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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

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説 教

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人を漁る者に  2021年1月24日


マタイによる福音書4章18~25節
 主イエスの物語の面白い所の一つは、主の召された弟子たちがおよそ弟子らしからぬ人たちであった、ということです。彼らは漁師、熱心党、徴税人などでした。いわばどこにでもいる庶民であって、弟子としての特別な素養があったようには思えません。弟子の中には熱心党のシモンとい男がいました。熱心党というのは、ローマの支配に対して過激に抵抗する人たちで、いまでいうテロ行為みたいなことをしていました。あるいは徴税人もいました。徴税人は不正に手を染めることも多く、彼らもユダヤ社会からは完全に疎外されています。特段に特別なものがない、あるいは社会からはみ出している。そんな彼らは、当時の感覚でいえば、あまり弟子として相応しくないように見えます。弟子の中には、裏切り者のユダもいました。ペトロも主を見捨て、背を向けて逃げました。なぜ彼らのような者を弟子とされたのでしょうか。それは、このような人たちにこそ、神の救いを伝えるためです。弟子たちは、主の宣教の対象者そのものです。どこにでもいるような庶民、社会でうまく生きられない人、疎まれる人、人裏切る者、罪を犯す者、そのような者に福音を伝えるために、主は彼らを弟子とされたのです。
 主イエスがペトロとアンデレが網を打っているのをご覧になりました。そこで主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれました。この一言で、彼らは仕事も家族も棄てて主に従いました。そこに従うだけの理由、いや、従わざるを得なかった理由があったのです。わたしはその決定的なものが、この「あなたがたを人間をとる漁師にしよう」の御言葉にあったと考えています。文語訳聖書では「汝らを人を漁(すなど)る者となさん」とあります。日本語で漁と書いて「すなどる」と呼ぶのは、まさに漁というのは砂をとるような作業の繰り返しである、ということを表わしています。一度網を投げたぐらいでは魚は取れない。何度も「すなどる」ということをしなければならない。その意味を知っている者こそ、伝道者に相応しいのです。だから主はペトロを弟子として召されたのです。
主イエスは「すなどる」ということの意味を知っていられます。主は、愛すべき人々から蔑まれ、罵られました。主は、そのような人たちのために十字架で死なれました。弟子たちでさえ、まさに破れた網から魚が逃げるがごとく、主のもとから去りました。
にもかかわらず、主イエスは存在を決定づける救いの御言葉を語ってくださいます。「人を漁る者になれ」。我々の場合、その御言葉は主の日の礼拝において聞きます。それゆえ、我々は主の御言葉によって、この礼拝において、主に従う決断をするのです。
我々もまた、すなどりの主に贖い取られた者です。我々が主に捉えられ、この教会に来るまでに、何度網を投げられたでしょうか。何度我々は、そこから逃れ、自分勝手に生きようとしたでしょうか。しかしついに我々はとらえられ、永遠に敗れることのない、救いの網に入れられたのです。
ですから、我々もすなどりの主に倣って、網を投げる者でありたい。我々はペトロたちと同じ、何もない人間ですが、主に捉えられた喜びだけは知っています。その喜びを、網を投げる力に変えて、主イエスのお手伝いをしたいのです。(2021年1月24日説教要旨)

群れからはぐれたとき  2021年1月17日


ルカによる福音書15章1~7節
 今日の話は、有名な99匹と1匹の羊の話です。1節によりますと、徴税人や罪人たちが、主イエスの話を聞こうとして近寄ってきた、とあります。彼らは明らかに罪意識とその罪から救ってほしいという救済への希望を持っていました。徴税人はローマへ納める税金の取り立てをしている者たちで、多くは不正をして蓄財していたといわれます。もちろん、不正は悪いことですが、もしかすると彼らの罪意識は全然別のところにあったかもしれません。それはユダヤ人なのにローマ帝国のために働いている、というどうしようもない現実です。当時のユダヤ社会では徴税人として生きるだけで、すでに重罪なのです。また、罪人、とあるのは、文字通り何かの罪を犯した者たちのことです。彼らもまた一般のユダヤ人とは区別され、交わることが禁じられていました。彼らは確かに罪を犯したのでしょうけれども、間違いなく、生きにくい世を生きていました。
 そんな彼らと、主イエスは食事をなさいました。それを見たファリサイ派、律法学者たちは主イエスを咎めました。律法ではそのような人たちと食事をすることは汚れることだと書かれているからです。そこで主は99匹と1匹の羊の話をなさいます。もしあなたがたが100匹の羊を持っていて、その1匹が迷い出てしまったら、残りの99匹を野原に残しておいて、その1匹を捜しに行かないだろうか、といわれます。羊飼いとは失われた1匹をどこまでも捜しにいくものだ。神様はまさしく罪人という羊を捜し続ける羊飼いなのだ、といわれるのです。
 この話の主張の一つは、ファリサイ派、律法学者たちへの批判です。すぐに律法をかざして罪びとを糾弾し、共同体から排除するような人間に、本当の主の御心に気づくのだ、とおっしゃっているのです。その一方で、主イエスは徴税人や罪びとたちに優しいまなざしを投げかけられます。神がいつもあなた方を捜している、ということを伝えられるのです。
 ここで「いなくなった羊が見つかる」ということについて考えたいと思います。二つの側面があります。一つは、神様の側からのアプローチです。似た話の放蕩息子の場合、息子の帰りを家の戸口でずっと待つ父の姿がありました。今日の羊飼いでは、どこまでも羊を捜しに行く姿勢です。いなくなったものを必ず見つけ出す、という神様の深く、強い愛がそこにあります。
そしてもう一つの側面は、見つけられる側の変化です。放蕩息子はどん底まで落ちたとき、父に向かって歩き始めました。今日の話では最後に「悔い改めた一人」への祝福が語られます。見つかる、ということは悔い改めなのです。過去の自分が間違っていたこと、そのせいで神様から離れてしまったこと。それにもかかわらず、神様の方が捜しに来てくださったこと。その事実を知ったときが、神に見出されたときです。その人はきっともう神から離れまい、と思うはずです。とりわけ、キリストの犠牲をもってして我々を見つけてくださったとすれば、いよいよ我々の中身は昨日と同じであってはいけない、という思いが起こるはずです。
 群れからはぐれたとき、我々がなすべきはまず神を探し求めること。そしてもう一つは、真摯に自分に向き合い、罪を悔い改めることです。そのような営みの中で、我々はもう一度神との麗しい愛の関係を取り戻していくのです。(2021年1月17日説教要旨)

義のための武器として  2021年1月10日


ローマの信徒への手紙6章12~18節
 聖書を読むときに困ったな、と思うことがあります。例えば「あなたたちの中で罪を犯したことがないものから石を投げよ」という御言葉です。私はここを読むたびに、たちまち自分が恥ずかしく、自信がなくなってしまうのです。
 実は、この厄介な罪の問題について、あのパウロも非情に悩みました。彼はローマ7章14節でこういっています。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは自分のしていることがわかりません。」。パウロは自分が罪の支配下にあることをはっきりと認めています。さらに6章16節にはこうありました。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。罪の最終的な行き着くところは神との関係途絶です。神との関係途絶ということは、永遠の無、永遠の死ということになります。これほど恐ろしいことはないです。
 しかしパウロは、そのような罪びとのためにキリストが来てくださったと語ります。ローマ5章18節「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。一人の人というのはキリストのことであり、正しい行為によってというのは十字架の御業のことを言います。キリストによって罪びとである我々は義とされ、命を得たというのです。つまり我々の内面は矛盾する二人の自分が同居しているのです。
これを我々の左右の手で考えてみると、我々の片方の手は、常に罪に引っ張られていて、ときにこれに隷従してしまうような弱さがあることは誰もが認めるところです。けれどももう一方の手はキリストを通じて神様とつながっており、何とか我々が罪と死の中にはまり込んでしまわないように、常にそこからひっぱりあげていてくださるのです。
 そこで重要なのは我々自身の意思です。今日読みました12節にはこうあります。「従って、あなたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」。義と不義の両方からひっぱられている我々は、自分の意思で、義の方へ向かっていく必要があります。それがキリストの十字架の恵みに対して、我々がとるべき応答なのです。
 続いて13節も読みます。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」。主体的に、不義の方から義の方へ行こうとするときに、自分の体が「義のための道具」となります。この道具とある言葉は「武器」にも訳せます。昔の聖書では「武器」となっていました。武器となると、戦いに積極的に参加することを意味します。自分のための戦いではありません。神の義の戦いです。神様は、悪が支配するこの世に、キリストを投ぜられることによって戦われるのです。神を信じ、キリストの救いを信じて生きる時に救いがあることを、一人一人の罪びとに知らせようとなさっておられます。この戦いに、我々が義を持って積極的に参加せよ、とパウロはいうのです。どんなときにもキリストの御手を放さず必死についていきたいと思うのです。そして主の恵みに応え、自らを義の武器として神に献げきる、勝利の人生を歩みたいと思います。(2021年1月10日説教要旨)

涙をぬぐうとき  2021年1月3日

「涙をぬぐうとき」
エレミヤ書31章8~17節
 人が生理反応としてとる行動には、多くの場合意味があります。例えば怖いことに遭遇して身震いするのは、体を温めて素早く逃げやすくするためといわれます。ではなぜ人は涙を流すのか。科学的にはその理由はよくわかっていないそうです。でもわたしは、涙を流すことが結果としてその人を助けることにつながると思うのです。なぜなら、人は泣いている人を見ると自然と助けたり、支えたりするからです。人の涙が、人のつながりの中で自然とプラスに働くという、神様のプログラムの素晴らしさを思います。
 今日の聖書でも、涙を流す民が出てきます。「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。彼らは泣きながら帰って来る」。バビロニア帝国によって連れ去られた人びとが、いよいよ祖国へ帰って来ます。長い間、捕囚の苦しみの中で泣き続けた彼らは、今や解放における嬉しさのあまりに泣いています。
 一方、エレミヤはユダヤに残されていた人々に対しても語り掛けます。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。戦争後、町に残ったほうも悲惨でした。国、神殿、生活が破壊され、諸外国から人々の流入が続き、彼らは自分たちを守るのに精いっぱいでした。しかしそんな彼らに涙をぬぐうときが来たのです。
捕囚の民と残った民。どちらも泣いています。でも、その分だけ彼らは強くなり、団結して帰還後の神殿の再建、町の再興、そして神殿礼拝、信仰生活の回復へと向かいました。
 ここまでは、一人の人間の涙が集団の中でどのような影響を与えるのか、ということについて、とりわけ信仰的な意味を考えてきました。では、誰にも知られない、一人で流す涙はどうでしょうか。2000年前と違い、今は核家族化、個人化が進んでいます。いろんなことで涙を流すことがあっても、それを分かち合える時代ではなくなっています。今の人々は、実は一人で泣いているのです。誰も見ていないのです。誰もこの涙を知ってくれないのです。
 すると我々が流す孤独の涙には意味がないのでしょうか。それは違います。天国の神様だけはその涙を見ていてくださいます。エレミヤ書14章17節にこんな御言葉が出てきます。「あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。『わたしの目は昼も夜も涙を流し とどまることがない。娘なるわが民は破滅し その傷はあまりにも重い」。神様は、傷つき倒れるユダヤ人、一人一人のために泣いてくださるというのです。あなたが泣いているとき、神様も泣いていてくださる、とエレミヤはいいます。我々が人知れず涙を流すとき、その涙も、心の苦しみも、すべて神様は見ていてくださるのです。そして、涙をぬぐうときが必ずくることをエレミヤは伝えています。
それゆえ、誤解を恐れずに申し上げるなら、我々の涙の究極の意味は神様に見てもらうためです。流れる涙一粒一粒が、その思いを乗せて、天に向かって零れ落ちていくのです。
 去年一年間、我々はコロナに泣きました。この病気によって、命が奪われ、生活が変わり、仕事を失い、人生が狂った人が多くあります。そのような人のために、天国の神様が一緒に泣いてくださるのです。そしていつか、その涙をぬぐうときが来たといってくださるのです。そのときまで、希望を持って歩みたいと思います。(2021年1月3日説教要旨)

