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「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3

日本キリスト教団神奈川教会

〒221-0832 横浜市神奈川区桐畑17-8

説 教

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落ちた麦から  2020年3月29日


ヨハネによる福音書12章20~26節
 今世の中は、大きな試練と闘っています。病気になる人、亡くなる人が数多くおられ、とてもお気の毒に思います。この大きな禍がいつ収まるのかという不安を覚えつつ毎日お祈りをしています。しかし疫学的に考えてみると、このような状況は有史以来繰り返され、そのたびに人間は免疫を獲得しながらなんとか生き延びてきたといえます。それは犯罪や戦争についてもどこか似ていて、大きな犠牲を払った人がいたからこそ、国際ルールや国際関係の構築によって、そうではない世の中を目指して人々はなんとか命をつないできたのです。
 ただ、それはある意味でこの世の中の出来事です。わたしたちはそうしたこの世の、命のつながりとは全く別の、神による命の流れの中に置かれている、ということを知らねばなりません。神による命の流れとは、この世の歴史というという問題を超越、ないしそこから超絶した神の歴史であり、この世のあらゆる力や事象に左右されない、永遠の神の御国に流れているものであって、我々はそこに召されることが赦されております。聖書というのはその両方、すなわちこの世における人間の歴史と、神の御国という永遠なる世界について書いているのです。
 ところがかつて、神による命の流れは歴史の中で遮断されそうになったことがありました。神に人間が背き、神よりも自分を、信仰よりもエゴイズムを選択しようとしたのです。神はそのような人々の命の流れを遮断なさらず、むしろつなぐことをお選びになりました。
 主イエスは24節で「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」といわれます。主イエスの御子としての命が、すなわち一粒の麦がそのままであったなら、歴史は何も変わらない。人間に救いが来ないままずっと歴史が続きます。主イエスはその歴史を変えるために地に落ち、死なれたのです。
 一粒の麦というのは、本当に小さなものです。しかしその大きさと反比例するように、種は大いなる豊かさを秘めています。我々は、キリスト・イエスという一粒の種によって命をつなぎ留められ、そこから大きく、豊かな恵みをいただいているのです。
アルプスの少女ハイジを執筆したヨハンナ・シュピーリは、57歳のとき、29歳の一人息子を、7ヵ月後に62歳の夫を相次いで天に送ります。しかしその後彼女が召されるまでの17年間に執筆した作品は、むしろ以前よりも一層明るく、希望にあふれるものでした。なぜか。信仰によって彼女はもう一度立ち上がることができたからです。自らの命を壊してまで人に命を与えられる主イエス・キリストへの信仰によって、彼女は復活の命を経験したのです。落ちが麦から、命が芽生えるとは、そういうことです。
神奈川教会の歴史においても、主の復活の命に目覚めた宣教師たちや牧師、信徒たちの命と信仰が流れています。一人一人が、キリストの一粒からつながったもう一粒です。ですから、わたしたちがこの世に命のある間、しっかりと、そして豊かにキリストの実りを湛えたい。そしてその時が来たら、立派にこの地に落ちて、次の信仰者へと命がつながることを、信じていたいのです。(2020年3月29日礼拝説教要旨)

     

キリストの香りで  2020年3月22日


ヨハネによる福音書12章1~8節
 過越祭の6日前、すなわち十字架の6日前、主イエスはベタニアという村に来ておられました。ベタニア村は旧約にも歴史書にも記載がありません。おそらく小さな貧しい村落であったと思います。しかしラザロ、マリア・マルタなどの記事を読むと、主イエスはこの小さな村と、そこで暮らす小さな人々を愛しておられたことがわかります。
 さて、そのベタニア村で主が食事をしておられたとき、主の許にマリアが歩いてまいりました。マリアが手にしていたのは、その場には似つかわしくない、高価な香油を入れた壺でした。中に入っている香油は300デナリオン(日本円で数百万円)の価値があります。食事の場にいた人たちは、この人は一体何をするつもりかと、好奇の目で彼女を見ていただろうと思います。すると彼女は、主の足に油を注ぎこみ、髪の毛でそれをぬぐいました。それは、「給仕の話」のときと同じように、ほかの人には非常識なように見えても、マリアにとって必要な行為でした。
 300デナリオンの香油はどんな香りがするのでしょうか。この香油には二つの香りが混ざっていたと考えます。一つは死の香りです。主イエスはもう一週間後には葬られます。当時の慣習では、死んだ人に香油を塗って、遺体のにおいを和らげたり、腐敗を遅らせたりしていたといいます。マリアの行為に「葬りの日のために取っておいたのだから」と主はいってくださいました。十字架で死ぬ自分のために油を塗った、というのです。人間の罪を贖うために、命をお捨てになるキリストの香りを彼女もまとっています。それは、ローマ書6章でパウロが書いたように、キリストと一緒に十字架において古い自分が死ぬ、ということを意味します。
 この香油にはもう一つの香りがあります。救いの香りです。かつて、油注ぎは王とか預言者に対して行われました。そして「油注がれた者」というのはヘブライ語でメシア、すなわち救い主という意味です。すなわち、マリアが油を注いだという行為は「あなたはわたしの王、救い主です」という信仰告白です。油をぬぐった彼女の髪には、その救いの香りがしみ込んでいます。彼女は油注がれた救い主とともに新しい人生を送るのです。
 このマリアの油注ぎを見ていたイスカリオテのユダが、「もったいない。その油を売れば300デナリオンにはなったはずだ。それで貧しい人に施したらよかったのに」、といいました。ヨハネ福音書はもっともらしいことを語る彼が、裏で金銭の不正を働いていた、といいます。正当に見える意見や考えのなかに、醜いエゴイズムは身を隠すのです。それが悪の力です。
そのようなエゴイズムから脱却し、正しく生きるにはどうすればいいのでしょうか。それはマリアのように正しい選択をすることです。キリストにすべてを注ぎ込むのです。そのときわたしたちはあらゆる罪やエゴイズムから解放され、主イエスによる新しい命に進むのです。
 マリアがキリストに注ぎ込んだ香りは、今のわたしたちにも、わたしたちの教会にも充満しています。この香りを絶やしてはいけない。一人ひとりが、キリストに対し、また隣人に対して、愛を注ぎ込むのです。自分自身をささげ、すべてをゆだねるのです。生涯、主イエスに対する油注ぎの人生を送りたいと思います。(2020年3月22日礼拝説教要旨)

離れる者と残る者  2020年3月15日


ヨハネによる福音書6章60~71節
 今日の少し手前のところですが、54節では主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」といわれました。するとその御言葉を聞いた弟子たちの一部が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といって、主イエスから離れていってしまいました。
 衝撃的な事件です。彼らがそうしたのは、キリストの肉が裂かれ血が流されるという出来事が自分とは関係ないと思ったからです。自己の罪とそこに注がれるキリストの尊い血潮が結びつかなければ信仰は成立しませんし、聖餐を受ける意味はありません。キリストの命そのもの、キリストの愛そのものを内に入れるからこそ、わたしたちは内側から清められ、感謝と恐れをもって主と共に生きるようになるのです。
 主の許を去って行った人たちは、キリスト教徒でありながら十字架の犠牲と悔い改めを重んじない人のことではないかと思います。20世紀後半からキリストの十字架の犠牲を強く叫ばない教会が増えてきました。真にキリストが目指していたのは社会変革であり、人びとがともに愛を分け合って生きる麗しい世界だ、という理解が進んでいます。イエスなる人物は神に最も近い人間、神の愛を体現する存在、目指すべき究極の人格と理解され、決して犠牲をもって罪びとを救う神の御子ではありません。だから彼らは敬称、尊敬語なしに「イエスは~した」という言い方を好みます。自分の罪を贖っていただいたという感覚がないからです。
 しかし「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と10章11節にあるように、一匹のか弱い羊のために命を捨てる羊飼いこそが、わたしたちの存在、働き、愛、人生の礎であるはずです。わたしは、十字架の犠牲と悔い改めが語られない教会や神学は、もはや聖書の根幹から離れたものではないかと思います。どの福音書を読んでもそのことは必ず書かれていますし、パウロもそうした神学を中心に聖書を書いています。
 ところで、わたしは67節の「そこで、イエスは十二人に『あなたがたも離れて行きたいか』」とお尋ねになる場面のところになると、いつも目が止まります。ここを読むたびに何とも言えない気持ちになります。主はどんなお気持ちでそうお尋ねになったのでしょうか。大変お寂しいお気持ちだったのではないでしょうか。ペトロはこう答えます。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。失敗話の多いペトロも、今日のところは大変立派な答えをしています。
 キリストから離れる人は多いのです。この世のほとんどの人がそうだといってもいいです。しかし残る人もいる。わたしたちのことです。わたしたちはペトロと同じように「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか」「ほかのどこにも行く場所はありません」そう答えたいのです。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」そう答えたいのです。
 キリストの血と肉、十字架、罪の贖い、悔い改め、そして復活の命。これらをしっかりと受け止めて、生涯キリストの許に留まり続けたいと思います。(2020年3月15日礼拝説教要旨)

神の業が現れるために  2020年3月8日


ヨハネによる福音書9章1~12節
 悪いことをすれば悪い結果が待っている。そういうのを因果応報といいます。因果応報の考え方は世界中にある程度共通する感覚だと思います。しかし世の中には、まったく悪いことをしたわけでもないのに、辛い目に遭わされる人がいます。それは一体どう理解すればいいのか。そこで一部の人は、きっと親やその先祖が悪いことをしたのだろうと考えます。そうやって理不尽な問題を片付けて安心しようと思うのです。
 足し感、そのような試みは一時の安心をもたらすかもしれませんが、未来に向けた希望を生み出すことはできません。過去の原因探しではなく、これからその人に何が起こるのか。そのほうがずっと大切なことなのです。主イエスは今日の聖書でそのことを教えてくださいます。
 今日の聖書には、生まれつき目の見えない人が登場します。家族からも棄てられ、物乞い生活を送る彼の存在はまったくネガティブな意味しか与えられていません。弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と主に問います。理不尽な状況に結論を出して安心したかったのだと思います。
 しかし主イエスは「この人が目が見えないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ、神の業がこの人に現れるためである。」といわれます。全く新しい教えです。新しい意味と可能性がそこに提示されています。この人が今、苦しい状態に置かれているのは、決してネガティブさを意味しない。「神の業」という最高にポジティブな意味がそこに与えられるというのです。そして実際に主はその御業を示されるのです。
 ここでの「神の業」とは二つの意味があります。一つは盲人の目が見えるようになる、という奇蹟行為そのもの、二つ目は、彼がこれを力強く証する人間に生まれ変わる、という点です。実はこの盲人の話は、癒しの部分よりも、その後の彼の証しについてのほうがはるかに分量が多いです。ファリサイ派を相手に「主イエスがどこから来られたのかあなたたちが知らないなんて、実に不思議だ」と語る彼の言葉は、まるで説教者のそれです。主イエスと出会うまで、彼の存在はいてもいなくても同じようなものでした。しかし彼は、いまや神の業を力強く証しする器としてこの世にとってなくてはならない存在となりました。目が見えるになる、というポジティブな変化は、いわば一つ目の神の業であり、真に彼にとって意味のある変化はむしろ第二の変化です。これこそが本当の意味での神の業が現れる、ということなのです。
 わたしたちは、第一の神の業ばかりを求めているように思います。すぐ目の前の状況を変えてくれ、と。でも本当に大切なことは第二の神の業です。たとえ目の前の状況が変わらなくても、内面が造り変えられ、神の業を証しする自分となることを、わたしたちは求めていかねばならないのではないでしょうか。
 どんな自分であっても、どんな生き方をしていようとも、喜びにあふれ、神を賛美し、礼拝し、証しする。いつもそんな人間でありたいと思います。その人の存在こそが、すでに神の御業です。(2020年3月8日礼拝説教要旨)

     

試練と誘惑を受けるとき  2020年3月1日


マタイによる福音書4章1~12節
 有名な荒れ野の誘惑の物語です。この話では悪魔が非常に擬人的で、また荒野、神殿の屋根、高い山など非現実的な場所が出てきますので、実際に起こったことではなくて主イエスの内面のことではないか、と考える人もいます。いずれにせよ、この話を通して主イエスが伝道者として働かれる道に進まれ、歴史の転換点となったことは間違いありません。
 まず出てきたのは空腹の試練です。主イエスは40日断食され、空腹を覚えておられました。そこで悪魔が来て「神の子ならこれらの石をパンに変えたらどうだ」と迫りました。石をパンに変える、ということならば、主イエスなら造作もありません。しかし主は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といわれました。本当に人を生かすのは、神の御言葉、霊だというのです。どれだけ願っても、わたしたちがどれだけ願っても、石ころはパンになりません。大きな試練に襲われたとき、世に救いの根源を見るのではなく、神の霊と御言葉を求めたいのです。
 次に、悪魔は「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、きっと天使が助けてくれる」といってそそのかしました。主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」といわれました。わたしたちは苦しくなると「もし神がおられるならこんなことになるはずがない」「もし神がわたしを愛しておられるなら・・・」と「もし」と付けて神の愛に条件や限定を与えようとします。そうではなく「もし」をつけずに「神がおられる」というところから置かれた状況を見てみる、ということが大事なのではないでしょうか。神がこの状況のわたしに一体何を求めようとしておられるのか、という問いを続ける中で、その人にしかわからない真実が見えてくるのです。
 最後に、悪魔は主を高い山に連れて行って世の繁栄ぶりを見せ、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」といいました。悪にひれ伏すというのはどういうことでしょうか。悪魔は、他者を押しのけてでも自分の利益になるほうを選ばせます。悪魔は、神に従うことの無意味さをささやき、この世のことに心を向かわせようとします。悪魔は、自分からの犠牲を払うことなしに、他者からの愛だけを受け取らせようとします。このような悪魔に心をゆだねることが、悪にひれ伏す、ということです。
 そこで主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」といわれました。富の持つ強大な力と引力に打ち勝って、神に従うことの尊さを説いてられます。神に従いたくば、富を捨てよ、というのではなく、この世のあらゆる引力を振りきって、神に従うことが本当に信仰者なのだ、といっておられるのです。
 これまで、空腹の試練、神を試す試練、富の誘惑について見てまいりました。主イエスはどの誘惑にも打ち勝たれ、神の御業へと進まれました。わたしたちも同じように試練や誘惑が襲いますけれども、ひたすら御言葉を求め、置かれた苦しみの中に神を見出し、世にあるものではなく神に向かって手を伸ばしていきたいと思います。わたしの転換点が訪れると信じて。(2020年3月1日礼拝説教要旨

