに苦しみ闘ってくださいます。そしてキリストが三日後に復活されたように、わたしたちにも「三日目」があること、すなわちこの絶望から立ち上がる日がやって来ることを信じたいのです。主の弟子たちも、使徒パウロも、大きな困難の中で復活の希望を信じて歩み続けました。ですから我々も、この希望を信じて、最後まで破綻しない、勝利の人生を歩みたいと思うのです。
 一番厄介な死の問題は、すでに主の復活によって克服されています。だからあとは何も怖いものはありません。栄光に輝く御国の希望によって生きたいと思います。
(2018年5月6日礼拝説教要旨)

 

キリストにつながって 2018年4月29日礼拝


ヨハネによる福音書15章1~10節
 今年の二月に教団伝道委員会の研修で山梨のワイナリーを訪れました。空一面を覆いつくす無数の枝が、たった一本の幹から生えていることに驚きました。その幹を見ながら、今日読んだ聖句を思い出していました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。ぶどうというと、わたしたちは実を思い浮かべますが、主は実よりもむしろ枝が重要であると言われます。
 このぶどうの枝について、もう少し詳しく見ていきたいと思います。今日の話では三種類の枝が出てきます。一つは「幹にしっかりとつながって豊かに実を結ぶ枝」です。話の結論としては、そういう枝になりなさい、ということです。二番目は、6節の「幹につながっていない枝」です。聖書の時代、できたばかりの教会で、あまりの迫害に耐えかねて教会を去って行く人たちが大勢いたことと関係しています。主はそのような枝について「火に投げ入れられて焼かれてしまう」といっておられますが、わたしは、この部分、慎重な読み方が必要だと思っています。聖書では、放蕩息子やザアカイの話、あるいは姦通の女の話など、罪を犯してしまう人が、主によって救われたり、信仰を得たりしています。主イエスは罪びとを永遠に裁かれるためにこの世に来られたのではなく、むしろ救いにつなぎとめる役割を果たしておられます。ですから、もし離れてしまった枝があったとしても、それをいつか、何らかの形で主が幹につないでくださるのを、わたしたちは信じたいと思うのです。
 三番目の枝というのは「つながっていても実を結ばない枝」のことです。2節にはこうあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」「取り除く」は、権威ある辞書によれば持ち上げる、取る、かつぐ、起こす、支えるといった意味もあります。どちらかというと、お世話をするというニュアンスが強いように感じます。「わたしにつながっていて、実を結ばない枝はみな、父が持ち上げて支えてくださる。そして、実を結ぶ枝はますます豊かにされる」と訳せます(実際のぶどうの枝も下がらないように吊られています)。どの枝も主に愛されているのです。
この個所では、幹に枝がつながっているかどうか、ということが最大の関心事です。つながってさえいれば、たとえなかなか実を結ばないような枝でも主は顧みられ、実を結ぶようにしてくださる。それが十字架にまでかかってくださった主の愛であり、御心です。
 わたしたちは、天国に挙げられるまでにどんな実りを付けるのでしょうか。それは誰にもわかりません。ただ、10節に主の愛に留まり、その掟を守れ、とありますように、神様の愛を表現していくような生き方ができたときに、その人は一つ、実を結んだということではないでしょうか。キリストの十字架によって、わたしたちは主イエスという幹につなぎ留められました。そしていつも折れないように支えられています。いつも、このキリストの愛の中に留まり、一つ一つ、実りを迎えたいと思います。
(2018年4月29日礼拝説教要旨)


 

愛の掟 2018年4月22日礼拝


ヨハネによる福音書13章31~35節
 我が家では、NHKがやっている動物の生態を紹介する番組をよく見ます。動物たちは例外なく、食事のこと、身を守ること、そして繁殖のためにほとんどの日常を費やしています。彼らはある意味で利己主義むき出しで生きている、といえますが、反対に、全く自分の得にならない利他的な行動を見せる動物たちもいます。象、ゴリラ、牛、犬、サイなど大型哺乳類に多いです。そういえば、人間も得にならない利他行動をよくします。例えば震災などがあった時、数多くのボランティアや善意の献金が集まります。そうかと思えば、恐ろしいテロ事件を起こしたり、相手を根絶やしにしようとする戦争のように、単純な利己主義をはるかに超える残虐行為に走るのも人間の姿です。わたしたち人間は、善いことも悪いこともできるのに、どうも悪いことに引っ張られているように思います。残念なことです。
 主イエスは「わたしは、あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」といわれました。それは我々がそういう引力を受け続けている生き物だからではないでしょうか。「掟」は命令とも訳せる強い意味の単語が使われています。ですから「互いに愛し合いなさい」というのは、できればそうしなさい、というのではなく、必ずそうしなければいけない、という主のご命令です。
 「互いに愛せよ」というのは一般的にも語られることでもあります。しかしキリスト教が違う点は、それが「なぜ愛が必要なのか」という根本の部分がはっきりしている、という点です。主は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」といわれます。主がまず愛してくださっていることを忘れてはなりません。それからもう一つ、10章18節ではこういわれました。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これはわたしが父から受けた掟である」。十字架で命を捨てることが掟であり、わたしたちはこの掟ゆえに救われています。ですから、その愛に応え、神様の求めておられる愛の掟に生きることが強く求められているのです。
 この愛を、どこでどのように表現するのか。それが大きな問題となります。先日、佐々木さんのお宅にお邪魔していろいろと伺った際、大変示唆に富んだ言葉をいただきました。「愛というのはまず家族からですね」といわれました。家族というのは人間活動の最小単位です。教会の中で愛、愛と叫んでも、まずおのおのが置かれている家族という単位で愛を分かち合えなければ、真の愛を実現できる共同体とはなりません。
 今の時代、掟という言葉を聞くことはめったにないように思います。でも、キリストによって定められた愛の掟という言葉が、ずっと聖書を通して受け継がれてきたことを、わたしたちは真剣に考えなければなりません。国も法律も時代と共に変化しますし、この世のあらゆることは崩れ去っていきます。しかし、イエス様の掟である「あなたは愛されている、だから神と人を愛せよ」という教えは、主の十字架と共に永遠に立ち続けます。わたしたち人間が、動物とは違って高い知性を与えられたその恵みを、今こそ、主がお喜びになることに、神の栄光のために、用いたいと思うのです。(2018年4月22日礼拝説教要旨)