     

星に導かれて  2020年12月27日


マタイによる福音書2章1~12節
 先日木星と土星がとても近い位置にある、ということが話題となりました。400年ぶりのことで、次は60年後だそうです。惑星の運動は、天文学者のケプラーが正確に数式化しましたが、面白いのはケプラーが大きな矛盾によってこれを発見したということです。それまで信じられていた天動説や真円運動説では観測結果に必ず矛盾が生じます。ケプラーはこの矛盾を突き詰めていくうちに、正しい法則を導き出すことができたのです。
 今日の聖書にも天文に関する学者が出てきます。彼らは天体の動きを基に王に戦争や農耕のタイミングを告げる重要な役職であり、国の中では最重要人物の一人です。そんな彼らは突然理解不可能な星を発見しました。いわば秩序の中の矛盾に遭遇したのです。その結果、彼らは西に新しい王が生まれることをキャッチしました。そしてその星の動きに合わせて旅をすると、彼らが調べた通りに救い主のおられるベツレヘムへとたどり着いたのです。このとき彼らの頭上でどのような天体現象が起こっていたのか、それを知る由はありません。ただ言えることは、秩序の中に生じた矛盾が真理を知らせた、ということです。
 学者たちと全く逆の反応をした人がいます。ヘロデです。残忍、狡猾、そして卓越した政治的センスを持つ彼は、ローマ帝国を後ろ盾にして20年以上もユダヤの王として君臨しました。すべてがうまくいっており、恐れるものは一つもありませんでした。そんな彼の秩序を脅かす者が現れました。どこかに生まれたという赤ちゃんです。彼は新しい神の秩序としてもたらされた方を、不都合な矛盾、としか受け取れませんでした。彼はこの矛盾を、自分の持てる力を総動員して排除しようとしますが、失敗に終わります。
 我々は多くの場合、自分にとって不都合な矛盾や経験したことのない脅威にさらされると、ヘロデのような反応をしてしまうのではないでしょうか。けれども我々が直面する矛盾や混沌の中に、神の真理が宿っているかもしれないと思うとき、新しい道が開けてくるのではないでしょうか。
 秩序の中の矛盾ということでいえば、当時の世にとって、主イエスの存在そのものが矛盾みたいなものでした。主によって、それまでのユダヤ的律法、伝統的な教えがことごとく覆されました。病や障害を持つ人、罪びとに救いは来ない。これも否定されました。それだけでなく、人の存在は死で終わる、というほとんど誰もが疑わなかった死の法則さえ破棄されました。
 この矛盾だらけの主イエスと出会ったとき、ファリサイ派や祭司など多くの人はこんな具合の悪いものはないと排除しようと躍起になりました。しかし弟子たちなど一部の人間は、この矛盾の中に真理を見たのです。
 主イエスは突如現れて動的に我々の内面を照らし、救いの場所へと導かれる方です。まさしく我々は主イエスという光る星に導かれて、人生を歩んでいるのです。そこで大事なことはなにか。この動く光についていくことです。この光がどこへ行くのか。自分の人生をかけて、しっかりと最後まで見届けたいのです。その人は、キリスト・イエスのご栄光の中で、天の御国に通じる道を発見するのです。(2020年12月27日説教要旨)

     

神、我らと共に  2020年12月20日


マタイによる福音書1章18~23節
 コロナが終わるときは来るのだろうか。もしかすると、世界がすっかり変わってしまって、今後人類はマスク無しでは過ごせなくなってしまったのではないか。そんな不安が頭をよぎります。我々は間違いなくこれまでとはまったく別の世界に生きています。
 我々は先の見えない、この暗い世界をどう生きればいいのでしょうか。一つは過去の事例に学ぶことです。悲惨な太平洋戦争は4年で終結しました。約100年前に世界の4000万人を死に至らしめたといわれるスペイン風邪は、収束まで3年以上かかりました。乱暴な言い方かもしれませんが、世界的な災いや戦争も、いつか必ず終わる日が来ます。
 しかしクリスチャンであるならば、そのような経験から来る希望を論じる前に、もっと大事なことがあると知っています。それは約束から来る希望です。キリスト教というのは約束の宗教です。人の経験ではなく神様があなたを救うという約束の中にこそ、本当の光を見るのです。
 まさしく、今日読みました聖書において我々は「あなたを救う」という神の宣言と、その光を見ます。ヨセフはまだ結婚前のマリアが聖霊によって身ごもっていると知らされました。これにはヨセフは動揺したはずです。彼は「正しい人」でした。離縁はやむなしとしても、なるべく静かに別れよう。愛情をもって、ヨセフはそのように決断したのです。
 ところが、そんな彼に、夢の中で天使が語ります。20節、21節のカッコの中を読みます。「ダビデの子、ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。イエスという名前には、人々を罪から救う方(ヘブライ語イェホシュア)という意味が込められているというのです。
 ヨセフはどんな気持ちでこのお告げを聞いたでしょうか。彼は大きな悩みの中にあったと思いますが、そのマリアのお腹の子は、救い主であるとの天使のお告げは、彼のそのような心中の霧を吹きはらい、新しい希望の光をもたらしたに違いありません。
 さらに天使は、イザヤ書7章14節の預言「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言が成就したことを告げます。インマヌエルというのは、「神が我々と共におられる」という意味です。主イエスは神が我々小さな人間のそばにいつも共にいてくださることのしるしである、というのです。
 神と我々のとの間には、いかんともしがたい距離と溝があります。それをを埋めるためにキリストが来てくださった、と聖書は語ります。その証拠として、神が人間のお姿をとって来られたのです。神が、人間の中に入り込んでくださったのです。
 神と人をつなぎとめる救い主、御子イエス・キリスト。世界を全く新しいものに更新する力を有するこのお方が、しかし小さな赤ちゃんとしてマリアから生まれてくるということを聞いたヨセフは、離縁することを止め、妻を迎え入れました。本日、我々もまたヨセフと同じように、「神は我々と共におられる」という輝かしき宣言を聞きました。彼のように、愛と信仰の内にキリスト・イエスをお迎えしたいと思います。(2020年12月20日説教要旨)

     

救いの先駆者  2020年12月13日


士師記13章2~14節
 子どもの頃、今日の聖書に出てきたサムソンの話が大好きでした。サムソンはナジル人として特別に育てられた人物で、特にその身体能力、戦闘能力は並外れたものがあり、素手でライオンを殺した、という逸話が残っているほどです(士師記14章)。宿敵であるペリシテ人も手出しできません。そんな彼の強さの秘密は、生まれてから一度も切ったことのない長い髪に隠されていました。サムソンはこの秘密を誰にも話さないようにしていましたが、うっかりガザの遊女デリラに漏らしてしまいます。デリラはサムソンが寝ている間にこっそり毛を剃り、それをペリシテ人の仲間に伝えました。無力の男となったサムソンはあっけなくペリシテ人につかまり、両目を抉り出されて牢屋につながれてしまいました。
 ペリシテ人たちは最大の強敵サムソンをとらえられたことを祝い、彼を見世物にするために3000人を集め、祝宴を開きました。サムソンはそこで神様に祈りを捧げました。「神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください」。
 神様はその願いを聞き入れられました。サムソンは神殿の柱を引き倒し、集まっていた3000人のペリシテ人もろとも死んでしまうのです。
 大人になって士師記をよく読むと、聖書は単に一人のヒーローを描こうとしたのではない、ということがわかります。今日の聖書のサムエルの母に対する「受胎告知」のシーンを見てみます。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう」。この部分を読んで、多くの人はピンとくるはずです。そうです。母マリアの受胎告知のシーンによく似ています。さらに、今日の物語に決定的な意味を与えているのは次の箇所です。「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」。生まれてくるサムソンが、単に一時代だけの人物ではなく、やがて来る救い主の先駆者であるというのです。
 先駆者とは何か。それは後からやってくる神的事象を前もって啓示する人物のことです。サムソンが、3000人のペリシテ人を倒してイスラエルに勝利をもたらしたように、人びとを死と苦しみから解放する救い主がやってくるというのです。しかもその救い主は、サムソンと同じく自分の命を犠牲として、人々を救うお方です。その方こそイエス・キリストなのです。
 このように、キリスト教信仰には旧約の登場人物や物語があらかじめ新約聖書の主イエスを指し示すという思想があります。旧約聖書は全体として新約の主イエスを預言しているのです。モーセもそうでした。ダビデもそうでした。そしてイザヤ書に登場する、名もなき苦難の僕もそうです。旧新約聖書は繰り返して、救い主が来られ、あなたがたを救済してくださる、ということを告げています。この告知を、我々は心して聞く必要があります。
 キリスト教というのは、約束の宗教です。預言と成就の宗教です。神様は歴史上何度も、罪深き世に救い主を遣わすというお約束をしておられます。そして2000年前のパレスチナでそれが成就しました。教会というのは、この天地の造り主、全能の神が約束してくださった、救済の約束に生きる人々の群れです。次週、そのことをしっかりとかみしめたいと思います。
(2020年12月13日説教要旨)

     

主は、罪を悔い改める者へ  2020年12月6日


イザヤ書59章12~20節
 子どもを虐待した親の手記を読んだことがあります。子育てに追われ、家族にも支えてもらえず、孤独の中ただ一人で子育てをする中で虐待を止められませんでした。あるカウンセラーは、子育てしている人は、多かれ少なかれ、そういう状態になる。だからあなたは特別ではないと、いってくれました。しかしその人は自分をきつい言葉で叱ってほしかった、といいます。人は自分の罪を深く認識した時、罰を必要とするのです。
 聖書にしばしば出てくるバビロニアの侵攻とバビロン捕囚の問題は、深い罪を犯したイスラエルに対する神の罰であると理解されていますが、とりわけ重要なのは、この歴史的出来事が、イスラエルの人々の信仰の問題にとってプラスの影響を与えたということです。彼らは、一連の出来事が自らの犯した罪に対する神の裁きであると理解しました。そこで彼らは悔い改め、自分たちの歴史と存在を一から問い始めました。神への信仰はこれでよいのか。礼拝の仕方はこれでよいのか。そのような営みの結果、ある種のリバイバルが起こりました。
 バビロンの捕囚民たちは、自分たちのことを「残りの者」であると理解しました。「残りの者」とは、文字通り神の裁きを生き残った者であり、その先の歴史を託されてもいる、という理解に立っていました。その希望について、例えばイザヤ書60章1節にはこうあります。「あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。」赦されざる人々の罪が告発されている59章までと全然違うことが書かれています。では、その59章と60章の間には何があったか。59章20節を読みましょう。ここには、極めて重要なことが二つ書かれていました。一つは「主は贖う者として、シオンに来られる」です。贖うというのは、通常何らかの対価、あるいは犠牲を払わねばなりません。神様は何かの対価を支払い、人びとを救ってくださるというのです。まさにこれはイエス・キリストの預言です。まさしく主イエスは我々を贖い戻すための対価として、ご自分の命を神にささげられました。イザヤの時代はこの役割を53章の「苦難の僕」が担うと考えられていました。しかし我々は、主イエスのことであると理解しています。
 次に重要なのは、「主はヤコブのうちの罪を悔い改める者のもとに来る」この預言です。繰り返しますが、バビロンの捕囚民は歴史を見つめ直す中で、自分たちの罪を深く悔い改めました。罪を悔い改めることは救いの条件ではありません。救いを受けるに値しない自分に救いが来た、という喜びが悔い改めを起こすのです。
 我々に起こるあらゆる困難、苦しみを神の裁きと考えるかどうか。もし自分に思い当たる節があって、それで今の自分が不幸なのだと考えるなら、それもまた一つの歴史理解です。しかしながら、今日の聖書で重要なことは、苦しみを受けた者が、その歴史からどう出発していくのか、という未来への問いかけではなかったでしょうか。苦しい経験をしたときに、人はいろいろ失いますが、同時に「残されている自分」を発見するときでもあります。わたしは残されている。こんなわたしに神様は新しい希望を与えてくださる。そういう気づきを与えられた者は、まことに悔い改めの中で、自分と神様信仰、礼拝、そして隣人への向き合い方が変わってくるのです。(2020年12月6日説教要旨)