5000人の食事  2020年2月23日


 ガリラヤ湖畔におられた主イエスのもとに、5000人もの群衆が押し寄せていました。これは男だけの数で、女性や子どもたちも入れれば1万人以上いたかもしれません。当時の大都市エルサレムの人口が三万人程度だった、との文献もありますので、ここに集まった人がどれだけ大勢であったかわかります。そこで主イエスは、弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と質問なさいました。フィリポの信仰を試されるためです。フィリポは「少しずつ食べたとしても、200デナリオンのパンでも足りないでしょう」と答えました。それだけの大量のパンをもってしても、ここにいる群衆の空腹を満たすことはできない、という答えでした。フィリポは、明らかに人間的な常識に捉われ、自分の目の前におられるお方が人々を飢え渇きから救いだすお方であることに気付いていません。
 そのときペトロの兄弟アンデレが「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます」といいました。もしかすると彼は「主ならなんとかなさるかも」という期待があったかもしれません。しかしその直後にこうつぶやきます。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。彼もまた、世の常識に捕われ、まことの信仰を持つに至りませんでした。
 主イエスは、残念に思われたでしょう。一番近くにいる者が、一番大切なことを分かっていないのです。主は人々を座らせた後、先ほどの少年が持っていたパンをとり、感謝の祈りをささげてから、人々に分け与えられました。魚も同じようにしました。そこに集まった5000人の人々は満腹してもなお、残ったパンの屑を集めると12籠になった、とあります。
 ところで、この話の中に「そこには草がたくさん生えていた」という一節があります。ある牧師がこんなことを教えてくれました。「この話ではみんなパンと魚のことばかり気にする。けれども大事なのは草の上にみんな座っている、ということじゃないかな」。実は目に見えないおしりの下で、我々は根っこでつながっている、とその牧師はいいます。今日も皆さんは椅子に座っておられますが、一人一人が独立した人間としてここに座っているのではなく、目に見えない深いところで、命がつながっている。キリストから、みんな同じ恵みをいただいて、共に生きていく。豊かにされていく。それが教会です。だからわたしたちは喜ぶ人がいれば共に喜ぶし、悲しむ人がいれば、ともに悲しむのです。
草の上にみんなが座った、という記事は、そうした生き生きとした共同体の姿、わたしたちの教会の在り様を示しているのではないでしょうか。神奈川教会は比較的都会の中にあります。であるからこそ、わたしたちの教会は緑の草場を感じさせるような教会でありたいのです。主イエスの命を感じる場所となりたいのです。天から豊かに神の命をいただき、目に見えない地面の下でも、また豊かにつながっている。そしてさらに、ここから命の根を神奈川の地域に少しでも広げていきたいのです。
 教会は本当に素晴らしいところです。主イエスは、この教会を神の命が溢れる天国にしてくださる方です。今日も、これからも、キリストのパンを豊かに受けながら、信仰の道を歩み続けたいと思います。(2020年2月23日礼拝説教要旨)

低みに降りたまう主  2020年2月16日


ヨハネによる福音書5章1~9節
 十数年前、エルサレム神殿の近くで5つの回廊を持つ、小さな池が発見されました。それが今日の聖書にあった「ベトザタの池」ではないか、といわれています。写真で見ると大変低い場所にあります。聖書によれば、主イエスは祭りのため、エルサレムに上っておいででした。主はそこで、ベトザタの池をご覧になりました。そこには38年間病気で苦しんでいる人がいました。彼の衰弱は深刻で、立つことも、動くこともできませんでした。主はこの男を一目見ただけで「もう長い間病気であることを知って」くださいました。主は、その人の心にある、今の痛みや苦しみだけでなく、そこに至るまでの長い道のりを知ってくださいます。
 主イエスは、この男に向かって「良くなりたいか」といわれました。主イエスは、わたしたちが経験する痛み以上に痛みを知っておられ、わたしたちが流す血よりも、もっと多くの血を流されるお方です。主はこの男の痛みを知らないで聞いているのではありません。十字架の主はすべてをご存じです。「良くなりたいか」とは、問いかけというより「そうだろう。わたしはあなたのその痛みを知っている」という連帯の御言葉だったのではないでしょうか。
 38年苦しんだ男は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えました。ここに集まっていた病者や障害者は、池の水が入れ替わるときに池に入ると、体が清くなると信じていました。皆、水が入れ替わると真っ先に池に向かっていきました。同じ苦しみを知っているはずの仲間たちでさえ、動けない彼を見捨てて自分を優先したのです。低みの極みの中にありながら、さらに苦しめられ、絶望に堕ちていく。彼はもはや、人間としての命を失っていました。
 主イエスは、この「低み」に降りてこられました。人のあらゆる営みが途絶え、命と交わりが遮断された絶望のなかに、神の光が射し込んだのです。そこに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という主の御声がこだましました。救いへと導く御声です。低みの極限で、ただ息をしているだけの、死を待つだけの男が、御言葉によってもう一度人間として命に引き上げられていくのです。起き上がるというのは、復活する、と同じ言葉です。まさにこの男は死んでいたのに生き返ったのです。それは、わたしたちがまさに生きる屍のようになって、絶望の淵に生きるとき、主によって命が復活させられることを意味しています。この男の内面に、わずかに残されていた命のかけらは、主の「生き返れ」というご命令に呼応しました。
 たしたちは、しばしばこの男のように、すべてを失い、どん底に突き落とされ、ただうめき声をあげるだけ、という経験をします。まったくの孤独です。そのようなときには、人の営み、人の関わりは意味を失っていき、仕舞いには祈りさえ消え入ります。しかし、そのときにこそ、主がここに降りてこられる、ということを信じたいのです。この世のすべての人が見捨てても、主は見捨てたまわないのです。すべてを失ったからこそ、主が恵みの命を与えてくださいます。低みに生きる者こそ、主は高く上げてくださるのです。いかなるときにも、この救い主にわたしたちの命を委ねたいと思います。(2020年2月16日礼拝説教要旨)

     

真理はあなたたちを自由にする  2020年2月9日


ヨハネによる福音書8章31~38節
 京都の同志社大学を創設した新島襄は、安中藩士の子として成長しましたが、日本の古い狭い空気から抜け出し、自由を求めてアメリカに渡った人物です。彼は禁止令を犯して乗り込んだ商船でキリスト教と出会い、渡米後クリスチャンとなりました。その後神学を含むあらゆる学問を学び、宣教師となって帰国しました。そして開国後の日本にはキリスト教精神を持った人材が必要である、として同志社英学校(現在の同志社大学)を設立するのです。その同志社大学のある建物に、今日の聖句「真理はあなたたちを自由にする」がギリシア語が刻まれています。新島襄の愛唱聖句であり、彼の人生をそのまま表しています。
 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という御言葉は、実はその前から読まなければ意味がありません。「わたしの言葉にとどまるならば」に続いて「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」となっています。つまり、御言葉にとどまることが真理と自由につながる、というのです。初期の教会は、御言葉から離れていく人が多かったとヨハネ福音書は報告しています。不信仰と迫害のためです。主は、教会に残り続ける人のために、励ましの御言葉を語られたのです。
 真理(アレテイア)をギリシア語の辞書で引くと、まことの、真実の、永続的な、そして信じるに値するもの、という意味が挙げられています。特に聖書におけるアレテイアは、「信じるに値するもの」ということが重要です。イエス・キリストによる救いは、目には見えませんが、信じるに値するものです。
 そして、このアレテイアに生きる者は、まことの自由を得るというのです。聖書の語る自由とは、どういうことでしょうか。それは、自分を束縛するあらゆるものからの自由です。とりわけ、聖書において大きな意味を持つのが、自己を中心とする傲慢な自分からの自由です。キリストを通して神に救われた、という永遠の真理に生きる者は、自己を中心とする生き方から自由になるのです。そのような人は、普通の人だったら選べないものを選べます。例えばアフガニスタンで亡くなった中村さんがそうです。あんな自由な人はいません。神に対して生きる、隣人に対して生きる。中村さんが実践しておられたその二つの生き方は、決して規則などではない。中村さんの、まったくの自由な選びなのです。
 さて、わたしたち自身はどうでしょうか。この世の束縛や不自由にのみ目を奪われ、不平不満ばかりを並べ立てていないでしょうか。もしそうなら、その人はあの強力な罪の束縛から、いまだ解放されていないのです。キリストは、そのような罪から救い出すために、その御体を十字架に縛り付けられました。このお方のお傍へ行かずして、我々はどこへ行くのか。このお方の御言葉にとどまらずして、我々はどこへ行くのか。どこへも行くところはないのです。この方にのみとどまること、この方の御言葉を聞き続けること、それが我々が唯一の真理、唯一の自由を得る方法なのです。息苦しい、生きにくい世の中だからこそ、神の給う自由と真理に生かされたいと思います。(2020年2月9日礼拝説教要旨)

     

新しい神殿  2020年2月2日


ヨハネによる福音書2章13~22節
 ヨハネ福音書によれば、今日の出来事があったときは過越祭が近くなっていた、とあります。だとすれば、そのとき大勢の人が神殿にやってきていたはずです。犠牲の動物をささげるためです。犠牲の動物については、旧約聖書に細かい規定があって、それに合ったものを連れて行くのが大変です。ですから、神殿の中で売られていました。もう一つ、巡礼者を悩ませていたのが神殿税の問題でした。律法の規定では、「シェケル」を神殿税として払うことが義務とされていました。ローマの支配下にあった人々が神殿税を納める場合、いちいちローマの貨幣からユダヤの貨幣へ両替する必要があります。それで両替商が神殿にいたわけです。これらの商売は一定のニーズがあり、ある意味では人々が助かっていた部分もあるのです。そんな彼らを、主イエスが神殿の境内から追い出された、というのはどういうことだったのでしょうか。
ここで考えたいのは、これらの商売による利益がどこにいっていたのか、ということです。例えばわたしたちが遊園地に行って、ご飯でも食べようとするとびっくりするくらい高いお金を取られます。しかし、その儲けはレストラン従業員ではなく、大元の遊園地にいきます。エルサレム神殿は当時もっとも人が集まる場所であり、そこで商売をするとしても、儲けるのはお店ではなく神殿や祭司たちでした。もはやこの時代の祭司たちは、神殿という名前の集金システムを作り上げていた、といっても過言ではありません。主イエスが商売人たちを追い出されたのは、単に商行為が神殿にふさわしくないというのではなく、人々から利益を吸い上げていた神殿や祭司そのもののあり方に怒りを覚えられたからだと思います。
 宮清めをなさる主イエスに対し、ユダヤ人たちは「これだけ大それたことをするのだから、あなたは神の子なのだろう。それを証明することができるのか」と批判しました。主イエスは彼らに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」といわれました。彼らは、建設に46年かかった神殿を三日で建て直すのか、といって鼻で笑いました。しかしそれは後で弟子たちが気付いたように、主の十字架と復活のことだったのです。主イエスが十字架の死とともに人の罪を消し去り、復活をもって永遠の命を約束してくださったことにおいて、わたしたちは古い自分を捨て、新しい信仰をもって生きなおすことができます。そのときには、神とのつながりを求めるために神殿で犠牲をささげる必要はなくなり、復活され、新しい神殿となられた主イエスだけが、天の御国とのつながりとなるのです。
 わたしたちは、この世のあらゆることを神殿に見立て、すがり、ときに拝みさえしながら生きています。でもそれでいいのでしょうか。わたしたちにとって本当に必要なのは、新しい神殿となって復活された主イエスです。主イエスによって古い自分や古い関係性が壊され、そこにまったく新しい自分や新しい世界が創造されます。主イエスによる新しい秩序、新しい生活です。わたしたちは主イエスにおいてのみ、神に対してまことの礼拝をささげることができるのです。これからもこの主イエスのもとに集い、まことの信仰者、まことの礼拝者として生きてまいりたいと思います。(2020年2月2日礼拝説教要旨)

     

水は良いぶどう酒に  2020年1月26日


ヨハネによる福音書2章1~11節
 イエス様と弟子たちはカナという場所で行われていた結婚式に招かれました。当時の結婚式は一週間も宴が続きますから、大量の食事とぶどう酒が振る舞われました。ところが、用意されていたぶどう酒がなくなってしまったのです。それではせっかくの宴席も興ざめです。
 すると主イエスが「かめに水をいっぱいに入れなさい」といわれました。召し使いたちはその通りにしました。大きな水がめで、一つが約100リットル入ります。それを六つですから相当な量です。次に主は「これを宴会の世話役のところへ持っていきなさい」といわれました。この世話役は自分が味見したぶどう酒がたいへん美味しかったので、花婿を呼んで「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」といいました。かめの中の水は、いつの間に良いぶどう酒に代わっていたのでした。
 なぜ主イエスはそんなことをなさったのでしょうか。もし弟子たちや群衆に奇蹟をお見せになるだけなら、600リットルもの水をくまなくても、最初から空のかめにぶどう酒を満たせばよかったはずです。しかし主イエスは、まず水を入れさせてから、ぶどう酒に変えられた。それは、水がぶどう酒に変わることに意味があるからです。
 いかに汲んできたばかりの冷たい水があっても、宴会では無意味・無価値なものといえるでしょう。ところがその無価値なものが、いつの間にか価値あるぶどう酒に変わっていたというのです。価値の低いものが、主イエスの御手により、価値ある良いものに創り変えられるという象徴的な意味があるのです。
 11節によれば「それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。逆に言えば、弟子たちはそれまで、それほど確固たる信仰を持っていなかった、ということになります。弟子たちはまだ召されてから二日、三日しかたっておらず、まだ主イエスのことを完全に信じてはいなかったのでしょう。けれども彼らはこの出来事を通して、信仰を持つ者になったのです。水のように透明な信仰しかなかったのに、薫り高い豊かな信仰を持つに至ったのです。
 わたしたちはこの世にあって、本来持っているはずの価値を、大きく減ぜられる時があります。しかしキリストとともに歩むわたしたちは虚しくなりません。キリストにあってわたしたちは無意味な人生を送らない。キリストの香りでいっぱいのこの教会で、神の祝福に杯を溢れさせながら、豊かな信仰生活を過ごす者とされるのです。
 4世紀の神学者ヒエロニムスに、こんな質問をする人がいました。「水がぶどう酒になったって、600リットルもあったのだろう。そんなに大量のぶどう酒を、婚礼の客たちは飲みきれたのかね」ヒエロニムスはこう答えました。「いや、飲み切れなかった。だからこそ、わたしたち皆が、今日もなおその大きなかめから飲んでいる」。
 わたしたちが月に一回受けている聖餐式も、キリストによる恵みを分かち合うときです。罪深きものから、神の愛に相応しいものへと創り変えられるときです。杯を受け、キリストの良き香りをいつまでも持ち続けたいと思うのです。(2020年1月26日礼拝説教要旨)

     