まことの羊飼い 2018年4月15日礼拝


ヨハネによる福音書10章7~18節
 静岡県のある観光牧場で羊のレースを見たことがあるのですが、彼らは何とも言えず鈍くさく、また丸々としていてとてもかわいらしいです。羊は紀元前6000年以上前から、メソポタミアで家畜化されてきました。彼らの動きが鈍いのは飼い主から逃げ出さないよう、そして丸々としているのは羊毛をできるだけ多く取れるよう改良されたからです。結果、彼らは自然に適さないほど弱くなってしまい、羊飼いに養われなければ生きていけなくなりました。
 主が「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので、ついて行く」いわれるように、羊と羊飼いにそのような強い結びつきがあるのは、先ほどの事情があるからです。現代でも熟練した羊飼いは、一匹一匹に名前を付けて、こういう性格だとか、体調が悪いとか、個別に状況を把握しているのだそうです。こうした羊と羊飼いとの関係に置き換えて、主イエスはご自分と人間とのことを説明なさいました。人間は弱く、鈍い生き物であるがゆえに、羊飼いたるキリストに養われなければ滅んでしまう、というのです。
 しかしこのような牧歌的で麗しい関係とは全く別のことも、主はおっしゃいました。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる、というところです。今日の話の中で3回もそういわれました。羊のために羊飼いが命を捨てるなど、現実世界ではありえないことです。当然のことですが、羊飼いが羊のためにあるのではなく、羊が羊飼いのためにあるからです。この序列は決して逆転することはありません。しかし主イエスと我々人間との関係はまったくそれが逆転してしまうだけでなく、信じられないことに羊飼いが羊のために、命さえ捨てるというのです。まさにそのことが、救い主キリストの存在意義です。なぜ主は羊のために命を捨てたまうのか。それは10節後半にありました「羊が命を受けるため、しかも豊かに命を受けるためである」ということに尽きます。それが創造主たる神様の御心だからです。
 さて、今日の御言葉に中に、我々にとって見過ごすことのできない聖句がもう一つあります。16節の「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」というところです。原文では「わたしは、この囲いに入っていないほかの羊を持っている」となっていて、「持つ、所有する」という動詞が入っています。囲いの外にいる羊も、すでにキリストの所有であるというのです。まことの羊飼いであるキリストは、教会の外にいる人たちも片時も忘れたまわず、わたしの羊と呼んでくださり、その羊のために命さえも捨ててくださるお方です。
 教会という囲いの中にいる我々も、かつては外にいたわけです。でもそのときからすでに主のものであり、導かれてこの教会にやってきたのです。そのことに大きな感謝をもって、いま教会の外にいる羊のために働くべきではないでしょうか。それが我々と教会の、大きな責任ではないでしょうか。この世に命ある間も、この世の命を終えたあとも、主イエスは我々にとって永遠の羊飼いです。その平安と感謝の中で主の恵みに応答してまいりたいと思います。
(2018年4月15日礼拝説教要旨)