     

剣を打ち直せ  2020年11月29日


 世界中で盛大に祝われるクリスマスですが、その話が載っているのは4つの福音書の内半分です。クリスマスの記事がなくても、福音書は福音書として成立しており、信仰も救いもクリスマス無しで説明できます。
 にもかかわらず、キリスト教はクリスマスをとても大切にしてきました。それは人々が心の底から救い主を求めていたからにほかなりません。クリスマスが最初に祝われるようになったとき、ヨーロッパ周辺は常に戦争状態でした。苦しい時代と場所を生きる人にとって、福音書に書かれた「救い主の到来」は、よりリアルな平和への希望につながっていったのです。
 日本でも大々的にクリスマス行事が広がったのは日露戦争や太平洋戦争が終わった時期と重なっています。こうして世界や日本の歴史においてクリスマスの広がりを見てみると、戦争や不安といったことと無関係ではないということがわかります。
 今日の聖書も、苦しい時代に生きた人々に神が救いを予告なさるところであり、ある意味ではクリスマスと同じ福音的内容を持っています。ただ、本来はこの前の1章を読むべきです。そこには「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民」「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われる」とあり、人々の罪深さと神の裁きについて書かれています。これがバビロニアの侵略と捕囚につながります。罪深き人々に救いの光を告げるのがイザヤ書2章です。
 3節で「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」とあります。御言葉は平和な時代に相応しい新しい教え、秩序の意味です。しかし、我々新約聖書の民は、イエス・キリストこそ「御言葉」であると理解するのです。イエス・キリストは神と民との和解のしるしです。それゆえ、我々は主において戦いではなく平和を望む者となります。
 イザヤは4節でこのように語ります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。神による平和がもたらされるとき、我々としても、いつまでも剣や槍を手にしているわけにはいかない。それを打ち直して、平和の象徴である鋤や鎌に持ち替えなければならない、というのです。
現代の人類は、立った一発で数百万もの命を奪う、核兵器を持っています。かつて二発、これを人の頭上に落として大きな罪を作ったのに、まだ人間は懲りていません。来年発効する核兵器禁止条約には、世界の名だたる先進国も、そしてこの日本も署名しておりません。剣を打ち直す勇気を持っていないのです。
 我々一人一人も同じです。手に武器を持ったままで、心からのクリスマスのお祝いができるでしょうか。心の中で剣を身構えていたら、相手と真の和解を築けるでしょうか。まずクリスチャンである我々が、相手に対する憎しみや敵意を放棄し、これを愛と平和の気持ちに、持ち替えなければなりません。それが、アドベントとクリスマスの一つの意味です。我々が、平和の君を迎えるということは、我々もまた平和の君に近づくということです。このアドベントの時、世界の平和と愛を求めていきたいと思います。(2020年11月29日説教要旨)

神の兄弟・姉妹とは  2020年11月22日


マタイによる福音書25章31~46節
 今日の聖書によれば、世の終わりが来た時、神様は羊と山羊を分けるように、人々を右と左に分けられるといいます。そして右側にいる者にはこういわれます。「わたしの父に祝福された人たち。天地創造のときからお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。右側の人たちがこう答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」と尋ねます。すると主はこういわれます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。一方、左側の人たちは、上記のような隣人愛を示さなかったので、最後には永遠の火に入れられる、とマタイは語ります。
 終わりの日に、神様から祝福されて救いを受けるような正しい者は、神を愛すという生き方を実践するうちに、自分でも知らないうちに隣人を、それも困窮する者を、愛すようになっているのだ、といいます。まさに神を愛す、人を愛す、という信仰に二大原則が実践できている人です。ただ、勘違いしてはいけないのが、隣人愛が救いの条件ではない、ということです。
 我々が今日の聖書から問われているのは、神を愛するということをどこまで自分のものとしているか、ということです。神を愛すためには、神の愛がどれだけ大きいかを知らねばなりません。神を愛すためには、自分がどれだけ罪深いか、そして主イエス・キリストが、どれだけ大きな犠牲を払ってくださったか、ということを知らねばなりません。我々がそのようなことを聖書からしっかりと受け取り、内面化するとき、その人は知らないうちに隣人愛へと進んでいくことでしょう。
 我々は「信仰的に弱いから、どうせ左側だ」と言ってふさぎ込む必要はありません。もしも、我々が昨日までできなかった隣人への愛を一つ、形にすることができたなら、それは神への愛が一つ増えた、ということではないでしょうか。その人は左側から右側に向かっているということではないでしょうか。確かに隣人愛は困難です。迷いながらでも隣人愛を選ぶとすれば、それはもう、右側にいる人のふるまいではないでしょうか。
 主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と言ってくださいます。神から最も遠い、暗い場所でうずくまっているような人が、実は神の兄弟あるいは姉妹である、といいます。いわば神の分身です。トルストイが靴屋のマルチンで描き出したのも、マザー・テレサがカルカッタの路上で死にゆく人の中に見たのも、この神の兄弟・姉妹でした。我々の身の回りにも、神の兄弟・姉妹はいます。これまで気づかなかったのは、我々が左側にいたからです。しかし今や、我々は左側から右側へ向かいます。それゆえ、我々は勇気をもって隣人愛を選ぶのです。
 我々は、145年目という節目におります。今立ち止まって、何が我々に足りないか、これからどのようにあるべきか。それを今日の聖書から教えられます。感謝して、喜んで、神に近づき、そして神の兄弟姉妹に歩み寄りたいと思います。(2020年11月22日説教要旨)

     

民の救いのために  2020年11月15日


申命記18章15~22節
 申命記の「申」というのは第二の、あるいは再び、という意味であり、申命記は再び命じる書、という意味になります。神様は人々がカナンに攻め込む前に、かつて民に与えた律法や契約についてもう一度示そうとなさいました。それが申命記です。
 さて、今日の聖書では「モーセ後の預言者」について言及がありました。それは誰のことでしょうか。まず思い浮かぶのはヨシュアです。モーセの死後、イスラエルの人々がカナンに定住することができたのは(人の側では)ヨシュアの働きによるものです。モーセの出エジプトも大きな仕事でしたが、カナン定住も大変な事業でした。確かに彼はモーセの後継者です。
 しかしいろいろ本を読むと「モーセ後の預言者」はヨシュアのことだけでなく、例えばエリヤはエレミヤのことではないか、といわれます。エリヤは紀元前9世紀の人物で、モーセ・ヨシュア時代のずっと後の人物です。彼の働きが特徴的なのは当時のアハブ王とその妻イゼベルに立ち向かった、ということでした。異教の神に仕える450人の預言者たちと闘ったこともありました。
 あるいはエレミヤも「モーセ後の預言者」といわれます。エレミヤの時代は、東のバビロニア帝国が南ユダを狙って攻め込んできた時期でした。そのことでユダの王たちは狼狽するのですが、預言者エレミヤはこの世の力ではなく、冷静に神の力だけを信じよ、と預言したのでした。エレミヤの預言通りに歴史は進み、南ユダは滅びました。今日の聖書の21~22節にかけて、正当な預言者が語ったことは、歴史の中で実現すると書かれていますが、エリヤやエレミヤの預言が、そのことをそのことを証しています。
しかしながら、預言が現実のものとなった預言者はエリヤやエレミヤだけなく、旧約聖書に登場する多くの預言者がそうです。「後の預言者」とは特定の誰か、ということではなく、その時代時代にイスラエルの人々を救いに導くために現れる預言者たちのことではないでしょうか。
 であるならば、今日の聖書が予告する「預言者」は、最終的に主イエス・キリストにつながっていくと理解できます。主イエス・キリストの降誕は旧約聖書にいくつもの預言がありました。そのキリストがお生まれになったとき、天使はこの方は人々を救う、とマリアに告げました。主は、ご自分が苦しみを受け、十字架にかかり、そして復活すると複数回いわれました。その通りになりました。ペトロとユダがご自分を裏切るという予告もなさいました。すべてこれらのことは実現しました。主イエスこそ、民の救いのため遣わされた、最後の、そして永遠の預言者です。それゆえに我々は、例えばヨハネ福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、御言葉を真の預言として受け取ることができるのです。あるいは十字架の上で罪人に向かって言われた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるだろう」という御言葉も素直に信じられるのです。我々のために、すべてを棄てて救いを証してくださったキリスト。旧約に登場する預言者たちの働きは、真の預言者であるキリストに集約されます。我々はこのキリストこそを信じ、約束された神の救いを待ち望みたいと思います。(2020年11月15日説教要旨)