神の迫り  2020年1月19日


サムエル記上3章1~10節
 祭司であり、預言者でもあるサムエルは、イスラエル王国が成立する前の最後の指導者です。まだ少年の頃のサムエルは、親元を離れ神殿に住みこんで神に仕える身として修業を重ねていました。そこには神の箱が安置されていました。神の箱は、神の力と知恵を象徴化した神具で、戦争にいくときは必ず一緒に持っていきました。神の箱は神のご臨在を現しています。
 そういう状況の中で、サムエルは自分を呼ぶ声を耳にしました。サムエルは当初、祭司エリに呼ばれたのだと思って、彼のところへ行きました。しかしエリは私は呼んでいないといって、戻って寝るようにいいました。そういうことが三度あり、四回目にサムエルは「主よお話しください。僕は聞いております」と神様に向き合いました。10節によれば「主はそこに立たれ」とあります。神様がサムエルのごく近くまで接近しておられた、という意味です。
 ここで神様は何をサムエルにお語りになったかというと、エリの家に対する裁きでありました。エリの息子たちは祭司でありながら、神殿に捧げられた食料を自分達のものだといって奪い取ったり、神殿に仕える女性たちと床を共にしていたり、悪行三昧の日々を送っていました。エリはそんな息子たちをどうにかしたいと思いながらも、神殿の座から追放することはできませんでした。神様はこのような神殿の腐敗に怒りを憶えられ、裁きを行われるのです。
 神はサムエルに対してそのことをお告げになりました。エリの家が永遠に罪から贖われない(救われない)というとても厳しい裁きです。サムエルは、上司であるエリにそのことを告げなければなりませんでした。エリはそれを聞き、ただ一言「主が御目にかなうとおりに行われるように」とだけいいました。その後、実際に裁きがおこなわれます。神様は、王国という新しい時代に向けて、古い時代の罪を取り除かれたのでした。
そのことを告げるために、神様は4回もサムエルに話しかけられました。それはわたしたちに対しても同じことです。神様は御心をなすために、わたしたちに何度でも近づき語りかけてくださいます。それは愛の語り掛けのこともあれば、厳しい内容を伴うこともあります。どちらにしても、それはわたしたちにとって必要な「神の迫り」なのです。
先ほど神の箱の話をしました。サムエルは神の箱の近くで神の迫りを受けました。わたしたちにとって神の箱とは聖書、すなわち神の御言葉です。神の知恵と力を内在する聖書の御言葉を通し、神はわたしたちに迫っておられます。それまで気付かなかった、神のご臨在、神の語り掛け、神の御愛に、聖書を通して気づかされるのです。
 その神の箱が安置されていた神殿とは、わたしたちでいえば教会のことです。サムエルの母ハンナは、子どもがなかなかできなかったのでそこで懸命に祈りました。そして息子サムエルが神と出会ったのも神殿でした。わたしたちもまた、教会で祈りをささげ、御言葉を聞く中で神と向き合います。この礼拝の中で神様が語りかけておられる、迫って来ておられる、ということを感じたいと思うのです。そのときに、わたしたちは古い、悪しき自分が取り去られ、新しき自分が始まっていくのです。(2020年1月19日礼拝説教要旨)

     

世の罪を取り除く神の小羊  2020年1月12日


ヨハネによる福音書1章29~34節
聖書には羊や山羊など家畜の話が多いです。主イエスの時代、それらは神殿の儀式において大きな役割を果たしました。当時のユダヤ教律法では、一年に一度、犯した罪を神様に赦していただくため、必ずエルサレム神殿に行って犠牲の動物をささげなければならない、という決まりがありました。
なぜ犠牲の動物に羊や山羊が選ばれたのでしょうか。一つには、彼らがユダヤ人たちにとって価値あるものだったからです。彼らにとって羊や山羊は生活に欠かすことのできないものです。そこらで捕まえたネズミや蛇を犠牲としてささげても、自分自身の命の代償にはなりません。自分にとって価値のあるものをささげるからこそ、犠牲としての意味を持つのです。
 もう一つは、羊や山羊が主に従順であるということです。特に羊は比較的、屠殺されるときも大人しくしていることが多いです。そのほうが犠牲の動物として適しています。
ところで、羊や山羊を使った罪の赦しの儀式は毎年するわけですから、逆に言えばその効力は一年しかない、ということもできます。羊はこの世のものですから有限です。有限のものから永続的な意味を手に入れることなどできないのです。
 ですから、神様はどうしても次の段階に進まねばなりませんでした。そのために、神様にとってもっとも価値あるもの、そしてもっとも従順なものをこの世にお遣わしになりました。それが御子、イエス・キリストです。キリストはたった一人の神の御子であり、神様に対してどこまでも従順でした。当時の人々が間違った生き方をしていたことを教え、罪の赦し、救いの到来を告げ、十字架で死なれたのです。イザヤ書53章にあるように、主イエスはまるで屠られる小羊のように、最後まで神に従順であられました。
 そのことを洗礼者ヨハネは、29節においてこう表現しています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。世の罪、というのは、わたしの罪、あなたの罪を含む、すべての人の罪です。これを完全に取り除くことができるのは神の御子、イエス・キリストにしかできないことです。罪多きわたしたちはこのヨハネの声を、しっかりと聴かねばならないのです。
 ところで、わたしたちがよく使う漢字でも羊入りのものはどこか聖書に通じるところがあります。例えば養う。羊を食べることで養われるという意味です。犠牲の犠も手へんに羊に我ですから、我の代わりとして牛や羊を差し出す、ということです。そして聖書中、もっとも重要な漢字にも羊が使われています。義です。義とは神との正しい関係を意味しますが、我の上に羊を置くことにより、神の正しい関係が生じ、天国へと通ずる義なる道が開かれていくのです。
洗礼者ヨハネは「私はこの方を知らなかった」と二回繰り返しています。二回は強調ですから、かつてのわたしは主イエスを全く信じていなかったという意味です。一方29節では「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見た」とあり、不信仰な者へ主が来られたといいます。まさしくイエス・キリストは、わたしたちの罪を取り除き、永遠の命を与えるために来られたのです。その恵みを深く信じたいと思います。(2020年1月12日礼拝説教要旨)

     

救いは私たちの間に  2020年1月5日


ヨハネによる福音書1章14~18節
 クリスマス礼拝の時に読みましたヨハネ1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とありました。今日はその続きで「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。先在の御子が神から離れ、肉を取ってわたしたちの世界に来てくださった喜びを語ります。この福音はマタイやルカで書かれたものとはずいぶん違うものになっています。マタイややルカでは、まずマリアとヨセフが登場します。彼らは「個」としてキリストのご降誕を受け止めています。取るに足らないこのわたしに救いが来た、という喜びです。それがもう少し広がって羊飼いという集団、そして占星術師という集団になっていきます。聖書は、彼らが職業的な集団として天使から福音を受け取ったことの意味を語っています。
 ここに「個」から「集団」へ、という福音の広がりを見ることができます。さらには、羊飼いたちが天使から聞いた御言葉が決定的です。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。救いの喜びは、「彼ら」という特定の集団においてのみ留まるのではなく、「民全体」とへ広がっていきます。この世のすべての人が、神様の救いに招かれている、ということなのです。今も昔も、残念ながら、そのことに気づく人は多くありません。けれども、全ての人を救わんとなさる神の御心を、せめて私たちは知っておく必要があると思うのです。
 わたしたちは家族の一員であり、教会の一員であり、社会の、そして人類の一員です。わたし一人が救われればいい、わたし一人が喜んでいればいい、というのではなく、主の愛される一人一人が形作る群れ全体に、その喜びや感謝が満ちていくことを信じたいのです。一人の個だけでなく、隣人にもキリストの愛と救いが及んでいる、という認識に立ち、ゆえに神を愛し、隣人を愛す生き方を選択する、それが信仰というものではないでしょうか。
 核家族によって人の孤立化が進み、会社では非正規雇用が増え、学校でもいじめなど乾いた空気が流れています。関係の分断、愛の断絶です。国の為政者たちも、自分たちさえよければいいのだ、という考えが増えています。そのように、隣の人と悲しみや痛み、そして喜びを分かち合う、ということがへたくそになってしまった現代の我々だからこそ、神の御子がわたしたちの間に宿られた、という意味をしっかりと考えなければいけないと思うのです。
 教会の中にも見えざる断絶があります。例えば男女や年齢などです。わたしたちは教会内の愛を深めるために、一歩踏み出したいと思うのです。普段話さないような人に話しかけてみたり、家族のことを訪ねてみたり。そんな小さなことから、教会の中に主がいてくださる喜びが広がっていきます。月曜から土曜までの祈りも、重要な信徒の務めです。
 教会の外はどうでしょうか。ヨハネ福音書10章では主が「囲いの外にいる羊をも、わたしは導かねばならない」といっておられます。神の救済の選びは、わたしたちが想像する以上のものです。キリストはあの人の近くにもい給う、ということをいつも信じたいと思うのです。
 この世に連なる者、この教会に連なる者として、しっかりと受け止め、神の救いを証する器として、信仰生活を送りたいと思います。(2020年1月5日礼拝説教要旨)

     

闇に輝く光  2019年12月22日


ヨハネによる福音書1章1~14節
 今日読みましたヨハネによる福音書の冒頭の部分は、ロゴス賛歌ともいわれる特徴的な文章です。この部分で一番よく出てくる単語は「ことば」です。1節の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とありました。「言」とはイエス・キリストのことです。通常私たちが発する言葉は、一定の影響を周囲に与えたあと、いつか消えていきます。しかし神の言であるイエス・キリストは永遠の救い主ですから、「葉」を付けていないのです。
ここで、1章1~5節までの言葉の時制を考えてみたいと思います。まず初めに「初めに言があった」とあります。これは未完了の過去という時制です。未完了の過去というのは、現在にも影響を与える過去の出来事、という意味です。「言は神と共にあった。言が神であった」。ここもすべて未完了過去です。2節も、3節も、4節も、同じ未完了過去で書かれています。ところが5節になると「光は暗闇の中で輝いている」と現在形で書かれています。ギリシア語に進行形の概念はありませんが、意味としては進行形に近く、その意味では「永遠に輝き続ける」というくらいに訳せるものだと思います。イエス・キリストという神の光は、今に影響を与える過去的出来事ではなく、今に生きる我々一人一人を直接照らし、生かすものだというメッセージです。
わたしたちはそれぞれ、過去を振り返ると、いろんなことがあります。光が当たらず、暗きの中をさ迷い歩いたこともあります。しかし我々が「現在の生」を許され、こうして教会に通っていることも事実です。今日を生きるこのわたしに光が当てられる。そこがたとえ暗闇の中であったとしても、キリストが救いの光を当ててくださる。そのことをわたしたちは聖書から教えられるのです。
1942年の12月、ドイツとソ連が戦っていた時、スターリングラードという町で大規模な地上戦がありました。劣勢となったドイツ兵は圧倒的なソ連軍の前に絶望しました。そんな中、ドイツ軍医のクルト・ロイバー中尉は、敵から奪った大きな地図の裏に、木炭で聖母マリアとイエス様を描いて、塹壕に飾りました。暗闇の中、隠れるようにして座って、赤ちゃんを抱擁する母親の姿でした。周囲には、ヨハネ福音書からとった光、愛、命の文字を書きました。するとドイツ兵たちが自然と集まってきて、その絵のもとで祈るようになりました。真っ暗闇の塹壕の中、その絵と聖書の御言葉が、一つの光となって彼らの心に輝いていたのです。
ロイバーは戦争中に病死し、二度と祖国に戻ることはありませんでした。しかしこの絵は戦後、ドイツに戻され、今もベルリンの教会に飾られています。複製され、旧敵国のイギリスにもあります。人々の心に確かに灯されたキリストの光は、今なお輝き続けているのです。
わたしたちの経験は、常に過去のものになっていきます。しかし神がおくってくださった救い主の輝きは、決して過去のものになりません。どんなときもインマヌエルの主は、わたしたちとともにおられます。十字架と復活に現れたる主の救いは、永遠であるがゆえに、わたしたちは今救われているという光を持つのです。その輝きをしっかりと見つめながら、クリスマスを過ごしてまいりましょう。(2019年12月22日礼拝説教要旨)

     

荒れた地に響く声  2019年12月15日


ヨハネによる福音書1章19~28節
 かつて、父と一緒にイスラエルを旅したことがあります。エルサレムやカイサリアなど、聖書の世界に登場する町々もとても印象深かったですが、荒涼とした砂漠地帯も強く記憶に残っています。洗礼者ヨハネが活動したのは、そのような荒れ野でした。それは、人や社会との関係が遮断された厳しい環境の中でこそ、自分を守り導いてくださる神をより深く感じるからではないでしょうか。
この殺伐とした風景は、ときに人の内面にも広がります。魂が渇き、潤いがなくなり、ヒビが入り、生気がなくなっていく。わたしたちはしばしばそういう経験をします。実は、そういう経験の中で神に出会った人は大勢いるのです。洗礼者ヨハネのところに大勢人がやってきたのは、当時の荒れた人々の心も関係していると思うのです。ローマに暴力的に支配され、信仰面でも律法主義の台頭でどこか息苦しい。命の水が再び差し込むのをひたすら待つ、荒れ果てた心の中に、ヨハネの声は響き渡ったのです。
 ヨハネは自分について「荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」といいました。「主の道をまっすぐにせよ」というのは、キリストの福音を通す、という意味です。わたしの後に救い主が来られる、という喜びの知らせを、この荒れた世界に通すためにわたしはいる、とヨハネは言ったのです。
 先日アフガニスタンで何者かに襲われて亡くなった中村哲さんも、そういう人ではなかったかと思います。彼が命を注いだアフガニスタンも相対的には荒れ果てた土地でした。干ばつ、貧困、戦争などで土地は干上がり、農民は戦争に行って家族を養うしかありませんでした。人々は急速に難民化し、病が流行り、社会全体、国全体が荒れ野と化していました。そしてもちろん、土地だけではなく、人々の心も生気を失い、渇ききっていました。そんな場所に、彼は命の水を引いたのです。荒れ野にキリストの福音を通すのが洗礼者ヨハネの務めであったとすれば、中村さんは、荒れ野に命の水を通すことがその努めでした。
 中村哲さんは、バプテスト系のクリスチャンで「天、共にあり」という本の中で「キリスト教との出会いがなければ自分のこれまでの活動はなかった」と書いておられます。本の題名「天、共にあり」は、インマヌエルを意味しています。荒れ野に水を通すという困難な仕事を成し遂げることができたのは、中村さん自身が荒れ野で主なる神が共にいてくださる、というインマヌエルの福音を聞いたからではないでしょうか。そこで彼は、はっきりと蘇りの命、復活の主を感じたのではないでしょうか。
 豊かになったこの日本でも、内面が砂漠化する人がいます。そういう人にこそ復活の主イエスが来られ、あなたの渇いた魂に命の水が引かれる、というよき知らせを聞いてほしいのです。わたしたちは、茫漠たる荒れ野においてこそ、キリストという命の水を発見するのです。良い時も、悪い時も、まだまだわたしたちは、歩き続けなければなりません。そこで必ず響いてくる声がある、ということをいつも覚えていたいと思うのです。(2019年12月15日礼拝説教要旨)

     