鍵のかかったところに 2018年4月8日礼拝


ヨハネによる福音書20章24~29節
 ヨハネによる福音書に登場するトマスは、名前しか出てこないほかの福音書と違って非常に重要な役割を与えられています。「復活の主を信じない」という人間の暗部を明らかにすることです。
 十字架の後、復活の主は弟子たちにお姿を現わされましたが、その場にトマスはいませんでした。そのことを弟子たちから聞いても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」といいます。この発言のせいで彼は懐疑家などと不名誉なあだ名をつけられてしまうことになりました。わたしも子どものころ、この個所を読むたびに「なんとトマスはだらしない奴なのか。十字架につけられた主の痛々しい傷跡に手を入れてみなければ信じないなんて」などと偉そうに思ったものです。しかし大人になって、このトマスの発言こそキリスト教を信じられない人たちの心の中を代弁しているのだ、ということが理解できるようになりました。
 さて、今度はトマスがいるときに主は再びお姿を示され、「あなたの指をここに当てて、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」といわれました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。彼はそこでようやく主を信じる者とされました。「懐疑家」というあだ名がつくトマスですが、見なければ信じられなかった彼のところにまで主は来られた、という事実は非常に重要です。むしろ彼の存在こそ、キリスト教に対する懐疑的なまなざしをもつこの世界が、復活の主によって変えられていくことを示しているのであり、ここに教会の原点、そして可能性が示されているのではないでしょうか。
 今日の話で特に注目したいのが、一度目に弟子に復活の主が現れたとき、二度目に復活の主が現れたとき、そのどちらも「戸には鍵がかかっていた」と聖書が書いていることです。主イエスが処刑された直後ですから、自分たちもユダヤ人たちにつかまって処刑されてしまう可能性があったため鍵をかけていました。鍵というのは、現代のものとは違い、内側から鍵をかける閂(かんぬき)のようなものだったと思われます。死の墓を打ち破り、復活なさった主は、この内側から鍵のかけられたところに入ってこられました。
 外からは容易に入れない、この遮断された空間は、主を信じようとしないわたしたちの閉鎖的な内面を示している、といえないでしょうか。そこに主イエスは入ってこられる方です。復活の出来事なんか、とても信じられないという心の内側に来てくださる方です。一度目、半信半疑だったペトロたちが、主を信じるに至りました。そして二度目は、まさに心に鍵がかかっていた疑い深いトマスが、主を信じようになったのです。
 三度目は、わたしたちのところです。主イエスのことを、主イエスの復活を、主イエスの救いを、主イエスの愛を、わたしたちは何度疑ったことでしょうか。そのような、信仰が十分に実っていないわたしたちのところに主は来られるのです。その広げられた御手には、大きな傷跡があります。この主のお姿を、肉の目ではなく心の目でしっかりと見つめながら信仰の道を歩みましょう。
(2018年4月8日礼拝説教要旨)

     

石は取り除けられた 2018年4月1日イースター礼拝


マルコによる福音書16章1~8節
 イースターおめでとうございます。今日から始まる復活節の歩みを、復活された主とともに歩みましょう。先週までの受難節の話では、主イエスは祭司たちに捕まり、裁判のち十字架につけられました。その間に弟子たちは怖くなって逃げてしまいましたが、一部の女性たちはずっと主の近くにいました。マルコ福音書によれば、それはマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人です。
 日曜日の朝早く、彼女たちは主イエスのご遺体に油を塗るために出掛けましたが、墓の入り口にある石をどうやってどかしたらいいのか、心配でした。しかし墓についてみると、その石は脇にどかしてありました。誰がどかしたのでしょうか。マタイによる福音書では、天使がそうしたとありますが、神の御業によってこの石は取り除かれたのです。
 この墓の入り口に置かれる大きな石は本来的には盗掘を防ぐためのものです。しかし心理的には別の意味があったと思います。それは死人が生き返っては困る、という気持ちです。特に聖書のような土葬の地域ではそれは強いです。大きな石は、我々の世界と死者の世界とを隔てるものであり、死というものを死の中に固定化する役割があったと思います。
 これは見方を変えると、主の復活を信じようとしない人々の不信仰を示す石でもあるといえないでしょうか。人の命は肉体の死をもって終える。死は死のまま、いつまでも地面の中に固定される。復活の主を信じない者は、心のどこかでそのように考えています。のちの疑い深いトマスがその好例です。わたしたちクリスチャンは、何も問題なく、平穏な日常であるなら、復活の主も永遠の御国も素直に信じられます。でも想像もしなかったような困難が訪れるとき、わたしたちはこの素直な信仰から不信仰のほうへと引っ張られていきます。わたしたちは死で終わるのではないか。この信仰の中の不信仰、ともいうべき重々しき問題について、あの大きな石が象徴しているように思うのです。しかしキリストは、死というものの概念を変えてくださった。死や墓は恐ろしいものではなく、永遠の御国への入り口であると教えてくださったのです。そのために、キリストは重苦しい岩を打ち破り、死の中から復活なさったのです。我々の死というものへの恐れと復活に対する不信仰を、キリストが取り去ってくださったのです。
 主イエスが死から復活され、今も働いて生きておられる。そして私たちに永遠の命を与えてくださる。キリスト教の信仰は、この復活の主を信じることが源にあります。復活の出来事は、あいまいな信仰を確かなものに変えていきます。神様は重苦しい不信仰の石を取り除けてくださいました。そのときに、墓という死を固定化する場所は意味を失い、そこから躍動的な神の命、復活の命がわたしたちの内面と歴史に吹き込まれたのです。
 今朝は、私たちの救いのために主が永遠の命をもって復活なさった日です。誰でも永遠の命をもって天に帰ることができる、その喜びが暗い墓を打ち破り、わたしたちに届けられた日です。いまこそ、その喜びの出来事に生きる信仰を新たにしたいと思います。 
(2018年4月1日イースター礼拝説教要旨)



 


教会学校の紹介


聖歌隊の紹介

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