目標を目指して  2020年11月8日


フィリピの信徒への手紙3章5〜14節
 パウロは、若い頃ある一つの目標を持っていました。「律法の完遂」です。今日読みました聖書の6節に「ヘブライ人の中のヘブライ人」とあって、これは律法を重んじるヘブライ人の中でもさらに厳格に律法を守ろうとする人間だったという意味です。その具体的な行動として教会の迫害者だった、とも告白しています。パウロは、それが自分の人生にとって有利なことだと考えていました。当時、律法をしっかり守れる者が救われると考えられていたからです。
 そのときのパウロは、神に救われようと律法という「手段」に必死にしがみつき、そして気が付けば手段が目的化しているような人生でした。例えていうなら、家を建てるために木を切っていたのに、いつしか木を切ることが人生の目的になってしまったようなものです。それではいつまでたっても家は建ちません。
 しかしキリストと出会ったときに、もう木を切る必要がなくなりました。我々が木を切らなくとも、主が尊い犠牲を払い、天国で家を建ててくださったのです。しかもパウロは、そこに住むことができる、という永遠の約束に気が付いたのです。
 その気持ちについて、パウロは13節後半でこう書いています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。ゴールが何かわからないまま、ただ無目的に走り続けるパウロを顧みられ、あらためて走るべきコースと、到達すべきゴールがどこにあるかを教えられたのです。
 ウサギとカメのお話、皆さまもご存じだと思います。ウサギとカメは同時にゴールを目指してスタートします。ウサギはあっという間にカメを大きく引き離し、余裕綽々でしたがゴールの前にぐうぐう寝てしまい、気が付けばカメに先にゴールされてしまいました。ここで皆さんに質問です。なぜウサギは寝てしまったのか。慢心ですか?違います。ゴールを見なかったからです。そのとき、彼は大切なゴールを見ることを止め、後ろを振り返ってカメを見たのです。それが失敗の原因です。
一方、カメはというとひたすらゴールを見て歩き続けました。しばしばこの話で、なぜカメはウサギを起こさなかったのか、という議論もあります。カメはゴールしか見ておらず、ウサギが寝ているかなんて、どうでもいいことだったのです。14節「後ろの者を忘れ、前のものに全身を向けつつ」とある通りです。ここにゴールを見続ける者の強さが現れています。
 今日は、信仰の先達、愛する家族を覚える礼拝です。信仰の先達、家族もきっとそうだったのではないでしょうか。多くの人は戦争という困難を潜り抜けています。あるいは戦後の混乱、高度経済成長、学生運動など、激動の昭和史と共に生きられた方たちです。しかし我々の先輩方は、最後まで目標を見失わず、ゴールを見続けた。そして勝利の人生を走り終えることができたのです。今日という日は、我々がその目標をしっかりと見定める日です。すでに天上にある人々には追い付けないですが、我々は我々でしっかりと目標を見ながらコースを走り抜きたいと思います。(2020年11月8日永眠者記念礼拝説教要旨)

偶像に頼る虚しさ  2020年11月1日


イザヤ書44章9~17節
 古代より、多くの宗教では像として神を形作り、崇拝しました。多くの人にとって、神は目で見て手で触れられるもののほうがよいのです。今日読みましたイザヤ書は、そうした偶像の虚しさについて書かれています。森から木を切ってきて、体を温めたりパンを焼いたりするのと同じ材料で神を作る。そんな神に人を救うことができるのか、とイザヤは問うています。
 それにしても、なぜ人間はそんなにも像が好きなのでしょうか。哲学者の和辻哲郎は、人間の「本質への追及は、感覚的な美と独立して存在することができない」といいます。本質的な追及というのは、この場合超越的な存在、神を求める心理です。救いを求める心、といってもいいです。たとえば人が農耕や子孫繁栄に不安を覚える時、しばしば豊穣の神を求めます。その場合、豊かで美しい体つきの神が相応しいです。戦争に勝つことや、国家の安泰を願うときには、筋骨隆々とした勇ましい神が欲しくなります。実際にそれらの像は存在しています。そういう意味では、日本に伝来した仏教も人々の不安を取り除くための機能を携えていました。たくさんの手が生えていて、高い所から優しい顔つきで見ている。あの手で私は救ってもらえる、とみんな思うのです。
 和辻哲郎が指摘するように、神は人々にとって美しく、優しく、また強い存在でなければなりません。逆に言うなら、多くの宗教ではそれらを神に投影しているだけなのです。今日の13節にも「木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き 人の形に似せ、人間の美しさに似せて(偶像を)作り、神殿に置く」とありました。
 我々クリスチャンも常にその誘惑にさらされています。たとえば、ダビデは美しいと聖書にあるし、ザアカイは背が低いと書かれています。しかし主イエスの容姿について聖書は全く語っていません。にもかかわらず、イエス様を描いた聖画や象のいくつかは、均整の取れた肉体、御顔も今でいうイケメン風になっています。これは「そうあってほしい」という願いが投影されているのではないでしょうか。
 我々は神が美しいから信じるのではありません。神のなさる業が美しいから信じるのです。我々は神が力強い方だから信じるのではありません。そのお力で、我々を罪から救ってくださったから信じるのです。聖書の神は行動の神です。お姿こそ見えませんが、歴史を創出し、我々を土から作り出し、罪と死から救い出すために、イエス・キリストをもって贖い取ってくださった。常に我々のために、歴史において働かれる神様です。像は動きません。像は働きません。そして、いつか崩れ去ります。
偶像というのはあらゆる姿に形を変えると思うのです。経済的豊かさ、権力、軍事、名声、カリスマ指導者等々。それらは自分を高め、救ってくれるような気になります。でもこの世の一切は、有限であり不完全です。そんなものが本当の意味で人を救うことなどできません。
 困難、不安の中にあるときこそ、我々は目を覚ましていなければなりません。あらゆる偶像的誘惑を断ち切り、創造主なる神様、御子イエス・キリスト、聖霊の御神のみを信じて、信仰の道を歩みたいと思います。(2020年11月1日礼拝説教要旨)

     

わたしはそこにいた  2020年10月25日


箴言8章22~31節
 箴言はダビデの息子ソロモン王が書いたとされる書です。旧約聖書の中では知恵文学というものに分類されます。ここでいう知恵というのは、神の英知、神の御心全体を指します。知恵文学というのは、この神の英知、御心を知る営み、といえます。
「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先だって。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。」天地創造に先だって、あるいは並行して自分は創造された、とソロモンは言います。彼は天地創造を追体験しているのです。
 「深淵」という言葉が今日の聖書で三回も出てきていますが、混沌、無秩序を意味します。そこに神の秩序である天地創造が開始されます。27節を読みましょう。「わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え 深淵の面に輪を描いて境界とされたとき」。境界というのは、人の住むことができる場所とそうでない場所の境目です。神は無秩序、混沌のなかから、人のために、人が住める場所を切り分けてくださった。闇と混沌の中から秩序だった神の創造が、人間のために押し広げられていく様子が描かれています。ソロモンは体こそ王宮にありますが、心は時代をさかのぼり、空間を飛び越えて、天地創造の歴史を旅しているのです。
 30節に「巧み」とありますが、「巧み」とは「神の知恵」のもつ意味の一つです。ソロモンは一人の赤ちゃんを二人の母親が取り合いをしていた事件を見事に解決した話が有名ですが、彼のそうした知性は神の知恵、「巧みさ」に根拠があることを彼自身が知っていたのです。そんな彼は、神のために「楽を奏し」つまり、神を賛美する者になったというのです。天地創造を旅してきた彼は、神からいただいた知恵に感謝し、神を賛美する者になる。それは我々も同じではないでしょうか。
 我々も聖書を読むたびに、霊的にその世界を旅します。ガリラヤ湖のほとりで主の奇蹟を目撃し、山の上で主の御言葉を聞き、エルサレムの雑踏で小さなロバに乗った主のお姿を見ます。そして、ゴルゴダの丘で人の罪の窮まりを体験します。そして三日後の復活、あの栄光に包まれたお墓で復活の命を知る者となったのです。実際にその場所に行ったわけではありませんが、時間をさかのぼり、空間を超越して私の存在は、確かにそこにいるのです。
 新約聖書でいえば、神の知恵とはイエス・キリストそのものです。今日の説教の初めに神の知恵とは御心そのものだ、と申し上げました。古い時代の律法を通しては人は救われない。そこで神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架の死と復活の命をもって、あなたたちを救い出す、という御心を示してくださいました。我々は新約聖書を読むたびに、イエス・キリストという神の知恵、神の御心に触れるのです。
 最後に31節を読みましょう。「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」。主への賛美は、キリスト者の平和への道、まだ伝道への道につながっています。我々は小さな人間ですが、内的宇宙は神の創造のスケールにまで広がっています。小さな被造物の一人として、偉大なる神の知恵に生かされ、信仰と伝道の道に進みたいと思います。
(2020年10月25日礼拝説教要旨)

     

別れと選び  2020年10月18日


創世記13章7~18節
 アブラハム(アブラム)は、神の命を受けて、故郷のウル(メソポタミア地方)を出立し、カナンに向かいました。この旅には甥のロトとその家族、そしてロトの家畜も一緒でした。しかし目指す土地についても「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった」とあり、アブラハムの家畜を飼う者たちとロトの家畜を飼う者たちとの間に、いさかいが起きました。アブラハムはロトにこういいました。「ここで別れようではないか。」「あなたが左に行くならわたしに右に行こう。あなたが右に行くならわたしは左に行こう」。アブラハムは相手に選択権を譲るという謙虚さによって、争いを収め、家族を平和へと導いたのです。
 別れる、ということはどういうことでしょうか。我々が経験する別れの一つに「非選択的な別れ」があります。例えば死です。必ずどこかのタイミングで一緒にいる人とは別れなければなりません。突然恋人から別れを告げられたり、仕事の解雇を言い渡されることもあります。いずれにせよ非選択的な別れは大変辛いことです。しかしながら、そこにも神の祝福があると聖書は語ります。主の弟子たちにとって主の昇天は非選択的な別れでしたが、彼らはそこで目覚め、自らの使命を確認し、神の祝福に押し出されて新しい世界へと向かうことができました。
 また、人生の中では「選択的な別れ」も多く経験します。いくつかの選択肢がある中、それぞれが別々の道を行く決断をする。やはりこれも悲しい出来事に違いありません。友人との決別、親子の断絶、兄弟間の亀裂、ときには永遠を約束した夫婦にも別離が生じます。別れるよりは別れないほうがいい。誰もがそれはわかっています。でもそうせざるを得ないとなったとき、我々はネガティブなイメージばかりに引きずられてはいけないと思うのです。むしろ、今日のアブラハムとロトのように、発展的に別れていくこともあるのです。やはり「そこにも」神の祝福があり、新しく始まる二本の道が神様に守られていることを、創世記は語っています。
 教会の歴史でいえば、宗教改革の出来事がまさにそうでした。カトリックに留まることもできましたが、宗教改革者たちとその賛同者たちは、選択的に別れを選び、新しい道に進んだのでした。最終的には、別れて行ったプロテスタントの方にも、カトリックの方にも良い結果をもたらしました。
 イギリスの詩人トーマス・エリオットはこんな言葉を残しています。「始まりと呼ばれるものは、しばしば終末であり、終止符を打つということは、新たな始まりである。終着点は、出発点である。」トーマス・エリオットは、彼の一族が信じていたユニテリアンを捨て、聖公会で洗礼を受けました。そんな彼の言葉は、どこかキリストの復活を想起させます。
 我々が人生の中で別れを選ばなければならないとき、それがどこにつながっていくのか、ということを探していく必要があります。確かに、失った以上のものを、あらたな世界で見つけていくことは容易ではありません。しかしながら、ある意味では究極の別れである「キリストの死」が、実は「復活」というまったく新しい世界とつながっていたように、我々が経験するあらゆる別れは、必ず次の道へ、神の祝福においてつながっていることを信じたいと思うのです。
(2020年10月18日礼拝説教要旨)