預言に忖度はない  2019年12月8日


列王記上22章6~17節
 北イスラエルのアハブ王は一つの悩みを抱えていました。ラモト・ギレアドという土地をアラムに取られていたことです。彼は南ユダのヨシャファト王に合同で戦争することを願い出、承諾を取り付けました。ただし、ヨシャファトはそれが正しい戦いかどうか預言者に聞いてほしい、といいました。そこでアハブは約400名の預言者を召集し「ラモト・ギレアドの戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問いました。すると彼らは口々に「攻め上ってください、主は王の手にこれをお渡しになります」といい、戦いに勝利するといいました。
 しかしこの預言に疑問を持ったヨシャファトは「ほかに預言者はいないのですか」と聞きました。アハブは渋々「もう一人主の御旨を訪ねることのできる者がいます」といって、預言者ミカヤを呼びました。ミカヤは王に都合の悪い事でも忖度なく預言する人物でした。案の定、彼は「イスラエル人は皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのを見た」と戦いに負ける預言をしました。結局、アハブはミカヤの預言を無視してアハブは戦いに出かけます。そして戦いの途中、敵の射手が放ったたった一本の矢であっけなく死んでしまいました。
 この話は、なかなか興味深いものがあります。ここからわたしたちはいくらかの教えを受け取ることができます。一つは、世の中に真実なる者は少ないということです。ということです。預言者が400人いても、真実を語る者は一人もいませんでした。一方、ミカヤだけが真理に通じていました。この世の中に真実なるものはどれだけあるでしょうか。ほとんどないのではないでしょうか。わたしたちにとっては聖書、神の御言葉が唯一の真理です。そして幸いなことに、わたしたちは400も500も、もっとたくさんある宗教の中からキリスト教と出会い、信仰生活を送っています。それはあなた方が選んだのではなく、わたしが選んだ、と主が言われるように、神様の選びで実現したことです。
 第二に、いつもいつも、神の御言葉はわたしたちに心地よいことだけを語るわけではない、ということです。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」「神と富とに仕えることはできない」「人を裁くな」「あなたの内側は強欲と放銃で満ちている」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」など胸に突き刺さる御言葉がたくさんあります。それらは、やはり聞き入れなければいけない御言葉なのです。
 預言者の役割は王や国が間違った方向へ行こうとするのを引き戻すことにあります。親も学校の先生も、子どもたちが間違った方向へ行こうとするなら厳しく指導するはずです。それが命にかかわることなら、なおさらです。わたしたちも、神から見ればまだ分別のつかない子どもみたいなものです。放っておくとどっちにいくかわかりません。ですから、わたしたちが悪の方へ、滅びの方へといかないように、ときに厳しく、主は愛をもって御言葉を語ってくださるのです。これからも聖書に親しみ、命の御言葉としてこれを受け取っていく歩みを続けてまいりたいと思います。(2019年12月8日礼拝説教要旨)

     

伝えよ、良い知らせを  2019年12月1日


イザヤ書52章1~10節
 本日からアドベントに入りました。教会暦では一年の始まりです。アドベントは日本語で待降節、主イエスが人となってこの世に降ってこられるのを待つ時期です。教会はなぜ一年の始まりに、4週間も待つという態度を重んじてきたのか。それはまさしく、キリスト教の信仰的本質が、待つという姿勢にあるからにほかなりません。
旧約聖書も新約聖書も、常に救いを待つという歴史を歩んできました。今日の聖書が書かれた当時は、バビロニアに捕囚された人々が救いを待っていた時代です。2節、3節のところを読みたいと思います。「立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。主はこういわれる。『ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらず買い戻される』」。普通何かを売るとしたら、その対価が手元に入って当然です。しかし彼らは何も得られるものなしに売り飛ばされたというのです。
 その一方で「銀によらず買い戻される」とイザヤは預言します。自分で何かを払うことなしに、救いを得られるというのです。その代わりに、53章に書かれた「主の僕」が苦難と死を引き受けることになる、とイザヤは言います。
 旧約聖書の時代が過ぎ、新約聖書の時代になったとき、この僕はイエス・キリストのことであると理解されるようになりました。聖書はキリストの救済について二つの意味を記しています。一つはルカ福音書1章のマリアの賛歌にある「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」という部分です。この世の困窮に生きる者の救いです。キリストはあらゆる弱者に希望と救いを与えられました。それゆえ、キリストに従う我々が率先して隣人愛に立ち、弱い者、困る者に近づいていくことは、この世を良くしようとなさる、神の御心に適うことです。
 もう一つは罪の赦しと永遠の救いです。先ほど触れましたように、神の御子が十字架において世のすべての罪を取り除く苦難の僕になられたのです。十字架による処刑というむごたらしい出来事は、永遠の命を求めて罪からの解放を願う人にあっては福音となったのです。バビロン捕囚の人たちは約50年待ちました。しかし、罪からの解放、永遠の救いについては、もっと多くの人が、もっと長い時間待ち続けてきたものです。それが、ようやくキリストにおいて実現したのです。
 7節では「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と。シオンに向かって呼ばわる。」とあります。教会の最も大切な使命は、その喜びを人に伝えることです。神様は、伝道のために労苦するわたしたちの足を美しいとおっしゃってくださいます。世界の片隅の小さな教会の歩みですが、わたしたちの働きを神様は認め、祝福してくださっています。待つことの大切さを知るわたしたちが語る言葉は、心から救いを待ち望む人々に届くはずです。
戦いが終わり、平和がやってくる。あなたの苦しみと死は、救いへとつながる。その言葉を心待ちにしている人に、伝えていきたいと思います。(2019年12月1日礼拝説教要旨)

御翼の陰に  2019年11月24日


詩編17編1~12節
 詩編17編は「祈り、ダビデの詩」とありますように、ダビデの祈りを詩につづったものです。ダビデはサウル王によって激しい迫害を受けました。3〜4節の「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね火をもってわたしを試されますが 汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう」といった言葉にもあるように、ダビデはどこまでも正しい思いを持っておりました。だからこそ、彼は神に祈らざるを得ないのです。ダビデを苦しめたのはサウルだけではありません。絶え間なく続くペリシテ人や諸部族との争いもありました。14節の「主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち、命ある者の中から彼らの分を絶ってください」とあるのは、ペリシテ人のことを言っているのだと思われます。
 その一方で、8節の「瞳のようにわたしを守りあなたの翼の陰に隠してください」にもあるように、まるで、小さい子どものように保護を求めて祈っています。白鳥やハトの仲間、フクロウなどは、親が雛をはねの下に隠すことで知られています。飛ぶこともできず、餌を獲得することもできない雛たちは、命を狙う敵から逃れるためには、親鳥の翼の下に隠れるしかないのです。そこしか命をつなぐ場所はないのです。
 詩人は、今自分の置かれている状況が、まさにこの雛と同じだと感じています。弱くてはかない自分は、神さまの御翼の下でしか生きられない、と感じているのです。
 かつて、わたしが通っていた教会に、外国の女性が通っていました。何をやってもうまくいかず、人づきあいも苦手なようでした。しかし信仰はまっすぐで、いつもあなたのために祈っていますよ、と言って人を励ましておられました。まっすぐすぎて、人から誤解されることも多く多くありました。
 その女性は祈祷会に通っておられましたが、その方がいつも祈っていたのが「神様、あなたの御翼の陰に私を置いてください」という祈りでした。辛い経験をしてきた彼女が聖書から見出した一つの答えは、最後に自分を支えるのはこの世のものではなく、神様なのだ、ということでした。まるで生まれたての雛のように、何も頼る者がない彼女は、詩編におけるダビデの祈りを自分の祈りとしたのです。
 日本のような高度に発達した文明社会では、あらゆるものから人を守る仕組みが備わっています。義務教育、社会保障、医療制度、居住食に必要なインフラ、警察による治安、民主的な法体系。そうしたものが、わたしたちをあらゆる障壁から守ってくれています。しかし人生の中では、今申し上げたものが全く役に立たないということがあります。実は、それらの経験を通してわたしたちが気づかされるのは、この世ではなく神様が最後にわたしたちを守ってくださるという事実です。結局わたしたちは、社会がどんなに発達しても、どんなによい世界に生きていても生まれたての雛と同じなのです。ですから、わたしたちもダビデのように「あなたの御翼の陰に隠してください」と祈りたいのです。これからも、神様の大きな翼の中で平安なる信仰生活を送りたいと思います。(2019年11月24日礼拝説教要旨)

     

神のご計画と人の愛  2019年11月17日


出エジプト記2章1~10節
 その頃エジプトで増えすぎたイスラエル人の人口を減らすため、男の子が生まれたら殺し、女の子は生かす、という命令がファラオによって出されていました。そういうときにモーセは生まれました。モーセの母親は三ヶ月の間はなんとか隠せましたが、もう隠しきれないと思い、
赤ちゃんのモーセを手製の舟に浮かべてナイル川に流しました。
 ちょうどそのとき水浴びをしていたのが、王女でした。王女は葦の茂みにひっかかっていた、その赤ちゃんを見るなり、自分の父親が出した命令が原因でこうなっていることを悟って、「この子はきっと、ヘブライ人の子です」と呟きました。
そのとき、モーセの姉が機転を利かせて「この子に乳を飲ませる乳母を呼んできます」と偽って母親を連れてきました。王女は「わたしの代わりにその子に乳を飲ませてやりなさい。手当てはわたしが出しますから」といい、母の家に連れ帰ることを許しました。わたしは王女は、この女性こそ赤ちゃんの母であることを悟ったのではないか、と思っています。
 この物語を読んで強く思わされるのは、ひとつにはイスラエルを救済するための神様のご計画が、実際にその出来事が起こる数十年も前から進んでいたという事実、そしてこのご計画の遂行に、人の愛というものが存在した事実です。もしこの王女が父親と同じような性格の持ち主で、人の命をなんとも思わないような人物だったら、神様は別の方法を用いて出エジプトを完成させる必要があったでしょう。しかし神様は、人の愛というものをそのご計画の中に組み入れられ、モーセを命に導かれたのです。
当然のことながら、聖書の告げる福音が、安っぽい人間主義に傾き、神の愛よりも人の愛が強調されるようなことがあってはなりません。神は万物を支配し、完成へと導かれる方です。キリスト・イエスの十字架も、人の思い、感情、行動などに一切よらずに、ただ神の憐みと主の愛のゆえに、打ち立てられました。しかしその後、世界に建てられていった教会の働きを思うならば、神様はそのご計画を進められるにあたり、人というものを愛と福音を盛る器として用いてくださる、という歴史をも認識するのです。それは自由な選びです。欠けていても、穴が開いていても、その器はなんとか愛と福音を運ぶことはできることを信じたいと思うのです。
 今日の話は出エジプトの最初の話ということですから、ちょっとスケールが大きすぎるかもしれません。もし誰かが本当に困っていて、希望を失っていたならば、きっと神様がその人を助けたいと思っていらっしゃると思います。そこでわたしたちがその人のために真剣に祈り、愛情・時間・(ときに)財産をもってその人に接近できるならば、きっといつか、その人の「出エジプト」が起こると思うのです。神様がその人を捉えられ、希望を与えられ、キリストにおいて天国への希望を与えられる。これ全体が、その人の「出エジプト」なのです。その出来事の一部に、わたしたちを通じて神の愛が注がれるとしたら、それは本当に感謝すべきことです。わたしたちが本気で誰かについて祈り、また愛そうとするとき、その人の救済計画は、神によって進んでいるのです。(2019年11月17日礼拝説教要旨)

     

アブラハムの旅  2019年11月10日


創世記12章1~5節
聖書のお国からは遠いペルシャという場所に、アブラハムは住んでいました。そばに二つの大きな川が流れていて、そこでお魚を取ったり、ヤギや羊のお肉を食べたりしながら生活していました。あるとき、アブラハムのお父さんが、ペルシャを出発してカナンという場所にお引越ししよう、といいました。カナンという場所も、別の大きな川が流れ、緑がいっぱいあって、ヤギや羊を育てるにはとてもいい場所だからです。アブラハムはお父さん、奥さんのサラ、親せきとヒツジやヤギと一緒にペルシャを出発しました。
 ずいぶん長い時間がかかって、ちょうど真ん中あたりに来ました。するとそこで、アブラハムのお父さんが死んでしまいました。アブラハムはとても悲しみました。このままここに留まったままでいいのか、それともカナンに向かって進んだほうがいいのか、どうしたらいいのか、と悩みました。
 そのとき神様から声が聞こえてきました。「あなたは父の家を離れて わたしが示す地(カナンのこと)に行きなさい。カナンに着いたら、あなたと家族はわたしがずっと守ってあげるよ」。父の家を離れるということは、お父さんに頼っていた今までの生き方を変えなさい、という意味でもあります。アブラハムはそのとき思いました。これからはお父さんじゃなくて、神様を頼りにして生きよう。そして神様がきっとこの旅を守ってくれるから、勇気をもってカナンを目指して旅立とう。
 なんとそのときのアブラハムの年齢は75歳。もうおじいちゃんですけれども、勇気を出して、神様を信じて、アブラハムは旅を続けることにしたのです。
 それからまたずいぶん時間はかかりましたけれども、アブラハムとその家族、そしてヒツジやヤギなどの家畜はちゃんと神様に約束された土地、カナンにつくことができました。そこで大きな土地を神様からもらって、さらに家族が増え、家が大きくなり、畑も広い場所を与えられ、そしてヒツジやヤギなども数えきれないくらいに増えました。神様のお約束通り、カナンという場所で、アブラハムと家族は、大きく豊かになり、やがては一つの国をつくっていくくらいに成長することができたのです。
 アブラハムはときどき、羊の世話をしながら天国の方を見てこう思うのです。本当に神様の言われることを聞いてよかった。お父さんが死んだときは悲しかったけれども、その場所に留まるのではなくて、神様のことを信じてカナンに来たので家も財産も立派になった。神様ありがとう。
 わたしたちにとってのカナンというのはどこでしょうか。神様から約束された場所、それはわたしたちが長い時間旅をして、最後にたどり着く場所、天国のことです。そして、わたしたちは誰もが、まだ道の途中です。悲しいことがあっても、そこに立ち止まるのではなく、この旅には、神様が一緒にいてくださる、という信仰と希望をもって、約束の場所へと歩んでいきたいと思います。(2019年11月10日子ども祝福礼拝説教要旨)

     

救いの希望に生きる  2019年11月3日


ローマの信徒への手紙5章1~11節
 末期の大腸がんを患ったある俳優さんの記者会見を見ました。その俳優さんは「僕は宗教は信じていませんが、神を信じています」といわれました。驚きました。また、「それはこの宇宙を作られた神であり、その神様に自分は生かされている」ともいわれました。これは極めて聖書に近い神理解だと感じました。人は誰でも、この俳優さんのように、たとえ漠然とではあっても、超越者なる存在を信ずる心をあらかじめ与えられているのではないか、と思うのです。多くの人は、その心をいつの間にか忘れてしまって、世の中の出来事だけで生きる、死ぬということを考えているのです。それはまことに不幸なことです。
クリスチャンの場合、幸にして、はっきりと聖書に書かれた超越者(神)を見ており、自分がどこにいるのか、自分がどこへ行くのか、その見通しをしっかり立てることができます。漠然としたもやもやしたものでなくて、ちゃんとした信仰によって神様を信じ、キリストを救い主として信じるのです。
 今日の手紙を書いた使徒パウロは、キリスト教を伝える中で厳しい迫害を受けました。しかしパウロは「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」といいます。ある時点までは、パウロも律法というもやもやした濃霧の中で神様を見ていたのです。しかしキリストと出会い、すっかり目の前の霧が晴れ、救いの神をはっきりと見ました。そのとき、自分という存在も、自分の進むべき道もクリアーに見通せるようになりました。だからこそ困難の中にも希望を見出すことができたのです。
パウロの苦しみはそれだけではありません。第二コリント12章には、わたしにはとげが与えられている、と書かれています。「とげ」とは、何らかの持病だったと考えられ、しかもパウロは三度もそのことを神様に祈願したけれども、ついに取り除かれなかったと書いています。それなのになぜ「苦難は希望につながる」と言い切ることができたのでしょうか。
 6節、9節、10節によれば、十字架において流されたキリストの血によって、わたしたちは罪が赦され、救われたのだ、とパウロは書いています。すでにパウロの目線は迫害や病気など地上の困難を通り越し、救いの御国に向かっています。苦難、忍耐、練達、希望というのは、ただ苦しくても我慢しろ、その先には希望がある、という安っぽい根性論ではありません。キリストにおいて打ち立てられた天へと通ずる道を今自分は歩んでいる、という確固たる救いへの希望からもたらされた言葉なのです。
 今日は永眠者記念礼拝です。わたしたちの先輩、家族は、どの人もキリストの十字架の血によって贖われ、苦難から練達、希望という信仰を、しっかりとこの地において証しされた方です。キリストが十字架と復活によって打ち開いてくださった天への道を、さらに押し広げ、踏み固めてくださった方です。わたしたちはその後に続く者として、先輩方が何を信じ、何を求め、どこへ行こうとされたのか、それをわたしたち自身の目で、探し続けたいと思います。
(2019年11月3日永眠者記念礼拝説教要旨)

     

人が造られたのは  2019年10月27日


創世記1章24~28節、2章15節
 創世記を読んでいて、まったく変な疑問が頭をよぎりました。もしも神様が人というものを造られなかったらどうなっていたか。せっかく神様が1日ずつ「よかった」といってくださったのに、人間は自分勝手なことをして、地球を壊し、動物を殺し、戦争をして命や環境を破壊しつくしています。国連の調査機関によれば、人類のせいですでに100万種以上の動物が絶命したそうです。同じ人間同士も戦争や虐待、犯罪で、日々、数えきれない命が奪われています。
 そんな人間などいないほうが・・・と思っても不思議ではないはずです。もし宇宙に人間がいなくても、誰も困りません。むしろそのほうが地球は汚されず、乱獲もなく、戦争もおこらず、よりよい世界であったようにも思えます。しかし神様は人間をお造りになった。それはなぜか。聖書からその根本的なところを考えなければいけないとも思うのです。
 1章26節にはこうありました。「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。ここで重要なのは二つあります。一点目は神に似せて人が造られている、ということです。似せて、というのは姿かたちのことではなく、神に似た高い知性を持っている、という意味です。二点目は、この「知」をどのように用いるのか、ということです。26節には「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」ともありました。ここでいう支配とは、好き勝手何をしてもいい、ということではありません。それらの動物が地上で存続していけるように、神に代わって世話をしたり、管理したりするという意味ではないでしょうか。29節、30節には、動物の維持ために植物を与えよう、と書かれています。まさに生態系です。26節、28節の「支配」という言葉、そして29節、30節の調和のとれた生態系、これらを併せ考えると、あきらかに神はこの世を良い状態に保つよう人間に期待しておられる、といえるのではないでしょうか。
 2章15節には「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。ここでいう「園」の範囲は、いったいどこまででしょうか。家族のためか、村のためか、それとももっと広い範囲のことでしょうか。創世記は世界や人類のことについて書かれたスケールの大きな書ですから、やはり農地を守れというご命令は、局地的な家族や村のため、ということではないと思います。70億人の食料や命、平和を維持するために、地球全体、人類全体でこの大地を守れ、と神様はいわれるのです。
 その一方で、創世記は「小さなわたし」にも関係する書です。なぜわたしが、家庭や教会や社会の中に創造されたのか。わたしたちは「たまたまそこにいる」という偶然の結果ではなく、何かのために造られ、その場所に置かれていると信じるべきです。それは、誰かを支配するためではなく、仕えるためです。壊すためではなく、守るためです。悲しみあるところに、憐みが溢れるためです。わたしたちは、神様の子ども、キリストの使者となって、それぞれが置かれている小さな場所で、ここにわたしが創造された、という恵みを証ししたいと思うのです。
(2019年10月27日礼拝説教要旨)


     

定められたレースを  2019年10月20日


ヘブライ人への手紙11章32節~12章2節
 今日はヘブライ人への手紙を読みました。この手紙では、多くのページを割いて信仰に生きた旧約聖書の人々について書かれています。また、キリストが大祭司として来られ、穢れのない清い犠牲の捧げものとなって、わたしたちの罪を贖ってくださったともあります。旧約時代、信仰に生きた人々に約束されていた救いが、キリストの犠牲において完成した、という主張がこの手紙にあります。
 このような旧約聖書、新約聖書を通して示されている神様の救いの約束をどう受け止めるのか。そのことについて、ヘブライ書の著者は繰り返して、これを信じる者と信じない者、という二者に分けて考えます。信じる者は救われ、信じない者は裁かれます。ところが、実際の歴史の中では信じていても苦しむ人々が出てきます。例えばバビロン捕囚の人々などです。この手紙の著者は正しい人であっても「約束されたものを手に入れることはできず、完全な状態にも達しなかった」(39節より)という表現をしています。極めて現実的な歴史認識です。
 これはわたしたちの実生活に引き寄せて考えてみてもその通りだと思います。誰が見てもとてもいい人、非の打ち所がない様な素晴らしい人が、大きな苦しみに見舞われたりします。しかしそのような感覚は「誰か」と「誰か」と比較することによって生まれるものです。
 著者は、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」といい、周囲と自分とを見比べるような考え方を一旦横において、おのおのの走るべき道のりを走ろうではないか、と促しています。12章1節の「競争」とは、誰かと誰かを比べて戦って勝つ、という意味ですがここでは転義され、その人自身の苦悶、苦闘という意味になります。マラソンランナーが、競技中は周囲ではなくむしろ自分と闘いながら走るのと似ています。誰かと比べるのではなく、一人一人に与えられた道を走りなさい、というのです。
マラソンには必ずゴールがあります。私たちの人生において目指すべきゴールとはどこでしょうか。2節には「信仰者の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」とあります。わたしたちのゴールは、御自分の喜びを捨てて、十字架において死んでくださった主イエスと、主がおられる天国です。
どのような人生であれ、目指すべきゴールを知っているか、ぼんやりと毎日を過ごすのかでは、まったく意味が違ってきます。どんなルートを通ったとしてもかならずや最後は天国に辿り着ける。その最後を予め約束として知っているからこそ、どんなときにも忍耐をもってこのレースを走り抜くことができるのです。
わたしたちはもうずいぶん長い間、このレースを走ってきました。でもまだまだこれからです。ともに天の御国を目指して、定められた道を最後まで走り通したいと思います。
(2019年10月20日礼拝説教要旨)

     

自分の中のフィルター  2019年10月13日


ヤコブの手紙2章1~9節
 ヤコブの手紙は、当時のエルサレム教会の幹部であったヤコブから地方の教会にあてて書かれた手紙と言われます。当時のエルサレム教会は、律法を重んじる気持ちが非常に強かったといわれます。律法主義への回帰です。ですから、今日読んだところにも律法についての言葉が並んでいますが、実はこの手紙は当時の地方教会における、「信仰さえあればそれでよいのだ」という行き過ぎた信仰主義により、具体的な神への応答と隣人愛がおろそかになりがちだったと著者は指摘します。
 著者は、教会に入ってきたお金持ちにはうやうやしくおもてなしをし、貧乏人には「そこに立っていなさい」と冷淡な対応をする人がいた、といいます。この世の恥ずべき態度が、教会の中に持ち込まれていたのです。著者は「もしあなたがたが、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます」といいます。「隣人を自分のように愛すこと」、この律法でもっとも大事なところが守られていない、という厳しい指摘です。
 わたしたちがもし「あなたは貧乏人を差別する人ですか?」と聞かれたら「いいえ、違います」と答えるのではないでしょうか。でも本当にそうでしょうか。ある教会の役員が私と一緒に車で移動中、被差別部落の地域に差し掛かった時こういわれました。「ここらに住んでいる人たちは何をするかわからん」。悪気はないのです。本当にそう思っておられるのです。だからこそ余計に根が深いのです。尊敬していた人だけにショックを受けましたが、同時に、どんな人間でも心の中にフィルターを持っていて、そのフィルター越しにしか世の中を見られない、という事を知ったのです。
 聖書の世界では貧しさ、病、障害、仕事、人種などで人が差別されることが当たり前でした。みながそうしたフィルターで人を見ており、それが間違っていることに誰も気が付きませんでした。おそらくわたしたちも(もちろん、わたし自身も)また、何かのフィルターを通してしか世の中を見られないのです。主イエスは山上の説教や癒し、食事などを通してその過ちを教えてくださいましたが、この手紙の著者も「律法」という観点からそのことを伝えようとしています。
仮に、わたし自身を「もう一人のわたし」がジロジロ見たとき、そこには世界で一番見たくないものがあるに違いありません。わたし自身が神の御前で穢れていたのに、キリストが十字架においてすべての罪を洗い流し、救いに入れてくださいました。その驚きが、その気づきが、心の中のフィルターを取り除いていくのではないでしょうか。そこからわたしたちは、キリストがそうであったように、隣人に大胆に近づき、愛することができるのではないでしょうか。自分の中にあるフィルターではなく、キリストの愛を通して世の中を見ていたいと思います。(2019年10月13日礼拝説教要旨)

信仰こそ人生の宝  2019年10月6日


テモテへの手紙一 6章2節~12節
 使徒パウロの弟子にテモテという人物がいました。パウロは彼のことを非常に信頼し、旅の同伴をさせたり、あちこちの教会へ派遣したりしています。その一つがエフェソでした。当時のエフェソ教会では「異なる教え」を説く「偽教師」たちがいました。今でいうカルト宗教みたいなものです。4節によれば、偽教師たちは、高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっていた、とあります。パウロはその危険を説くためにこの部分を書きました。聖書や教義が確立されていなかった当時は、キリスト教とそうでないものとの境目があいまいでした。それゆえ、キリスト教は正典や教義を定めました。わたしたちの教会は2000年間変わらない聖書と、1700年間かわらない教義(使徒信条)のみを教科書としているのです。
 パウロは教会の人々にどのような生き方をすればいいのか、それを書いています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」。これらのこととは偽教師たちの教えです。それを避けなさい、といいます。わたしたちにとっての偽教師とはなんでしょうか。現代でもキリスト教そっくりな怪しいカルト宗教がありますが、意味を少し変えてみて、偽教師は自分の内側にいる、とは考えられないでしょうか。神以外のものを神のように扱い、自分のことを導いてくれると勘違いするわたしたち自身の弱さのことだろうと思うのです。この世に生きている限り、あらゆる試みがあります。神なしで生きようとする。神以外の者に救いを見出そうとする。そういう試みからわたしたちはまず離れなければいけないのです。
 真のキリスト者として生きるために、パウロは11節で「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」といいます。正義というのは、神の正しい裁き、いわば救いです。そして、神様を信じる心、同じく信仰、そして愛、忍耐、柔和、そういったことを求めなさい、とパウロは言います。もしかすると、神様を第一にして生きている人は、最初からこういう生き方ができるのかもしれません。しかし教会は優等生のクリスチャンばかりが集まる場所ではありません。正義や信仰、愛、忍耐、柔和を持ち合わせないまま教会に通っている人もいっぱいいるのです。そもそもわたしたちがそれを持っていたら、こんなこと書く必要はありません。持っていないから、それらを追い求めよ、とパウロは言っているのです。
 正しい信仰者とは、11節のような生き方が最初からできる人ではなく、世のあらゆる誘惑や困難に抗い続け、一歩また一歩と神に向かって進んでいく人のことではないでしょうか。自らの弱さと向き合い、それをすべて神様にお委ねして生き直す人のことではないでしょうか。わたしたちの信仰は、それ一つを持っているだけで、右に左にぶつかりながらも、最終地点はここだ、ということを教えてくれます。信仰は、どんなに苦しい戦いでも、神様がともにいてくださるという喜びを与えます。何も持たずに生まれてきたわたしたちが、唯一天国へ持っていけるのが信仰です。信仰は最後の、そして最大の宝なのです。これを携え、終わりの日まで歩んでまいりたいと思います。(2019年10月6日礼拝説教要旨)

     

生き返った息子の話  2019年9月29日


ルカによる福音書15章11~24節
 ある農園主の家に息子が二人いました。兄はまじめに働いていましたが、弟は父に財産をせびったうえでその家から出て行ってしまいました。やがて弟は放蕩生活によって無一文になってしまいます。そのとき彼は父の家に戻り、悔い改めて息子ではなく雇人として生きることを決意します。いざ家に帰ってみると父は息子の帰還を大変喜び、最も上等な服と装飾品、そして美味しいご馳走を用意させ、息子が戻ってきたことを喜ぶための祝宴を開きました。
 この話でのポイントは三つあると思います。一つ目は、弟がさしたる理由もなく家を出た、ということです。それは彼が父からどれだけ大きな愛を受けていたかということにひどく鈍感になっていたことを意味します。弟が放蕩をしてしまったのは、放蕩をしたかったからではなく、父の家の素晴らしさに気づいていなかったからであり、彼の惰性的で無感覚な生き方の結果だったといえます。わたしたちがときおり神の御前からいなくなり、あたかも神なしで生きていけると勘違いしてしまうのは、神様の愛にすっかり無感覚になっていることに原因がある、といえます。
 二つ目のポイントは、弟が父の家を思い出したのは人生において魂が最も枯渇した状況においてだった、ということです。このことは次の事実を我々に教えます。すなわち、我々が神から離れ、困難のなかで魂の炎が消えかかっているときこそ、実は真理に向かって目が開かれている、ということです。順調なときはあらゆるもの鮮やかに見え、この世も人も、輝きを放っているように見えます。そういうときは世の中がまぶしすぎ、神の輝きを見つけられなかったりします。しかしひとたび大きな困難が訪れると、その人の見ているものはグレーになり、この世も人も色あせ、輝きを失っていきます。不思議とそういうときこそ真理の光が見えてくるのです。豚の世話をしているとき、弟の魂は死んでいました。しかしそんなときに父の家の輝きを思い出しました。わたしたちもまた、困難が訪れる時こそ、神の国の栄光を、あるいは教会での満たされていた日々を思い出す機会を得るのではないでしょうか。
 三つ目のポイントは、無条件の父の愛、父の赦しです。20節では、まだ遠く離れていたのに、父親のほうが先に息子を発見します。そのあとで悔い改めの言葉が発せられます。つまり、息子が悔い改めの言葉を発する前から、常に父が息子を探し、迎え入れているということです。完全に一方的な赦し、一方的な愛です。ルカによる福音書は、悔い改め、ということを強調します。悔い改めは、生きる方向が間違ってしまったことに気が付き、神の方へ向き直すことをいいます。しかしそのような生き方は、神がわたしたちを赦し、天国へ迎え入れてくださるための条件ではありません。神はわたしたちが悔い改める前から、すでにわたしたちを受け入れてくださり、救いの道を備えていてくださるのです。だからこそ、悔い改めるのです。
 キリストによる復活の命は、わたしたちが死んだあとにようやく与えられるものではありません。生きているときにわたしたちは復活するのです。永遠の命に通ずる光は、いかなるときにも、わたしたち中に差し込まれているのです。(2019年9月29日礼拝説教要旨)