永遠の住みか  2020年10月11日


コリントの信徒への手紙Ⅱ5章1~10節
 パウロは、地上に生きていながら、もはや地上は見ていません。彼のまなざしはすべて天上に注がれています。彼が見ているのは天において神が与えてくださる復活の命、栄光に包まれた霊の体です。そして、これが今日のテーマです。
 ローマ書7章にあったように、肉(体のこと)はつねに欲望があり、正しいことができずに罪を犯す、とパウロは考えていて、その地上の肉を着ている限り最後は滅びを迎えます。パウロは肉を「地上のすみか」と表現します。この「地上の住みか」を脱ぐ時が来るからです。2節「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たい」。そのとき我々は裸になるのではなく、天から与えられる永遠の住みかを上に着る、というのです。
永遠の住みかというのは、復活の体のことです。コリント一15章35節以下に詳しく書いてあります。キリスト者が復活するとき、朽ちない輝かしい命に復活をするのです。それは我々が今見ているような肉体の姿をしていないと思いますが、霊の体ですから、何らかの固有な命の形がそこにあるのです。罪を犯さず、病にならず、死ぬこともありません。完全で永遠なる命です。それを着て、我々は天国で過ごすのです。
パウロは霊の体に強烈なまでの憧れを持っています。先ほどの2節もそうですが、4節後半「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たい」8節「わたしたちは心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」などと書いています。パウロは地上にいながら、もはや天国の住人となっています。いや、それこそが究極のクリスチャンの姿ではないでしょうか。
ところで、5節に面白い表現があります。「神はその保証として、霊を与えてくださった」。「保証」と訳された言葉は「保証金」や「手付金」などの意味で、何かを着手するときに支払うもののことです。すなわち、神は天国で霊の体を与える約束として、地上における霊を与えてくださった、というのです。もしも我々が霊的な生き方をしているならば、その人は着手金である聖霊にしっかりと導かれた信仰生活を送っている人です。では、もしも霊的な生き方ができていないならば、その人は霊の体の約束を受けなかったのでしょうか。そうではありません。我々が洗礼を受けたのも、こうして教会に来ているのも、すべて見えざる聖霊の働きによるものです。我々は極めて霊的な生き物です。なのに、我々が聖霊から離れ、自分勝手になってしまっているとしたら、その人は神からいただいた聖霊を無意味なものにしてしまっているのです。せっかくいただいた着手金を、ないものにしているのです。あの一タラントンと同じです。我々はせっかく、救いの約束として聖霊をいただいているのですから、もっと霊に従って、霊によって生きるようになりたいのです。それには、礼拝、御言葉、祈り、奉仕、それら霊性を育てる一つ一つのことを重んじるのです。限りある地上の命、精いっぱい生きたいと思います。その中で天の栄光を夢み、そこで与えられる永遠の住みかに憧れながら生きるならば、この地上のあらゆる困難、苦しみ、痛みは、もはや天へと昇って行くでしょう。最後まで、天の国を見据えながらこの地上の歩みを過ごしてまいりましょう。(2020年10月11日礼拝説教要旨)

すべてのものは神に向かう  2020年10月4日


ローマの信徒への手紙11章33~36節
 今日読みましたローマの信徒への手紙11章は、基本的なテーマが異邦人の救いとユダヤ人の救いです。神様はまずユダヤ人をお救いになりたいと思われましたが、人々はこれを拒みました。次に、神様は異邦人への救いを展開されました。パウロたちの働きがそうです。このことを通しユダヤ人たちが真理に気づき、やがてはユダヤ人たちも救いに与っていく、というのが神様の「秘められた計画」であるとパウロは書いています。
 パウロはそれを接ぎ木の理論で説明しています。それによれば、神はご自身を拒んだユダヤ人を、イスラエルの幹から折り取ってしまわれた。その後、異邦人たちが接ぎ木され、幹から栄養を得て見事に成長した。性質の違う異邦人の接ぎ木が成功したのだから、もともとあったユダヤ人の枝は、もっとたやすく幹に戻れるはずだ、というのです。
 この接ぎ木理論で重要なのが、ひとたび折り取られた枝が、また神様の幹に戻ってくる、という考えです。今パウロを苦しめているのは他でもないユダヤ人です。彼らは本気でパウロを殺そうとしています。そんなユダヤ人たちが、いつしか神の幹に戻され、またそこから豊かに救いを実らせる、という希望を語るのです。そんなことが言えるのは、まさしく第一コリントにあるように大きな信仰と希望と愛とがなければできないことです。
 パウロは33節で「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と神のご計画を称えた上で、36節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっていく」といいます。これは、ユダヤ人も異邦人も罪ある者でも、神によって造られたのだからいつか神の許に戻っていく、ということを書いています。
 神とキリストを拒み、罪の中に落ちてしまったユダヤ人たちの姿は、かつてのパウロそのものです。しかし神様はそんなパウロをお救いになったばかりか、次に救われる人のために働く伝道者とされました。だからこそパウロは、今は罪の中にあるユダヤ人たちが神によって保たれ、神に帰することを確信するのです。
 カインにせよ、ノアにせよ、ヨナにせよ、バビロン捕囚にせよ、旧約聖書を読んではっきりとわかることは、神は裁きの対象として罪びとを見ることを留保し、最終的には救済の対象として見られるということです。神の幹から離れて行く罪びとたちを、神は最後まであきらめず、救いへとおつなぎになるのです。ここで自分自身の問題として考えたいと思います。我々は、旧約聖書を読んでいますから、自分の命が自然に発生したのではなく神様によって造られたことを知っています。そして、この命が今日まで守られてきたことも知っています。さらには、そんな自分が神に背き、神から離れてしまう者である、これも残念ながらよく知っています。
 ではそんな罪深き我々がこれからどうなるのか。それも聖書に書いてあることです。すべての者は神に向かう、です。自分の力ではありません。神様の御力が働いて、そこで私たちの生きる方向性は変わったのです。ですから、どんなことがあっても、その一日、その一歩は、必ず天に向かってつながっているのです。この喜びをいつも忘れずに信仰生活を歩みましょう。 (2020年10月4日礼拝説教要旨)

キリストの住まい  2020年9月27日


エフェソの信徒への手紙3章14~21節
 本日の聖書は、パウロ(ないしパウロに近い人物が)が祈っているところです。16節の後半と17節の前半部分に「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とありました。キリストが我々の内面に住まわれる、というのはどういうことでしょうか。
 人間の内面については、パウロがローマ書でこのように書いています。「わたしは、自分の内には、(略)善が住んでいないことを知っています。(略)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。パウロは罪の支配に苦しんでいました。テモテへの手紙でパウロは自分のことを「罪びとの中で最たるもの」といっています。しかし彼がその罪意識に押しつぶされず、むしろ堂々と福音宣教に励むことができたのは、汚れた内面にこそ、罪と死を打ち破る救い主が来てくださった、という逆説的な福音を知ったからです。丈夫な人に医者はいらない、と主が言われたように、罪深いこの私にこそ、救い主が来られ、いつもともにいてくださるという希望が彼の背中を押し続けたのです。
戦前の日本では欧米人を「鬼畜」と呼び、東アジアの人々を虐殺し、自分たちは天皇のために死ぬべきだ、と信じていました。あるいは社会問題となったオウム真理教には、知識レベルの高い学生たちが入信し、一部は犯罪に走りました。人間というのは自分が思う以上に周囲の影響を受けやすく、心理的に脆弱な生き物です。理性的に生きる我々も、今日一日、罪を犯さずに生きようと思っても、それを貫徹できない程、内面は弱いのです。
 それゆえ、我々はこの世のあらゆるものを排し、キリストを内にお迎えしなければならないのです。自分でもなく、この世の何かでもなく、救い主キリストこそ、我々の内面に必要なのです。我々は、自分の内面から少しでもサタンがいなくなり、キリストの領域が広がるように、心して祈り続けなければならないのです。
 こうして内なる人にキリストがおられる人について、エフェソ書は具体的な要請を告げます。それが17節の後半「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださいますように」というものです。我々はキリストの愛を盛る器です。あるいはキリストの愛を奏でる楽器です。キリストが内面にいてくださるから、我々は愛に立ち愛に進むことができます。これまで考えてこなかったこと、勇気がなくてできなかったこと、キリストとともに生きる者なら、勇気を出して、主の愛を届ける、奏でることができるはずです。
 過去私が出会ったクリスチャンの中でも、ああ、この人の内にはキリストが住んでおられるなあ、と感じる人は少なくありませんでした。苦難の中でも、笑顔があり、優しさがあり、祈りがありました。一方、教会に毎週通っている人でも、利己的で、排他的で、愛がなく、人の気持ちを考えられない人もいました。でもそれが人間の姿です。教会とはそういう人が集まってくる場所です。我々は懺悔の中で、うつむいていた顔を上げ、縮こまった腕を拡げ、キリストをお迎えするのです。(2020年9月27日礼拝説教要旨)

主に養われる  2020年9月20日


詩編23編1~6節
 今日与えられた聖書は詩編23編です。ここに出てくる登場人物は羊飼いと羊だけです。羊たちは古くから人間が飼いやすいよう品種改良がなされ、大変従順な動物です。その反面鈍足で武器を持たない彼らは、自然の中では生きられません。つまり人間がいて初めて生存が可能となります。そこには命を養うもの、養われるものという厳然たる関係性があります。それと同じように、我々も神なしには一日も生きられません。神の愛と恵みによってこそ、人間は生存と存在を許されるのです。神と我々とは「愛の関係性」によってつながっている、といえるでしょう。今日読みました詩編23編は、そのことをもう一度教えてくれる聖句です。
 1節「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」
羊は一日約10キロもの草を食べるといいます。羊飼いは、それを満たすだけの牧草地に連れて行かねばなりません。毎日です。我々も、知らないところで神様が我々の命を育み支えておられるのです。それを空気のように当然視せず、神に感謝しなければならないのです。
 2節、3節「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」 羊は魂がやせ細る経験をしています。にもかかわらず羊飼いが休ませ、憩わせてくださる。だから魂が回復します。我々もそのような経験を教会生活の中でするのです。
 4節「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない あなたがわたしと共にいてくださる」 牧草地から牧草地への移動は、しばしば危険が伴います。ときには荒れたところや急峻な崖なども行くことがあります。それでも、羊飼いがそばにいる限り羊が命を落とすことはないのです。詩人はそのことを経験的に知っています。
 4節後半「あなたの鞭、あなたの杖がわたしを力づける」 鞭や杖というのは、羊を攻撃する道具ではなく、守るための道具です。我々も主に鞭うたれるような、厳しい経験をすることがあります。しかしそのときにも、神の御国へ延びる命の道から外れないように、主が守っていてくださるのだ、ということを信じたいと思うのです。
 5節「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる」 わたしを苦しめる者、というのは、あらゆる解釈が可能です。特定の誰かが脳裏に浮かぶ人もあるでしょう。しかし「わたしを苦しめる者」というのは人に限らないかもしれません。病気や経済的な事柄、戦争、天災等自分を取り巻く状況のことと解釈することもできます。
 しかし羊飼いである神様は、どれほど恐ろしいことが生じても、我々を恵みの食卓にいざなっておいでです。この食卓を主の食卓、すなわち聖餐式であると理解することもできるでしょう。聖餐の恵み、すなわち主イエス・キリストの十字架の御業と、復活への希望。それこそが、死に向かっていた我々の魂が生き返る、まことの恵み、命の糧なのです。
 そして最後の6節を見たいと思います。主の慈しみと恵みは生涯を通じて、わたしを追いかけ、ついにわたしは主の家に帰る日が来ます。そして永遠に、わたしの命は天の御国に留まり、そこで安らかに憩うのです。こうして、羊飼いなる神様と、我々との間にある愛の関係性は、永遠に存続するのです。(2020年9月20日礼拝説教要旨)

     

わたしたちが願うこと  2020年9月13日


ヨハネの手紙地一5章10~21節
 ヨハネ教会は信仰者の離脱という危機を迎えていました。巡回する伝道者が異端的な内容を吹き込み、それに従う人が出てきたのです。今日読んだヨハネの手紙は、そのときの教会を励ますために書かれたものです。この手紙にはいくつかの主張があり、その一つは隣人愛です。教会の分裂、信徒の離脱ということを経験した教会員たちにとって、仲間同士で愛を分かち合うことは、大きな癒しとなったはずです。
 もう一つは、反キリストと呼ばれる異端者への攻撃です。異端者たちはキリストを神の子とは認めず、さらには十字架による贖罪も認めていませんでした。もはやキリスト教とは言えないものでした。著者はそれを「死に至る罪」として非難しています。
 三つ目の主張を挙げるとすれば、それは神への信頼です。ヨハネ教会が苦しみ、疲れてしまった原因の一つに、自分は裁かれるかもしれない、と恐れがありました。異端論争があると、どうしても、お互いの主張は「救いはこちら側、裁きはそちらに」という排除的傾向を帯びてきます。たとえ誘惑に克(か)って教会の中に残ったとしても、漠然とした不安を感じていたかもしれません。ヨハネの手紙の著者は、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」(14節)といって、神への信頼を取り戻すよう勧告しています。
 「わたしたちの願いが何でも叶えられる」というのは、本当でしょうか。ここで注目すべきは「神の御心に適うことを」という条件が入っていることです。我々は苦しい経験をすると、自分の願い通りに働いてもらう、都合のいい神様を求めてしまいます。そうではないのです。自分の願いが神の御心に適うこと、つまり神の御心に自分の願いを合わせていく、そういう祈りが大切です。願いが聞かれなかったときこそ、どこに神の御心があるのか、それを真剣に見つめ直す必要があるのです。
ニューヨークの病院の有名な詩が掲示されています。(渡辺和子訳)
  大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに
  謙遜を学ぶように弱い者とされた
  より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
  よりよいことができるようにと病気をいただいた
  幸せになろうとして富を求めたのに
  賢明であるようにと貧しさを授かった (中略)
  求めたものは何一つ与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた(中略)
  心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた (中略)
この詩の作者は南北戦争の傷病者ともいわれます。彼が苦しみの極みで発見したのは、自分の願いではなく神の御心でした。
生まれてから死ぬまで、わたしたちは数えきれないほどの願いを神に託します。そのどれもが真剣なものです。ですが、困難な時ほど自分ではなく神の御心がどこにあるのかを探し求め、最後には神の御心が優先されますように、という謙虚な祈りをささげたいのです。その中で見つけ出すことのできる神様との信頼関係が、最終的な、そして究極の、我々の強さとなるのです。(2020年9月13日礼拝説教要旨)

雲の柱、火の柱  2020年9月6日


出エジプト記13章17~22節
 イスラエルの人々は400年住んだエジプトから脱出いたしました。そのとき、神様は人々をペリシテ街道には向かわせず、迂回して葦の海方面へ導かれました。迂回路は遠回りで歩きにくく、どう考えてもそんなところへ行くはずがない、とエジプト軍に思わせるためでした。しかしそれが最良の道でした。我々はどうしてこんな道を行かねばならぬのか、と思うことがあります。平坦で、歩きやすくて、最短距離だったら、どんなにいいだろうかと。しかしそれも神様の用意なさった道です。遠回りや歩きにくさの中に、神様の守りがあるのです。
 21節には「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」とあります。神様は我々の目に見える方ではありませんが、その象徴として、雲の柱、火の柱が彼らに先立ち、彼らを導きました。
 今見えていることがらが、神の存在と介入を指し示すということです。見えていることがらというのは何でしょうか。実際、それはなかなか難しい所です。すでに起こっている出来事、取り巻く状況、人間関係、そういったことがすべて神の御心なのか。わたしたちが正確に把握することはできません。それは後になってみなければわからないことがほとんどだからです。しかし冷静になってよくよく考えてみると、自分にとっての雲の柱、火の柱が割と身近にあることに、気が付くのではないでしょうか。
 ある重い障害を負ったクリスチャンの方は、親に幽閉されて育ちました。外に出たい、という一心で、ある時家を飛び出しました。すると通りの上の方から綺麗な歌が聞こえてきたのです。歌に誘われて小さな家の二階に上ってみると、皆が見えない何かに向かってお祈りしていました。見えないけれども、そこには何かがある。まさに礼拝という見える行為が、見えない神を指し示すのです。
 彼女は、それからも教会に通い、ついにクリスチャンになり結婚もしました。閉じ込められた日々、飛び出した日の讃美歌。礼拝。それがすべて見えざる神につながったのです。
 例えば、親がクリスチャンだった、家の近くに教会があった、通った幼稚園や学校がキリスト教だった。そんなあらゆる状況が、本人も気づかないところで、雲の柱、火の柱となってその人を導いているのです。問題は、そのことを神の御心として信じるかどうかです。
 見えていることがらが、見えない真理を示す。今我々にとって最も重要なことは、神奈川教会にこうして通っているということではないでしょうか。今日、我々は世俗から離れて、一つの群れとなって、この礼拝を構成しています。神は見えませんが、見える礼拝であがめられる存在としてここにおられます。この確かな現実こそ、雲の柱、火の柱ではないでしょうか。
我々にとっての雲の柱、火の柱というのは、案外身近にあるような気がします。神様が昼も夜も、あらゆる事象を通して我々を救いへと導いていてくださる。そのことに感謝して過ごしてまいりたいと思います。
(2020年9月6日礼拝説教要旨)

二度目の約束  2020年8月30日


出エジプト記34章1〜9節
 かつて神様はアブラハムと契約を結び、子孫繁栄を約束されました。時間がたち、エジプトで苦しむ人々の叫び声を聞かれた際、神様はこのアブラハム契約を思い起こされました(出エジプト2:24)。出エジプトは、いわばアブラハム契約によって始まったのです。
さらに時代が進んで、新たな契約を結ぶ必要が生じました。それが出エジプト記20章に書かれたモーセの十戒と律法です。これを契約の場所にちなんで「シナイ契約」といいます。なぜアブラハム契約ではだめだったのか。それは十戒を見ればわかります。わたしのほかに神があってはならない。いかなる像を作ってはならない。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に嘘をついてはならない。人々は、これらの戒めを人は守れず、神の御心から離れていきました。それゆえ「戒め」というかたちで契約をお定めになったのです。
 ところで、モーセが神様から十戒を受け取ったとき、二枚の石の板にその文字が刻まれていました。紙でも、板でも、動物の皮でもなく、石に文字が刻まれたのは、それが永遠性を持つからです。少なくとも神様はこの約束をもって、出エジプトの40年だけでなく、将来における繁栄と救済を与えようとされました。
ところがモーセが山から下りてきたとき、イスラエルの人々は金の子牛を鋳造して、これを神として拝んでいました。今神様から示されたばかりの、第一戒、第二戒に違反する行為でした。神様は大いに怒られ、民を滅ぼす、とまで言われたのですが、モーセがとりなしをし、それだけはおやめになりました。一方、怒りが収まらないのはモーセも同じです。モーセは神様からいただいた石の板を投げつけ、粉々に砕いてしまいました。粉々になった石は、人々の信仰、そして神様との関係を表していました。
後日、神様はもう一度石の板をもって山に登るようモーセに言われます。そこでは「憐み深い神様は忍耐をもって人々の罪と過ちを赦してくださる」という宣言がありました。仮に人々が大罪を犯してしまっても、神様は彼らを見捨て給わない。人間が一方的に破棄してしまったシナイ契約について、神様はもう一度、しかも一方的に締結してくださったのです。
 一度目の契約を人間が破ってしまい、二度目の契約を神が一方的になしてくださる。この構図は、まさしく旧約聖書を通して見る新約聖書の歴史そのものです。広い意味では、旧約聖書は一度目の約束です。しかし世界の人々は神を神とせず、自分勝手になり、結果としてこれを守ることが出来ませんでした。慈愛深い神様は、そんな我々が滅びに落ちていくことを看過されず、主イエスを通して二度目の契約を与えてくださったのです。
出エジプトのように、我々は苦しみから逃れたくて、神に従おうとしてきました。神様も我々を憐み、愛してくださいました。しかしいつしか我々は自分勝手になって罪を犯し、神との関係を粉々にしてしまいました。神様はそのたびに、イエス様を通して、新しい、そして永遠の約束へと向かわせてくださいます。ですから、今度こそ、この約束の内にしっかりと御国に向かって歩んでいきたいと思います。(2020年8月30日礼拝説教要旨)

神が育ててくださる  2020年8月23日


コリントの信徒への手紙一3章1~9節
 今日の聖書は、コリントの教会についてパウロが書いているところです。当時コリント教会の中では分派活動が盛んで、互いに争っている状態でした。ここに名前の出てきたアポロという人物は、パウロの後からやってきた巡回伝道者で、パウロとは違う考え方を持っていたようですが、パウロはアポロではなく互いに争っている人たちを、「ただの人になってしまっている」と批判しました。ただの人とは、霊性を失って人間主義に陥っていることを意味します。
次にパウロは何を書いたかというと、誰が教会を育てたか、ということでした。6節と7節を見ますと、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」として人間の働きを一旦認めますが、「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と結んでいます。我々はクリスチャンであっても、そのことを忘れがちです。よく〇〇牧師が教会を設立した、教会を大きくした、というのを耳にしますが、教会は神様が生み出し、神様が育てるものです。教会設立やその後の発展に尽力した人間がいたとしても、それはあくまで神様のお手伝いをしたに過ぎません。パウロはそのことをいうのです。
 神様が生み出し、育ててくださる。そのことを最もよく感じるのは、命あるものとの出会うときです。幼稚園の園庭に小さな池がありまして、そこにメダカを十数匹入れてあります。掃除をするために、メダカは別のところに移して池を空っぽにしました。しばらくそのままにしておいたら自然に雨水がたまりまして、見ると生まれたての小さなメダカが20匹くらい泳いでいました。空っぽにしてから2週間くらいたっていましたからとても驚きました。親メダカが池の壁面の藻に卵を産み付けていたのです。日常の小さな出来事に過ぎませんが、本当に感動しまして、神様がありがとう、と思いました。人の思いもよらぬところで、神様のお力が大きく働き、命をちゃんと育ててくださるのだなあ、ということにあらためて気づかされたのでした。
人間でも同じことです。神奈川幼稚園に年少さんで入ってくる子どもたちは、まだ幼いので集団生活自体に慣れていません。職員はあれこれ考えて、その子にぴったりと合った接し方や環境を整えようとします。そうやって、たくさんの大人たちがかかわっていく中で一人の人間が育っていきます。しかし職員も人間ですから、失敗したり行き届かない部分もあるかと思います。ところが人間に不十分な部分があっても、神様が見えないところで霊をもって育ててくださっているのです。卒業式の時、毎年そのことを感じます。「神様が育ててくださる」ことを知る者は、安心して自分の働きに向かうことができるのです。
 今日はいろいろなことを話しましたが、最後に信仰の話に戻りましょう。我々の信仰は誰が育てるのか。自分でも牧師でもなく、神が育ててくださいます。ですから、自分の信仰が足りなくても、牧師が少々マズくても、教会に通っている限り、その人の信仰は神様が守り、霊をもって導いてくださるのです。何の心配もいりません。今日の礼拝でも我々はその霊性が豊かにされ、また一歩神の国に近づけられました。その週ごとの小さな歩みが、天国へと通ずる唯一の道となるのです。(2020年8月23日礼拝説教要旨)

     

定められた時  2020年8月16日

コヘレトの言葉3章1~17節               大矢真理牧師

 3節「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。
 2020年は、歴史に刻まれる「時」になります。オリンピック、パラリンピックが開催される「時」として、歴史に刻まれる筈でしたが、新型コロナウイルス感染症で1年延期になりました。中学生の全国大会、高校生のインターハイ、高校野球は、中止になりました。吹奏楽、コンクールも中止です。キリスト教会にとっても大きな「時」になると思います。新型コロナウイルス感染症の影響で、緊急事態宣言が発令され、会堂での礼拝の休止、インターネットを活用した礼拝が模索されたと思います。緊急事態宣言は解除されましたが、まだ大きな制約の中での礼拝になっています。教区総会が延期、書面での総会になったり、教会総会も同様です。教団総会は1年延期です。新型コロナウイルス感染症の流行が神様の定められた時なのか?