キリストの焼き印  2019年9月22日


ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節
 今日の聖書に出てくる焼き印というのは、本来奴隷につけるしるしのことです。パウロはこれを良い意味でとらえ、キリストの焼き印を受ける者は永遠にキリストの所有であるといいました。
 当時の教会では、割礼を重んじるグループがいてパウロはそういう人たちに次のように語ります。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。それまでは割礼という一生消えないしるしが神と自分との永続的な関係を表すものでした。異邦世界に暮らすユダヤ人にとって、それはある意味で誇るべきものです。しかしパウロは、誇るべきは割礼ではなく、十字架に磔にされわたしのために命を捨てて下さったイエス・キリストである、といいました。それゆえ、わたしたちは罪から贖い取られ、キリストの所有とされたのです。その恵みを信じるとき、その者は外側のあらゆる部分から切り離され、内的に新たな者へと更新するのです。
 目には見えない焼き印を受けるということは、キリストの所有であると同時にキリストの僕となって働くということでもあります。それはこの世の所有物としてしがらみを受ける、すべての者に対する自由へのいざないです。
僕だとか、所有だとか、そういう言葉には少し抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。わたしは誰かの所有物ではないし、自由に生きていたい、そう思う人もいるでしょう。しかしどこにも属していない、どこからも助けがない、というのはとても心細いものではないでしょうか。ある宇宙飛行士がこんなことをいっていました。宇宙に滞在しているときほど、自分が地球人であることを感じたことはなかった。一人で船外活動をしていると、自分が地球から離れていることにどうしようもない不安やさみしさを感じた、といっています。わたしたちは大地に足を付けて暮らし、それぞれ国籍を持ち、何らかの組織に属しています。自分がどこにいて何に属しているか、ということはよくわかっているつもりです。それでもなお、長い人生においては、茫漠たる世の中で孤独を感じ、このまま消えてしまうのではないかと不安を覚えることもあります。そんなときは、この世におけるあらゆる組織、国家、権力も不安や孤独を拭い去るだけの力を持ちません。
 パウロもその苦しみを経験した一人でした。彼はそれまで所属していたユダヤ社会がまったく信じられなくなり、自分の存在がわからなくなりました。しかし彼はキリストと出会い、すっかり造り変えられました。彼はその時、キリストの焼き印を受けたのです。自分が誰なのか、誰のものなのか、どこから来てどこへ行くのか、はっきりと理解することができたのです。
キリストの焼き印は永遠です。これを受けているわたしたちは、この世の勢力、国家、団体、経済、いろんなものを誇ることをやめ、キリストの所有であることのみを誇るのです。永遠にこの身に刻まれた、キリストの焼き印だけを誇るのです。それを最上、最高の喜びとして、生きていきたいと思います。(2019年9月22日礼拝説教要旨)

愛は一方通行  2019年9月15日


ルカによる福音書14章7~14節
 主イエスは、ある場所で食事に招かれました。そこで上席に座ろうとする人を見てこう言われました。「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれていて、後で恥をかくからだ」「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とも。この御言葉は、単なる処世訓ではなく、天国の話です。天国で自分の名誉を求めることほど虚しいことはない、というのです。一方、この話では上席に座りたがる傲慢な人も、神の国の宴席に招かれています。傲慢な人間さえもキリストにおいて救われる、という驚くべき真理を自分の問題として受け取るとき、真に謙虚な生き方ができる、ということではないでしょうか。
 それから、今日の御言葉にはもう一つのことが書いてありました。それは食事に誰かを招くとしたら、友人や兄弟や親類、お金持ちを招いてはならない、というものでした。なぜなら、彼らはお返しをするだけの財力があり、それを知らず知らずのうちに期待してしまうからです。わたしは兄弟の誕生日にメールを送ります。返事は来たり来なかったりです。そして自分の誕生日の時、誰からもメールが来ないときがあります。これはさすがに悲しいです。でも、結局「僕がメールを送ってやったのに、なんだよ」と相手への印象が悪くなったり、関係がぎくしゃくするくらいなら最初からメールなど送らなければいいのです。愛すなら一方通行。最初から戻ってこないつもりで愛を送れば、関係が壊れることはありません。
 主イエスも今日の話でそのような一方通行の愛を教えてくださっています。最初からお返しをすることのできない貧者、病者などを招け、というのです。それが完全な隣人愛だと。他にも善きサマリア人の話とか、放蕩息子の話とか、聖書にはそのような話が多く残されています。この帰ってこない愛、一方通行の愛について、聖書的に根拠を求めるとすれば、それは主の十字架ということに尽きると思います。罪深き、救いがたき我々を神はお裁きになるどころか、むしろ十字架の犠牲によって救い出してくださいました。主イエスは、愛した弟子たちに裏切られましたし、キリストは、救うべき人々によって殺された、ともいえます。だからこそ、帰ってこない主の愛が尊いのです。
 では、わたしたちは愛を受け取ったまま、そのまま何もなかったように暮らしていいのでしょうか。人間の親子の関係があそうであるように、もしわたしたちが、天の父はわたしのことをこんなにも愛してくれたのか、ということに気が付いたなら、その人はきっとそのような生き方を選ぶでしょう。パウロはコリント第二11章7節でこういっています。わたしは「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせ」た。それは一方通行の神の愛に気付いた使徒パウロの姿です。
 面倒でイライラする愛のやり取りから解放されるために、わたしたちは次の事実に立ち返るべきです。「何も返せないのに、キリストに愛されている」。その事実に気が付いたとき、真の自由と、誠の隣人愛とに生きる者となるのです。尽きぬ愛の源泉である主イエスに感謝しながら、今週を歩んでまいりましょう。(2019年9月15日礼拝説教要旨)

主のための選択  2019年9月8日


ローマの信徒への手紙14章1~9節
 パウロの時代、教会内部である問題が生じていました。律法で禁止された食材を食べるのか食べないのか、という問題です。伝統を重んじるタイプのクリスチャンは、律法に違反しないよう、念のため野菜しか食べなかったとあります。一方新しい価値観に生きる人たちは、キリストの十字架において救われているのだから、何を食べてもいいはずだ、として、禁止されていたり、屠殺方法がよくわからない食材を堂々と食べていました。伝統的な人たちからすると新しい人たちの食生活はとても受け入れがたいものであり、反対に、新しい人たちは、伝統的な人たちをキリストの福音が理解できない弱い信仰者だ、と思っていたのです。
 こうして両者は、同じ教会の仲間でありながら、お互いを裁き、その信仰を否定していました。それは神様の求めておられる教会の姿からは程遠いものです。パウロはそのことを憂い、今日の手紙を書きました。
 ちなみに、パウロはどちらかというと新しい方の人間であり、古い価値観の人々がこだわる割礼に関して、そんなもの意味がない、と大きな会議で声高に主張したほどです。そんなパウロですが、ここでは古い価値観の人間を責めるようなことはしていません。むしろ新しい人が、古い人に配慮しなければならない、と諭していますし、古い人は、新しい人をむやみに批判してもいけない、といいます。お互いがお互いに配慮し、受け入れる努力をせよ、といっているのです。
 キリスト教は大きな争いをいくつも経験しました。身内同士の戦争も数多くありました。たとえば、宗教改革のとき、同じプロテスタント側で争いが勃発し、多くの血が流されました。あるいはアメリカ南北戦争もそうです。両軍ともまじめなクリスチャンたちが戦いました。もしも彼らが、「裁かず、互いに配慮せよ」というパウロの言葉を真剣に聞いていれば、結果は違ったかもしれません。3節によれば、お互いを裁いてはならないのは、神様がその人を受けいれて下さったのだから、そうあります。わたしたちが忘れてはならないのが「この人のためにもキリストは死んでくださったのだ」ということです。十字架は、すべての人を神の愛と救いに招くものです。その恵みは自分にも隣の人にも等しく注がれています。誰かの信仰が強いとか弱いとか、わたしたちが気にするこまごましたことは、主イエスが犠牲となって下さった十字架の御業からすれば、ずっとずっと小さなことです。そのことに今一度気付かされるとき、わたしたちはもはや隣人を裁きの対象としてではなく、愛の対象として見るようになるのです。
 わたしたちが他者を裁くとすれば、それはキリストの本当の愛を知らないからです。わたしたちが他者を裁かないのだとしたら、それはキリストの恵みが大きすぎて、他の人の罪などどうでもよくなるからです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(8節)。ただひたすらに、救い主を見上げ、主のために生きようとするとき、煩わしい世の雑音や悩みから解放され、他者を裁かずにただ主のために生きる、という選択ができるのです。(2019年9月8日礼拝説教要旨)

日曜日と神の愛  2019年9月1日


ルカによる福音書13章10〜17節
 先日、防火管理者の講習を受けてきました。与えられた教科書には法律用語が並び、理解に時間がかかります。講師の先生は、現行の消防法は悲惨な大火事の教訓が生かされている、といわれました。難解な法律も元をたどれば人の命を守るためにあるのです。
 幼稚園では年に3回避難訓練をいたします。これも消防法第8条に定められたことです。もし子どもたちから「牧師先生、なんで避難訓練しなきゃいけないの?」と聞かれたら、どう答えるべきでしょうか。消防法第8条に書いてあるからだよ、と答えるべきでしょうか。
 実はこんな簡単なことが、聖書のユダヤ人たちはわからなくなっていたのです。安息日にイエス様が会堂で説教しておられたところ、18年間病の霊に取りつかれ、腰が曲がってしまった女の人がやってきました。主イエスは彼女を呼び寄せ、「婦人よ、あなたの病気は治った」といって女に手を置かれました。するとたちどころに病気が治りました。それを見た会堂長は腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」といいました。確かに旧約聖書を読めば、安息日は絶対に仕事をしてはならない、とあります。これを破ったら死刑とまで書かれているところもあります(出エジプト31:15)。するとこの会堂長は、もし自分の子どもから「お父さん、どうして安息日を守らなければいけないの?」と聞かれたら、出エジプト31章15節に書いてあるからだよ、と答えるのでしょうか。
 安息日は神が6日かけてこの世を造られ7日目に休まれた、という創世記の記事が発端となっています。しかし、出エジプト記をよく読むと、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も」安息日を休みなさい、とあります。立場の低い人も(こそ)休むようにという神の愛がそこにあります。安息日は7日目に休まれた神様にわたしたちが倣う、という消極的意味ではなく、わたしたち人間の命を守るために神が休まれた、という積極的意義があったと思うのです。安息日というのは単に体を休める日というよりは、命の休まりを感じる日なのです。一週間クタクタになって働き、安息日に休めることを神さまに感謝する日なのです。
 その意味において、主イエスが安息日に18年間苦しむ人の命を救ってくださったのはむしろ旧約聖書的に相応しい行為です。主イエスはあえて安息日にそのようなことをなさり、安息日とはなにか、律法とは何か、ということについて教えようとされたのです。
 わたしたちが七日に一度与えられる日曜日は、まさしく命が回復する日です。主日礼拝において霊的な命が満たされるのです。日曜日がなかったら、礼拝がなかったら、わたしたちはわたしたちらしく生きられるでしょうか。まさに日曜日は神様からのプレゼントなのです。神様の愛そのものです。この本当に素晴らしい日曜日があることで、後の六日をなんとか頑張れるし、その六日の間に命を削られるような経験をしても、またわたしたちは七日目に命を吹き込まれるのです。
 生涯、日曜日がくる毎に、喜びと感謝をもって神様の御前に進みで、まことの礼拝をささげる。そういう信仰者でありたいと思います。(2019年9月1日礼拝説教要旨)

     

天の平和、地の平和  2019年8月25日


詩編122編1~9節
 旧約聖書におけるイスラエルの歴史は、闘いの歴史といっても過言ではありません。アブラハムの時代からすでに周辺諸部族との争いはありましたし、その後も出エジプトの民が戻ってくるときも、士師たちが活躍するときも、ダビデの時代も、そしてアッシリア、バビロニアの侵攻を受けた時も、みんな戦争がありました。
 今日読みました詩編122編というのは、その時代のことを思い出す詩です。2節を見ます。「エルサレムよ、あなたの城門の中にわたしたちの足は立っている」。この詩に出てくるエルサレムは、まさしく平和の象徴です。そこにいるものは命を脅かされることなく、平安と魂の充足が与えられています。いまこのエルサレムにわたしたちの足がある、と詩人はいいます。「わたしたち」ですから、詩人一人の問題ではなく、イスラエル民族全体の喜び、平安、希望、恵みがこの都にある、という意味です。
 4節ではそのエルサレムに「すべての部族、主の部族が上って来る」とあります。神殿での礼拝を意味していると思いますが、礼拝ができるというのもまた平和のしるしです。日本のキリスト教の歴史においても、戦争中には礼拝ができなくなったりしました。ですからみんなが礼拝堂に集まって礼拝する、礼拝できる、ということはそれ自体が平和の表れなのです。
 続いて6節から7節を見てみましょう。「あなたを愛する人々に平安があるように あなたの城壁の内に平和があるように あなたの城郭のうちに平安があるように」。ここに言い表された事柄は、戦争に疲弊するイスラエルの人々の中にある平和への願いです。むしろこれは、ダビデ、ソロモンの良かった時代の反映ではなく、苦しい時代、よくない時代の思いの方を、より色濃く投射しているのではないでしょうか。
 このエルサレムへの思いは、さらに高められ、神の国の平和を見ているように感じられます。この地上で、どんなに苦しくとも、わたしたちは天国の都に結び合わされている。すでに、そこに立っている。そして地上で疲れた民、悲しむ民は、みんな必ずそこに上っていく。そこで正義の裁きを受ける。そういう天の永遠の安らぎを歌い上げているように思うのです。
 このように天国における永遠の、そして究極の平安に対する憧れと、この世の平和に対する希求とは、この122編の中ではつながっています。ですから、我々はどうせ天国へ行ったら平和があるのでしょ、といってこの世の平和を軽んじたり、放棄したりすることは許されません。最終的な天国の平和を信じているからこそ、この世の平和をも求めていかねばならないのです。
 いつも申し上げていることですが、教会も、わたしたち自身も、神の国の出先機関です。ダビデがエルサレムを中心として国家を建設したように、わたしたちも教会とわたしたち自身を中心にして、神の国を建設していくのです。最後に8節を読みたいと思います。「わたしは言おう。わたしの兄弟、友のために。あなたのうちに平和があるように」。わたしたちとわたしたちの教会が、本気で他者の平和のために祈るとき、その場所に少しずつ神の国が建てられていくのです。(2019年8月25日礼拝説教要旨)