 今日の聖書箇所11節は、口語訳聖書で神のなされることは皆その時にかなって美しい。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」と訳されています。神様が全ての出来事について、定めている時がある。その時は、全てが時にかなって美しいことだ。その美しいことは全ての出来事、行為が該当する。その時を、人間が初めから終わりまで見極めることは出来ない。今日の聖書箇所をかみ砕いて言えば、そういうことになります。作者は具体的に、「時」を挙げていますが、聖書に挙げられている「時」には、理解できるものと、理解に苦しむ時があるように思います。例えば殺す時や戦いの時です。太平洋戦争に突入する前、政府は、「時」を見て真珠湾攻撃をかけて、東南アジアに軍を進行して、資源を確保して、早期に講和に持ち込む戦略だったと言われています。結果は私たちが歴史で知る通りです。人間が戦争を始める時は、「時」を力によって支配しようとする傲慢なのです。生まれる時、死ぬ時はどうでしょう?人間は生まれる時を選べる人はいません。納得出来る「時」です。死ぬ時はどうでしょうか。私は昨年11月18日に母を天に送りました。母に定められた時であった。母は苦しみや痛みから解放されて、天国で安らかに過ごしていると思います。しかし、同時に葛藤している私がいます。母の死が、母に限らず死ぬ時ががすべて時にかなって美しいことなのか?神のなさることは、すべて時にかなって美しい。文字通りに解釈すれば、死ぬ時も、すべて時にかなって美しいです。
 11節の後半には神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていないとあります。人間には神様の御業を見極めることは出来ない。「時」を支配して定めるのは神様であって、人間ではない。人間が神様の業である「時」を支配しようとする時に、自分自身を「時」の支配者として、神様に代わって「時」を支配しようとする。神様に代わってこうだと決めつける。神様をも恐れぬ行いとは3:11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられるのにそれでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていないのに見極めようとすることではないでしょうか。時を決め、定めるのは神様です。人間ではありません。
(2020年8月16日礼拝説教要旨)

主の命を受けよ  2020年8月9日


コリントの信徒への手紙一11章23~34節
 今日の聖書は聖餐式の式文に採用されているところです。24節に「あなたがたのための』とあります。これは聖餐式の時のパン、すなわちキリストの御体のことです。ここで重要なのは「裂かれる」ということです。キリストの体が裂かれる、これは十字架の際、キリストが槍で突かれて皮膚が裂けたことを意味するものです。そして当然、皮膚が裂ければ血が出ます。25節のぶどう酒は、十字架のときに流される主イエスの血潮のことです。
 キリストの命がこの地で棄てられる時、新しい「契約」が完成します。「契約」というのは、二者あって初めて成り立つものです。誰と誰か。申し上げるまでもなく神様と人間です。キリストの尊い命を仲立ちとして、神様と人間との間に救済という契約ができたのです。契約の当事者として、我々はその責任に応じているでしょうか。
 26節「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。キリスト者が集まって礼拝で感謝して聖餐を受け取る。その時に命が更新され、その人は新たな人となって世に出ていきます。ではその人が何をするかというと、パウロは「主の死を告げ知らせる」のだ、といいます。ある人がわたしに「ここは『主の復活』の方が相応しくないですか」といいました。確かにそういう気もしますが、この箇所はあくまでも裂かれた体、流された血潮がテーマとなっており、復活はまだ先のことなのです。教会と信徒が復活の喜びを語るのは当然のことですが、その前に主の十字架があり、主は私たちのために死んでくださった、ということをまず語らねばならない、ということなのです。
 27節で主の聖餐を受けるに「相応しくない人」とあります。これはクリスチャンでない人であるかのように誤解されることがありますが、今日の聖書の前後を読めばわかるように、それは自分勝手な人、隣人を顧みない人のことです。当時の教会は毎週食事をしておりまして、その際貧しい人はこっそり遅れて礼拝堂に入ってくるわけです。ところがいざその人たちが食べようかと思ったら、もう食事がない。初めに持ってきた人が、後から来る貧しい人のことを考えずに全部食べてしまうからでした。もしそんな人がいるなら、自分の命を犠牲にしてまでわたしたちを罪から贖ってくださったキリストを記念する聖餐式に相応しいとは言えない、とパウロは言うのです。
 ただし、これは愛のない人間は聖餐を受けるな、という排除的な意味ではなく、例えば学校の部活で「ダラダラしている奴はこの部には相応しくない、ここから出ていけ!」と顧問の先生がいうようなもので、自分をふりかえり、反省の中でなすべきことをしなさい、という励ましの言葉として受け取るべきです。ですから、聖餐を受ける際我々はしっかりと自分をふりかえり、懺悔の中で、しっかりとパンとぶどう液を受け取るべきです。それでこそ、罪赦されたことの喜び、命が更新されたことの恵みにおいて、週の歩みへ向かうことができるのです。
 いつどんな形で再開できるかわかりませんが、次に聖餐が行われる際は、共に喜びをもって主の命を分かち合いたいと思います。(2020年8月9日礼拝説教要旨)

その人のためにキリストは  2020年8月2日


ローマの信徒への手紙14章10~19節
※今回の説教要旨は諸事情のため前半を大幅にカットしています。
 パウロ時代の教会では、律法で禁止された食べ物を忌み嫌うグループと、それを平気で食べるグループがありました。食に関する衛生感覚というのは誰もが敏感になりがちですから、お互いが食べ物など律法のことで裁き合っていました。今日の聖書の10節にはこうありました。「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」。誰もが罪を犯し神に裁かれるべき身なのに、なぜ互いに裁き合うのか、というのです。
 なぜわたしたちは、かくも人の悪い部分ばかりを取り上げ、自分の罪には疎いのでしょうか。それは15節に「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」とありますように、愛が枯れているからです。ではなぜ愛が枯れてしまうのか。それは同じ15節の「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」という御言葉を自分のものとしていないからです。わたしはこの聖句が本当に大事だと思っていて、いつも説教でこの部分について申していますが、キリストはわたしのためにも、あの人のためにも死んでくださった・・・、これがキリスト教信仰の原点ではないですか。すべての罪びとの赦しと救いのために、キリストは天から来られたのではないですか。だから、人間的には絶対に許せない部分があったとしても、神はその人をお赦しになるかもしれない、ということは頭のどこかに置いておかなければならないと思います。なぜなら、自分だって誰かに深いダメージを与え続けているかもしれないからです。その人は私のことを、絶対に許さないと思っているかもしれないからです。だから、我々は神様に懺悔し、赦しを請うのです。赦されざるこの私をどうぞお赦しください。どうぞキリストをこの私にお遣わし下さい、と。
 本日は、平和聖日です。太平洋戦争中、日本は二つの原子爆弾、無差別空襲という非常に大きな被害を受けました。取り返しのつかない出来事であり、国と民は深く傷つきました。しかし日本もひどく他国の人々を傷つけたのです。今もなお世界各地で戦争、テロが続いています。そうしたことが起こるのは、その国と為政者に愛が枯れているからです。したがって、今もなお「キリストはあの人のためにも、このわたしのためにも死んでくださった」という信仰が、平和や和解を作り出すためにも必要なものなのです。それが我々にとって大きな希望となるのです。他者のためにはとりなしを、自分については懺悔をしながら、主を待ち望みたいと思います。
(2020年8月2日礼拝説教要旨)

     

破滅からの救い  2020年7月26日


使徒言行録27章33~44節
 ローマで裁判を受けることになったパウロは、船で護送されることになりました。エーゲ海に来たあたりで突然、激しい風に見舞われ、船は航行不能になりました。パウロは船に乗っていた人々に「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」と励ましました。パウロは脈絡もなくそういったのではありません。前の日に、パウロに天使が現れて「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と言ったからです。天使が「皇帝に出頭せよ」といったからには、必ず岸にたどり着けるとパウロは確信したのです。
 しかし、パウロがそういって励ました後も嵐は続きました。船にいた人たちは2週間も何も食べていませんでした。食べ物がなかったわけではなく、食欲がなかったのです。それゆえ、パウロは再び彼らを励まします。今度は食事をしましょう、といいました。そこでパウロはパンを割いて感謝の祈りをして皆で分かち合いました。これは聖餐に良く似ています。この食事によって、その場にいた者は皆、聖霊に働きによって力が湧いてきました。
 朝になって、船は浅瀬に乗り上げ、とうとう船体が壊れ始めました。冷静さを失った兵士たちが、パウロを含む囚人たちが逃げてしまわないように、殺そうと思いました。しかし百人隊長はこれを思い留まらせました。すでに百人隊長は、パウロによってキリストに近づけられていたのです。結果として、船に乗っていた人は全員助かりました。
 今日の話から、様々なことを教えられます。我々はしばしば、激しい嵐のために生きる目的を見失い、この世を漂流することがあります。しかしその漂流に出口があると知っているのと知らないのとでは大違いです。パウロがローマというゴールを知っていたように、我々も神の御国へ到達することを知っていますから、風に吹かれつつも、心を静かにして希望を持ち続けることができると思うのです。
 第二に、パウロの励ましの言葉と、パンを裂いて手渡した食事が船の人たちを励ましたということです。これを礼拝の場に置き換えますと、御言葉と聖餐ということになります。ある意味でパウロはこの船の導き手であり、牧者です。牧者であるパウロによって励ましの御言葉が語られ、同時に主が共におられる食事の分かち合いがなされました。これぞまさに教会の原型です。我々が乗っている舟は御言葉と聖餐に支えられ、目的地に向かって進み続けるのです。
 第三に、いよいよ、というところで囚人たちを殺そうと思った兵士たちの罪です。自分の人生が壊れそうになる時、しばしば人のことなどどうでもいい、と考える人たちがいます。しかし今日の百人隊長は、最悪の状況の中で最良の選択をしました。困難な選択でしたが、神の助けによってそれを選ぶことができました。教会という場所が船だとすると、そこは我々の精神性や人間性を破壊するこの世の荒波から逃れることのできる場所です。そこで壊れそうになった自分の内面を取り戻し、神における正しさをもう一度持つことができるところなのです。
 神から離れ、虚しい世界を漂流する我々は、キリストによって豊かな命を与えられました。これからもその希望をもって生きたいと思います。(2020年7月26日礼拝説教要旨)

     