     

役に立たない者が役立つ者に  2019年8月18日 大矢真理牧師


フィレモンへの手紙8節~16節
 信頼していた人から、信頼していた仲間、友人から「あなたは、役に立たないから必要ない。」と言われた経験を皆さんはあるでしょうか?
 フィレモンへの手紙は、パウロがフィレモンと言う人に宛てて書いた手紙です。手紙の内容はフィレモンの家で奴隷だったオネシモと言う人物の処遇についてです。当時の奴隷には様々なタイプの奴隷がいたようですが、オネシモの場合は、フィレモン家での召使いのようなタイプの奴隷だったと思われます。しかし、何らかの事情でフィレモン家から逃げ出してしまいました。逃げ出した末にたどり着いたのがパウロのところでした。
 パウロと出会ったオネシモは、パウロを通してキリストと出会うことになり、伝道のために役に立つ者に変えられていったのです。オネシモと言う名前には「役に立つ者」と言う意味があります。フィレモン家の奴隷の時のオネシモは、名前の意味に反して役に立たない奴隷だったのでしょう。逃げ出してしまった奴隷ですから。しかし、パウロ、キリストと出会い、名前の意味のように神様の力によって「役に立つ者」に変えられていったのです。
 しかし、オネシモの処遇を決定する権利があるのはフィレモンです。逃げ出した奴隷ですから、命を奪う権利もフィレモンにあります。そこで、パウロは、フィレモンに対して手紙を書いて、パウロにもフィレモンにも神様の力によって役に立つ者に変えられた。オネシモの処遇を、愛を持って判断して欲しいと願ったのです。
 私は旅行会社に勤めていた時、会社の分裂騒動に巻き込まれ、袂を分かった仲間に「お前なんかは役に立たない人間だ。」と罵声を浴びたことがありました。信頼していた上司にも「役に立たないお前を、温情で誘ってやったのに恩を仇で返す役立たずが。」と言われました。自分は仕事では役立たない人間なんだ。ショックで旅行会社から生活協同組合の関連会社に転職しましたが、「役に立たない」と言われたトラウマは消えませんでした。いっそ死んでしまった方が楽になると思い、勤め先近くの歩道橋から、高速道路に飛び降りようと考えたこともありました。しかし、そのような時に、キリストと再び出会い、お前のような者でも役立つ大切な存在だと神様は教えて下さいました。
 今は、両親の看病介護のため、伝道者としての職責を一旦休んでいますが、山梨と長野の教会で、神様の御用の役に立てたとは思えませんが、神様は、その計画を成就するために用いられる人には、誰一人として役に立たない者はいない。そのことを、フィレモンへの手紙は、私たちに伝えているのではないでしょうか。
(2019年8月18日礼拝説教要旨)

神の忍耐  2019年8月11日


ペトロの手紙一3章13~22節
 聖書の世界での古典的なテーマの一つが「待つ」ということです。たとえば旧約聖書の出エジプト記は400年にわたって奴隷状態からの救いを待った人たちの物語です。そのほかの戦争に関する物語でもずっと救いを待っている人たちがいます。このように、旧約聖書では人々が救いを待つということが大きな流れですが、その一方で神様が人間をずっと待っておられる、ということもまた聖書の教えているところです。
 天地創造のあと、アダムとエバが罪を犯し、その息子カインも殺人を犯しました。しかし神様はカインをお裁きになりませんでした。カインを代表とする罪人たちが神に立ち返るのを待っておられると解釈できます。ノアの箱舟もそうです。やがて、神様は律法を授けられました。失敗を重ねる人間たちが救われるようにと道筋をお立てになったのです。しかし、汝、殺すなかれ。汝、盗むなかれ。これらの掟を人々は守れないのです。律法主義が台頭する時代には、律法は救いではなく、破滅をもたらすものに成り下がっていました。
 この間、神様は人が真に悔い改めて、ご自身の許へ戻ってこられることをずっと待っておられたのです。今日読みました第一ペトロは、そのことをはっきりと書いています。19節「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。4章6節にも「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは・・・」とあります。捕らわれていた霊や死んだ者というのは「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった」人々であり、神様との関係が永遠に閉ざされています。しかしそこへキリストが行かれ、宣教された、というのです。信じない者、キリストを知らなかった者でさえ、救いの道が残されている、というのです。そんな間口が広い宗教が他にありますでしょうか。これは、ひとえに神様の忍耐の上に成り立っているといえるのではないでしょうか。
 わたしは、イースターが来るたびに、いや、日曜日の説教が来るたびに、御子を十字架に送られた神様の御心はどのようなものだったのだろうか、と思います。神様とイエス様のご関係は、人間の親子とは本質的に異なったものでしょうから、感情論的にここを捕らえるのはよくないかもしれませんが、やはり自分の独り子を死に向かわせるお気持ちは、相当な忍耐があったのではないかと、想像をいたします。そこまでして、神が何を待っておられたのか。それはわたしたちがキリストを通して救いの福音を信じることです。神様は、尊い一人子の命を犠牲にしてまで、わたしたちが立ち返ることを待っておられるのです。あの放蕩息子の父親の気持ちです。神様は今もなお家の外でわたしたちを待っておられるのです。わたしたちはそのことを心から感謝しまた、恐れなければなりません。
 神の愛と忍耐の象徴である、キリストの十字架はすでに高々と打ち立てられています。これを無視したり、自分と無関係のもののように見過ごしてはなりません。自らの罪を悔い改め、生き方を変え、もろ手を差し出してわたしたちを待っておられる神様、イエス様のところへ、飛び込んでまいりたいと思います。(2019年8月11日礼拝説教要旨)

同じ風景を見る  2019年8月4日


フィリピの信徒への手紙 4章1~3節
 ある教会でこんなことがありました。熱心な教会員がわたしのところへきて「先生、保育園ではキリスト教の活動をしないほうがいいです」というのです。わたしが驚いてなぜですか、と聞いたら「保育園は、幼稚園や学校と違って親が選べないため公共性が高く、宗教活動はすべきでない」とのことでした。もちろんわたしはそう考えておらず、何度も話し合いましたが結局納得はされませんでした。
 わたしはこのやり取りで一つの考えに思い至りました。同じクリスチャンであっても、見ている風景が違うということです。教会の保育園がどういうものか、あるいは国家や権力という問題も、この人と自分ではまるで違うものに見えているのです。
 今お隣の国とよくない関係になりつつありますが、たとえば戦争という問題も、風景が灰色になったのは同じなのに、人によってその風景が違うものに見えているのではないでしょうか。
 人間が下す判断というのは、いつも正しいとは限りません。だからこそ、わたしたちは違う風景の中でも、一致できる何かを見つけたいと思います。クリスチャンの場合、それは聖書であり、聖書によって明らかにされた神様の福音です。今日の聖書では、フィリピ教会がある特別な事情に見舞われていたことがわかります。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケにすすめます。主において同じ思いを抱きなさい。」ボディアとシンティケという二人の女性が、お互い不和であったというのです。この手紙を書いた獄中のパウロは、教会指導者に対しても「この二人の婦人を支えてあげてください。」といっています。エボディアとシンティケは、クレメンスという人物と共にかなり前からフィリピ教会と深く関わっていたようです。パウロは戦友である、とさえ書かれています。教会にとって二人はなくてはならない存在です。
 しかし今、エボディアとシンティケはまったく違う風景を見ているのです。パウロは、同じフィリピの信徒への手紙の2章6節から8節にかけて、大変有名な聖句を残しました。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この十字架の主を見よ、とパウロはいいます。神でありながら人となられ、世界の罪を負って十字架にかかられたキリストです。角度こそ違えど、誰もが見ることのできる、いや、見なければならない存在です。パウロが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書くように、謙遜と従順を貫かれる十字架のキリストが、わたしたちの信仰的なモデルなのです。
 自戒も込めて申し上げますが、誰かと仲たがいをしたり、不満が大きく頭をもたげるようなときは、キリストの十字架が見えなくなっているときです。この世の風景ばかりを追い求めて、神様と主イエスを見ていないのです。そのときこそわたしたちは謙遜になって、キリストの十字架を見つめ、自分も隣人も主の憐みによって生かされている、という福音に立ち返りたい。それが神の和解と平安に生きる者の姿です。(2019年8月4日礼拝説教要旨)

思い上がることなく  2019年7月28日


ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節
 使徒言行録やガラテヤ書やコリント書などを読みますと、当時の教会の苦労がしのばれます。当時の教会は今みたいに日曜日の午前中だけ通う場所ではなく、毎日の生活を共にする人たちがいて、またいろんな背景の人たちがいたため様々な問題が起こります。そうした問題の原因は、ほとんどの場合「傲慢」です。
 傲慢な人というのはどういう人を言うのでしょうか。たとえばドラえもんのジャイアンのような人物を思い浮かべる人も多いでしょう。なんでも欲しがる彼の姿は、ある意味で人類の欲深さをそのまま具現化しています。しかし彼のような一般的な意味とは違い、教会の中での傲慢さというのは、また別のところにあるように思います。キリスト者の傲慢は「自分という人間」を問わなくなった時に起こるのです。
 聖書から「わたし」という人間を問われたとき、二つの答えが必要となります。一つはキリストに救われた罪びとです。今日の1節で、パウロは「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥った」ときは正しい道に導け、と助言しますが、同時に「あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい」といいます。誰もが弱さを持ち、罪を犯す存在である、しかしキリストはそんなあなたを十字架をもって救い、贖ってくださった、というのです。
 「わたし」に対する聖書からの答えは「神に造られた者」です。その意味で3節も重要です。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。「あなたは何者でもない、ひとかどの者ではない」というパウロの言葉は、とても冷めたものです。しかしここには神が土くれから作ってくださった単なる器でしかない、という謙虚な意味があるのです。自分は人よりも上だと思い上がり、その意味で本当の自分を見失っている人には、はっきりと「あなたは何者でもない」と告げるのです。
 同志社大学を創設した新島襄に有名なエピソードがあります。新島襄が伝道旅行に出かけている間に、クラス編成をめぐって一部の学生たちが教授陣と対立し授業をボイコットしていました。外遊先から帰った新島襄は、調停に乗り出したものの学生たちの気持ちがなかなか収まりません。それで新島襄は朝の礼拝の時、一本の木の枝を折ってきて、学生たちにこういいました。「わたしは諸君の将来にとても期待している。それなのに今回のような事件が起こったのは、校長であるわたしの不徳のいたすところである。だからこれから自分を罰する」。そして、持ってきた木の枝で自分の腕を強く打ち始めたのです。これは「わたしは何者でもない、ただの罪人である」というキリストの遜りに立ち返ってのものだったと思います。そのとき、学生たちは反省し、教授への反発をやめました。
 キリストの謙りは、偉い人も偉くない人も、キリスト者である自分がどう生きるべきか、ということを強く迫るものです。いつも神様がわたしを造ってくださったという感謝、主イエスがわたしを十字架にて救い挙げてくださったという喜び、ここに立って、謙虚に、しかし確かに主の道を歩みたいと思うのです。(2019年7月28日礼拝説教要旨)

     

もう泣かなくてもよい  2019年7月21日


ルカによる福音書7章11~17節
 東京の教会から横浜の川和教会へ転任しようとするとき、父のがんが発覚しました。すでに手遅れの状態で、一縷の望みをかけて手術しましたがどうしようもありませんでした。発覚から3か月後、赴任した年の4月に父は召天しました。わたしがこの経験を通して知ったのは、死の力強さ、といいましょうか、ブルドーザーのごとくゆっくり、しかし確実に近づいてくる力の大きさでした。そのことに本人も家族も本当に苦しみ、疲れました。
 父の死後、しばらくしてわたしは父の死に関していくつかの肯定的な意義を見出すことができるようになりました。一つは愛する家族を天に送った経験を持つ者として神の福音を語ることができる、ということ、もう一つは、信仰者の死と神の国が結びついている、とイメージが自分の中で結びついたことです。
 こうして父の死を受け入れられるようになったとき、神様から「もう悲しまなくていいんだよ、もうそれでいいんだよ」と言っていただいたような気がしたのでした。わたしはどんな人の死にも、かならずこの「もういいんだよ」という神様の御声が聞こえてくるときがあると思うのですが、とりわけクリスチャンの場合には、その語り掛けを聞く中で復活の命について信じていくことができるようになると思うのです。
 今日の聖書によれば、ナインの町で母一人子一人で育った青年が死に、その棺が運ばれていくところでした。母は泣いていました。主が「手を触れられると」棺の進行が止まりました。誰も止めることができない死の進行を、主が止めてくださったのです。主イエスは息子を失った悲しみに打ちひしがれている母のことを憐れまれ「もう、泣かなくともよい」といわれました。この御言葉は単なる励ましの言葉ではありません。復活の喜びを告げる御言葉なのです。14節の「若者よ、あなたに言う。起きなさい」の起きなさいは、復活するという意味を持つ言葉です。息子は永遠の死から復活したのです。それゆえ、「もう、泣かなくともよい」という主の御言葉は、あなたの息子は復活するのだ、という励ましと祝福なのです。
 そして、この御言葉をわたしたちも聞くのです。今日の話は、現代のわたしたちにおいて、病気が治るとか死にかけた人が生き返るというようなことではありません。来るべき復活の命のことを意味します。わたしたちの愛する誰かが死を迎えるとき、いや、あるいはひょっとしたら自分自身が死に向かうとき、この御言葉を聞くのです。「もう泣かなくともよい」。それは単なる励ましではなく「あなたは、あなたの家族は主の御名によって復活するのだから、悲しまなくていいんだよ」という復活に向かう命に対する祝福の御言葉なのです。
 今日の物語では、主は一人の死に向かう青年を通して、復活の命の恵みを示してくださいました。キリスト教における死の意義は、復活への入り口です。死は終わりではなく、始まりなのです。クリスチャンにとって死が避けられないものだとすれば、その先にある永遠の命の恵みも主によって必ず与えられるものなのです。そのことを信じて、最後まで希望をもって生きてまいりましょう。(2019年7月21日礼拝説教要旨)