正しくない者も  2020年7月19日


使徒言行録24章10~21節
 伝道旅行からエルサレムに戻っていたパウロは、「民と律法と神殿を無視することを人々に教えていた」としてユダヤ人たちに逮捕されました。しかし当のパウロは「律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」といっているように、律法を無視しているつもりはなく、むしろ積極的に推し進めていたといえます。彼にしてみれば、新しい律法であるイエス・キリストの福音を伝えているだけなのです。
 ところで、回心前のパウロはなぜあんなにも熱心に迫害行為に加担していたのでしょうか。それは彼なりに律法的な正しさを追い求めていたからにほかなりません。しかし頑張って迫害しても自分が救われているという確信や喜びを得られることはありませんでした。結果的に「律法的な正しさ」は彼に救いをもたらすことはありませんでした。
 人を殺すのは悪いこと、人のものを盗むのも悪いこと、嘘をつくのも悪いこと。偶像礼拝も悪いことです。これはモーセの十戒の中にある戒めで、とてもわかりやすいです。しかし律法というのは複雑な歴史や構造を持っています。律法をある時代の人が読むと、その時代の解釈が入りますし、政治状況によってもまったく受け取り方が変わってきます。人を殺すな、隣人を愛せ、復讐するな、とレビ記19章に書いてあっても、律法の方で神の御名を汚す者は殺してもよい、とあれば、戦争中の外国人に平気で復讐することができるのです。かつてのパウロは、そういう意味での正しさに従って行動していましたが、そこに答えはありませんでした。
 パウロはローマ書で「正しい者は一人もいない」といいますが、それは「アダム以降の原罪」という根本論を意味するだけでなく、回心を経験した彼の実感として、律法に照らして「正しい人」を目指しても、結局正しくなれない、という律法に対する経験則的な意味合いが込められているのではないでしょうか。
 回心という強烈な出来事を経てクリスチャンとなったパウロは、今目の前で裁判をしている人たちもまた、かつての自分と同じようなものだと思っていたかもしれません。つまり、よいことと悪いことがわからずに、ただがむしゃらに生きており、結果として正しくなれない。しかし、そんな人間のところにキリストは来てくださる。パウロには、そういう期待があったのではないでしょうか。
 極めて単純なことですが、我々は神の御前で正しくあり続けることなどできない、ということを知るべきです。パウロも回心体験を通してそれを思い知りました。神様は、その正しくない者にキリストを送られ、永遠の救いを与えてくださったのです。キリストは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」といわれました。我々が罪の病に病んでいるからこそ、癒し主であるキリストが必要なのです。
 我々はパウロのような人間にはなれないかもしれませんが、パウロ的生き方を模索することはできます。正しい者でないのに救われる、という感謝と喜びが、信徒と教会の力強い歩みとなっていくことを祈り続けたいと思います。(2020年7月19日礼拝説教要旨)

     

壁の破壊  2020年7月12日


エフェソの信徒への手紙2章11~22節
 エフェソの信徒への手紙が書かれた時代、教会は構造的な問題を抱えていました。それはユダヤ人からキリスト教徒になった人々と、異邦人からキリスト教徒になった人々との間に生じた軋轢でした。元ユダヤ人たちが重要だと思っていた割礼などの律法が、元異邦人にはさほど重要な問題には見えませんでした。当然のことながら、お互いをさばくようなことになっていきました。14節には「敵意」という言葉さえ使われています。
 そこで手紙の著者は、キリストによる一致を説きます。著者は「隔ての壁」をキリストが破壊される、といいます。ただ、そこで重要となるのは救い主の「接近」です(13節、17節)。すなわち、横方向に存在する隔ての壁は、縦方向の神と人間との壁が打ち壊されて初めて消滅するのです。手紙の著者は、キリストから遠い人(異邦人)も近い人(ユダヤ人)も、主が近づかれた、といいます。まずそこに神との和解が生じ、次いで人間同士の隔たりも解消されるのだ、と考えることができる聖句です。
 この遠い近いということを現代的に再解釈するなら、たとえばまじめな人、そうでない人、家庭がクリスチャンだった人、そうでない人、よく勉強してなんでも聖書についてわかっている人、そうでない人、どんな人もキリストが接近してくださっている、ということなのです。我々が一番戒めなければならないのが、あの人はクリスチャンなのに・・・という考え方です。我々はみな例外なく、キリストから遠く離れていた人間でした。にもかかわらず、キリストが近づいてきてくださったのです。ですから、あなたが罪びとなら、わたしも罪びとであるわけで、この二人の間には霊的な意味における本質的な差異はありません。そこにまず、神とすべての人との和解が与えられ、そこから信徒同士の和解が結ばれていくのです。
 単にクリスチャンだから仲良くしましょうね、という話ではありません。我々はどの人も罪びとであり、神様からの接近なしに救われず、教会生活も価値ある人生もないという気づきの中で初めて、謙虚さをもって他者を見ることができるのです。
 これは教会の外との関係についてもいえることです。わたしたちが世の中で生きていくということは、それだけストレスやトラブルを抱えることになります。気が付けば、我々は自分の中の律法で、誰かを裁き、傷つけています。そこで一歩立ち止まって、わたしに来てくださったキリストは、あの人にも近づいておられる、という感覚を持ちたいのです。もちろん、許せないこと、納得いかないことはあるでしょう。確かにあの人と私の間には壁があります。でもそれはこの世の中で生じた壁であって、人間としての根っこの部分では、何の違いもないはずです。だから、本当は壁など最初から何もなかったのです。
 今は、妙なナショナリズム、レイシズムが興隆しています。自分さえよければいい、お前のことはどうでもよい、みたいな風潮が一部の国や為政者にありますが、我々はそういう自分勝手な考え方にはしっかりと否を突きつけつつも、この人たちにも我々にもキリストは接近しておられる、という福音を忘れてはならないと思うのです。(2020年7月12日礼拝説教要旨)

陰府からの救い  2020年7月5日


詩編49編6~17節
 旧約聖書は、死後を完全に無と考える場合もありますが、陰府に落ちてそこで存在するという概念もあります。その場合、陰府で刑罰を受けることになります。そして残念なことに、旧約聖書は陰府への転落を回避する方法を書いていません。まるで死と同時に陰府への転落があるかのようです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。それは人は罪を犯し、神との関係が破綻している、という冷めた人間理解が旧約聖書にあるからです。罪を犯すならば、罰は避けられないと考えるのは自然の成り行きです。
かつて神様は、破綻した人間との関係を修復するために、律法を与えられました。しかし人は律法を守ることができず、むしろ人を裁く道具にしていました。次に神様は預言を与えられました。この預言も結局人は聞き入れず、身勝手で破壊的な行動ばかりをしていました。いよいよそれでは人に救いはやってきません。そこで神様は新しい救いの道筋を新約聖書で約束してくださったのですが・・・その前に、今日の詩編を読みたいと思います。
今日読んだ詩編49編も大変ネガティブな人間理解があります。11節「人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財産を他人に遺さねばならないということ」と非常に冷めた生死観が示されています。そして15節「陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き、誇り高かったその姿を陰府がむしばむ」。生前どんなに誇り高い生き方をしていても、死ねば陰府の世界がそれをむしばむというのです。希望などどこにもありません。死のむなしさ、恐ろしさが全面に表れている文章です。
続く8節でも「神に対して人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない」とあり、人が罪を犯して陰府に落ちてしまうことについて、だれもその代償を支払うことができない、どうしようもできないといいます。しかし同時に、詩人は16節でこうもいうのです。「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から救い上げてくださる」。この16節は、49編の流れからするとあまりにも唐突で、矛盾さえ感じます。どうしてそんなことがいえるのでしょうか。贖い主イエス・キリストがすべての答えです。新約聖書では主イエスが十字架の死をもって我々のことを贖ってくださると書いています。贖うというのは買い取るという意味で、陰府に落ちていくわたしたちの魂を、尊いキリストの命を犠牲にして買い戻してくださったのです。
陰府の世界へ転落することを、この世で唯一食い止められるのはイエス・キリストです。旧約聖書ですから間接的にではありますが16節はそのことを書いていると考えてよいです。この16節は、ほとんど虚しいことばかり書いている詩編49編にあって、とても輝いているように見えます。それと同じように、ネガティブな人間理解と生死観が横たわるこの世界の現実において、イエス・キリスの存在だけが輝きを放つのです。
聖書は裁きを語る書ではなく、救いを語る書です。新旧約聖書を読むと、ここまで堕ちてしまった人間を、神様はなんとかして救い出そうとしてくださっていることがよくわかります。この神の愛を信じて、今週も過ごしてまいりましょう。(2020年7月5日礼拝説教要旨)

     

十字架へ向かわれる主  2020年4月5日


ヨハネによる福音書18章28~40節
 受難週に入りました。今日はヨハネ福音書の受難物語を読みました。主のご受難の書き方は四つの福音書によってそれぞれ違いますが、ヨハネ福音書は洗足の話から入ります。主は弟子たちに、共同体としての在り方をあの物語で示されます。またそのほかにもヨハネ福音書では「~に属する」という言葉がたくさん出てきたり、羊、ぶどうのたとえ話など、共同体を意識させる御言葉が多いのが特徴です。一人一人の信仰も大切なのですが、共同体(わたしたちでいえば教会)における神とのつながりも重要です。このように、ヨハネ福音書では、「わたしたち」という共同体に対する主のメッセージが多くみられ、今日の話でもそのような意識の中で読んでいくとより理解が深まると思います。
さて、主はピラトの裁判を受けています。ピラトは第一の質問をします。「お前がユダヤ人の王なのか」。これに対して主は「あなたが自分の考えでそう思うのか、それとも他の者がそういっているのか」と逆に質問されました。この対話は、ちぐはぐといいますか、なんとなく違和感があります。主イエスはピラトに語っているようで、実は彼を通してわたしたちに語り掛けているのです。キリストが王であることはあなた自身の思いなのか、それとも他の者がそういっているだけなのか。問われているのは、主イエスではなく、我々の方なのです
 次のピラトの質問は「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」というものでした。これに対しても主は「わたしの国はこの世に属していない」といわれ、何とも捉えにくいお言葉で答えられます。しかしこの御言葉もまた「あなたがたはどちらの国に属するのか」という我々への問いかけであると理解できます。あなたはピラトのようにこの世の大きな国と力に寄り頼む者なのか、それとも主イエスの御国に属するものなのか。自分はどういう者でありたいのか、と問われているのです。
 最後の質問「やはり王なのか」についてはですか、これは第一の問題に戻ってくるわけです。
この部分で特に重要なところは「わたしは真理について証をするために生まれてきた。そのためにこの世に来た。真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」という御言葉です。共同体の在り方についてのメッセージがあります。共同体はすでに真理に属する者であり、彼らは皆主の御言葉を聞くのです。
 2000年前、ヨハネ福音書を読んでいたグループは、ユダヤ人たちから厳しい迫害を受けていました。彼らはこの福音書を読みながら、主がピラトに語るのではなく自分たちに対して語っておられることを感じたはずです。「あなたたちは、わたしを王だと思うか」「あなたはこの世の国ではなく、神の国の住人なのだ」「あなたはこの世ではなく真理の中に生きているのだ」という大きな励ましと慰めを、今日の御言葉から受けたのです。その主の御言葉と問いかけと励ましは、今の我々にも届いているのです。わたしたちもまた今、大きな試練の中にあります。この世でどんなことがあろうとも、わたしたちは天に属する者の群れです。主にすべてをゆだね平安の中を歩みましょう。(2020年4月5日礼拝説教要旨)





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