神が清めたもの  2019年7月14日


使徒言行録11章 1~10節
 旧約聖書の律法を見ると、神や祭壇を穢れから守る条項がたくさん書いてあります。神はこの穢れた世俗とは交わらない崇高な存在である、という信仰が表れています。しかし新約聖書の時代になると、そうした感覚や概念は完全にひっくり返されました。イエス様は神であられるのにこの穢れた地上に来られ、しかも、罪を負う人間と同じお姿になられました。そして穢れた存在として見られていた病人、障害者、異邦人、徴税人たちの中に入られ、そこで癒しをなさり、一緒に食事までなさいました。「あなたはもともと穢れてなんかいない」ということを示してくださったのです。そこに旧約聖書の律法主義を超える、新しい福音がありました。
 今日の聖書では、異邦人と一緒にいたペトロのことを、エルサレム教会のユダヤ主義者たちが咎めました。彼らは異邦人が穢れていると思っていました。人は誰も穢れていない、というキリストの示してくださった水平的な平和が教会の中で失われつつあったことを意味します。
 それでペトロは自分が見た不思議な夢について説明するのです。天国から大きな布のようなものが降りてきて、その中にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥がはいっていました。神様がペトロを屠って食べなさい、と言われたところ、ペトロはそれらの動物は穢れていると思い、拒否しました。しかし神様はペトロにこう言われます。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。この夢は食べ物のことではなく、人間のことだとペトロは気づきます。異邦人は穢れてなどいない。だからわたしは異邦人たちのために伝道しに行く、とパウロは異邦人伝道に向かいます。
 創世記を読むと、神様が人間を造ってくださったとき、それは極めて良かった、と言われました。本来人間は良いものでした。それを「穢れている」と誰かが勝手に決めつけ、差別しています。一昨日、安倍総理大臣がハンセン病の患者・元患者、その家族に対して謝罪する声明文を発表しました。過去の隔離政策について国として謝罪した、ということですが、悪いのは国でしょうか。1980年代以降、らい予防法は有名無実化し、元患者の人たちは自由に外に出られるようになっていました。しかし結果的に多くの人たちが施設に留まる決断をしました。外に出ても激しい差別が待っており、故郷や家族のもとに帰っても、それは同じだったからです。
 国の政策が間違っていたことは明白です。しかしその背後に、我々一人一人、また地域全体にそうした差別意識が深く浸透しているのです。我々人間がいかに人を差別する生き物であるのか、という大切な部分を忘れてはならないと思うのです。
 同じことは被差別部落の問題、学校におけるいじめの問題、アメリカの黒人差別、インドやネパールのカースト制度などがあります。教会に集まるわたしたちも例外ではなく、神が造ってくださった清いものを、穢れているといって見下げてしまうのです。それがどんなに愚かしいことか、今日の聖書は教えます。キリスト教は天国を目指す収容です。すべての人が上下や優劣なく、等しく神の愛に包まれて生きる場所。わたしたちが目指す天国とはそういうところです。その恵みを地上にも広げていきたいと思います。(2019年7月14日礼拝説教要旨)

寂しい道を行く者に  2019年7月7日


使徒言行録8章26~38節
 使徒として活動していたフィリポは、あるとき主の霊に導かれ「ガザ」へ向かいます。26節によりますとガザへの道は「寂しい道」であった、とあります。そのフィリポの後ろから、馬車に乗ったエチオピアの宦官が通りかかりました。彼はエチオピア人でありながら、信仰に目覚め、エルサレム神殿で礼拝をしに来た帰りだったのです。宦官は聖書を読んでいて、その箇所がイザヤ書53章であることを知ったフィリポは「読んでいることがわかりますか」と尋ねました。宦官は「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」といいました。
 イザヤ書53章は、人の身代わりとなって罪を負い、苦しみ死んでいく「苦難の僕」について書かれています。この苦難の僕こそキリスト・イエスのことであり、新約聖書に証された決定的な救いを預言するものです。それは誰かが教えてくれなければ、わからないことです。
 ところで、宦官というのは古代の中国やアフリカで発達した職業です。晴れて宦官になったからといって、将来の成功が約束されるわけでもなく、その多くは下級宦官として一生低い賃金で働かされます。何かで失敗したら処刑されたり島流しになったりと、生涯の保障もありません。宦官というのは、そのような厳しい職業です。ですから、宦官が「寂しい道」を歩んでいた、と聖書が語るのは非常に象徴的です。彼は政治の表舞台に居ながらも、実に、寂しい人生を歩いていたのではないかと思うからです。
 宦官が読んでいたイザヤ書53章にはこうあります。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った」。それは手術されたときの自分と重なって見えたかもしれません。また「だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」とありますが、それも自分のことのように思えたかもしれません。多くの宦官は一生家族のもとに帰れず、家族も作れず、孤独な死を迎えるからです。今日の宦官は、自分と重なり合うイザヤ書53章に書かれた人物が誰なのか、ずっと気になっていたのではないでしょうか。
 宦官はフィリポに「それはいったい誰のことですか」と尋ねました。フィリポは「イエス・キリストのことだ」と答えました。その答えを聞いたとき、宦官はこの方こそ自分の苦しみ、痛み、寂しさをすべて受け止めてくださる方だ、そう思ったに違いありません。そしてこれからの一生を、この方と一緒に歩んでいきたい、と思ったのです。宦官は思わずこういいました。「私が洗礼を受けるのに、何か妨げがありますか」。彼がずっと歩いて来た寂しい道は、主イエスと出会った地点から、寂しい道ではなくなったのです。
 わたしたちは誰もが何かしら寂しさや不安を覚えながら生活をしています。それがこの世のもので埋められる場合もあるでしょう。しかし、心の最も深いところに空いた穴は、この世のものでは埋まりません。キリストこそわたしたちの空虚を埋めてくださる方です。もしも、自分の歩いている道が、孤独で、寂しくて、悲しいものに感じることがあったとしても、我々はその寂しい道でこそ、キリストと出会うということを忘れてはいけないと思うのです。人生の最後まで、この希望によって生かされたいと思います。(2019年7月7日礼拝説教要旨)

     

ほかの誰によっても  2019年6月30日


使徒言行録4章5~12節
 十字架の時、怖くなって逃げだした弟子たちも、主の復活とペンテコステを経験し、まったく違う人に生まれ変わりました。彼らは主の復活について説教をし、男性受洗者の数が5000人という驚くべき状況が生まれていました。足の不自由な男がペトロによって癒されるという出来事もありました。そんなペトロ達を快く思っていなかった祭司たちは、彼らを逮捕し、最高法院で裁判を受けさせることにしました。ところがこの個所を読むと、議員たちは何かを恐れ、尋問を受ける側の弟子たちは堂々としているように感じるのです。
 議員たちは「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」とペトロ達に尋問しました。無学の漁師たちは大胆に説教し、足の不自由な者は踊るように神を賛美している。彼らは目の前で起こっている大きな変化が、どこから来たものかわからなかったのです。怖かったのです。彼らは神を信じているようでありながら、実は自分を最高権威とし、自分が絶対的存在となっていることに気づいていません。だから自分というものを超える大きな力に遭遇した時、どうしてよいかわからず、そんな質問をしてしまうのです。
 ここに人間の破れがあるように思うのです。誰しもが神に造られたものでありながら、神を神としないまま生きています。自分の考えで始まり、自分の考えで終わる。自分の経験や判断がすべての行動原理です。そして、彼らの自己絶対化は人間なら誰しもが陥る誘惑であり、クリスチャンも自らを絶対視する危険性を抱えながら生きているといえます。
 わたしたちは、そういう誘惑から離れる必要があります。神のみを恐れる、神の救いと力を素直に信じる。そういう生き方に身を置くことによって、傲慢で自分中心の生き方から脱却できると思うのです。
 ペトロたちは議員を前にして大胆に福音を語り始めます。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。救い主はキリストのみ。そこに、この世のものでは相対化できない絶対的な重みがあります。
 この世の中に、絶対的なものと相対的なものがあるとすれば、いうまでもなく主イエスは絶対的存在です。その御子を十字架につけ罪を赦すという神の出来事も、他に比べることができない唯一無二のものです。それ以外のところに救いはない、というペトロの説教は至極当然のことです。キリストや神以外に「絶対」と呼べるものはどれだけあるでしょうか。残念ながらこの世のあらゆるものは崩れ去ります。マタイ24章によれば、終末の時には太陽や月や星たちも、輝きを失う、とあります。そしてわたしたちもいつか終わりを迎えます。そんなわたしたちを、イエス・キリストが救ってくださるのです。十字架と復活において、完全で、それ自体で完結しており、永遠に変わることのない神との関係性に入れられるのです。
 ペトロに足を癒してもらった男は、この完全なる救いの関係の中に入っています。わたしたちもその約束を受けていますから、霊的躍動のなかで神様へ感謝し、隣人に対し喜びをもって証しを立ててまいりたいと思います。(2019年6月30日礼拝説教要旨)

     

皆一つになって  2019年6月23日


 使徒言行録2章37~47節
 ペンテコステの後、燃える舌を受けたペトロは大胆に主の福音を語り始めます。ペトロの説教を聞いた人々は、大いに心打たれて「どうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは「悔い改めなさい」「洗礼を受けなさい」「赦しを受けなさい」と人々にいいました。そうして洗礼を受けた人々が次々と教会を立て、支えていきました。使徒言行録はそうした人々が「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」に熱心だったと語ります。当時の教会において重要だった、説教、霊的交わり、聖餐、祈りは、今も教会の基盤となっています。
 さて、続く部分では人々が「一つになっていた」と三度も書かれています。教会が一致していくとき、「何で」一つになるのか。神様はキリストご降誕のときこういわれました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。また主の変容のときは次のようにいわれました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」。わたしたちは日曜日教会に集って、イエス・キリストと出会い、このお方が我々を罪から救い出す唯一のお方であることを確認します。キリストが、わたしたちが一つになるときの根拠なのです。
次に「どこで」ということを考えたいと思います。主イエスは復活された際、弟子たちにこう言われました。「ガリラヤに集まりなさい」。そこに弟子たちが行ってみると、復活の主がおられ「すべての人を弟子にしなさい」と語られました。彼らにとってのガリラヤはわたしたちでいえばこの教会です。この教会でわたしたちは生けるキリストと出会って、主から御言葉を受け取るのです。
 こうしてキリスト教会が誕生し、世界中に教会が建てられていきました。しかしコリント書などを読むと、当時の教会は食べ物や割礼についての考え方などがバラバラだったことがわかります。聖書や教義が確立していなかったことも一因です。やがて、聖書がまとめられていきました。しかしそこでも人々は一致できませんでした。やがてキリスト教は使徒信条や教義をまとめられ、カトリック教会が成立しました。まさに一致したキリスト教です。ところが、そこでもいろいろな問題が生じていきました。やがて宗教改革がおき、プロテスタント教会ができ、多様な教派に別れていきました。教派ごとに信仰告白や教義が整えられ、礼拝が守られました。我々が月に一度告白している日本基督教団信仰告白は戦後制定されました。教団にとってこれは極めて大切な告白文ですが、それについての理解も決して一つではありません。
 そのように考えますと、一つになる、という作業は昔から今に至るまで、ずっと続いていると思うのです。大切なのは皆がまったく同じ信仰になっていくというのではなく、多様性の中の一致です。違う考えや立場の人が毎週この指とまれで、教会に通ってきています。たくさんある生き方過ごし方の中で、主体的に教会というガリラヤへ行くことを選び、皆でキリストにつかまるのです。わたしたちはそこで尊い御言葉を受けます。キリストのプレゼンス(現在性)において一つとなるのです。だからこそ芯があるし、倒れない。これからも主の御言葉をみんなで聞いて、信仰生活を続けてまいりましょう。(2019年6月23日礼拝説教要旨)

     

子どもを見るイエス様 2019年6月16日(子どもの日・花の日合同礼拝)


マタイによる福音書19章13~15節
 イエス様が人々にお話をしていたときのことです。ある人が、イエス様に子どもを祝福してもらうために連れてきました。それを見た弟子は、子どもを叱りつけ、そこから追い出そうとしました。イエス様はこういわれました。「子どもを連れてきなさい。天国は子どもたちのものだから」。
 天国が子どもたちのものとはどういうことなのでしょうか。
子どもというのは、大人から見れば小さいです。幼いです。力がなく、判断力も十分ではありません。ときに大人を困らせたり、怒らせたりすることもあります。
 だからずっと大人たちは、子どものことを取るに足らない、価値の低い人間だと思っていました。聖書の世界の人たちもそう思っていました。だから、イエス様のところへ子どもが行こうとしたときに、お弟子さんが「だめ、子どもの来るところじゃない」と止めてしまったのです。けれども、イエス様は子どもたちの価値は低くなんかないよ、大人たちがじゃま者扱いしてはいけないよ、天国の神様は子どもたちのことを一番大切にしているんだよ、といってくれたのです。
 最近、小さな子どもが親や親の同居人からひどいことをされるニュースが多いです。叩いたりけられたり、ご飯を作ってもらえなかったりして、ひどい場合には死んでしまう子どもがあります。とても怖いことです。それだけではありません。
 写真はインドの綿花畑で働く女の子です。この綿はわたしたちの着ている服になります。次の写真はアフリカでカカオの実を運ぶ少年です。これはみんなが大好きなチョコレートになります。次の写真は、みんなのお母さんが大好きなダイヤモンドを探しています。金を掘る子どもがいます。金は携帯やパソコンに使われます。レンガ造りの少女、そして少年兵。彼らは家から離れて、わずかなお金のために朝から晩までずっと働いています。
 どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか。それはせっかくイエス様が子どもは大切なんだよ、神様は子どものことを愛していらっしゃるよ、ということを教えてくださったのに、それを大人たちが聞いていないからです。この世の大人たちが、相変わらず、子どもの価値が低いと思っているからです。
 だからわたしたちは、「天国はね、子どもたちのものなんだよ」と言ってくださった、イエス様の御言葉を思い出さなければいけません。天の神とイエス様は、小さい者、弱い者を一番大切にしてくださる。それを忘れてはならないのです。
 この日本に住むわたしたちは、こういうことを何も考えないで暮らすこともできます。素敵な洋服を着、携帯を使い、チョコを食べ、きれいな宝石を身に着けて出掛けるのです。でもそれで本当にいいのでしょうか。
 わたしたちの住んでいる世界と天国はつながっています。天国が素晴らしいところだとすれば、この世界もそうであるべきなのです。(2019年6月16日礼拝説教要旨)

垣根を超える力 2019年6月9日


使徒言行録2章1~11節
 先日の6月6日、フランスでノルマンディ上陸作戦75周年の記念式典がありました。この上陸作戦を扱った映画「プライベート・ライアン」で次のようなシーンがありました。戦意を喪失したドイツ兵が、両手を挙げて投降してきました。アメリカ軍は彼らを捕虜にしなければいけませんが、何を言っているかわからず焦ってしまい衝動的に撃ってしまいます。同じ世代を生きる若者なのに、立場や言葉が違うために殺し合わなければいけない、という悲しさです。国の違い、考え方の違い、言葉の違い、そういうものが大きな隔たりとなって、相手を遠ざけたり、必要もなく憎んだりするのです。
 わたしたちは、立場の違う相手を理解し、近づくためにどうすればいいのでしょうか。それは相手の言葉を持つことです。使徒言行録によれば、主の昇天後120人の人々が集まって祈っていたといいます。そこに激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、炎のような舌が人々に留まりました。すると120人は、それぞれ違う国や地域の言語によって、主の救いを語り始めたのです。これをもって、教会は世界中へと広まっていくことになるのです。
 熱心に祈っていた120人がいくら伝道に燃えていたとしても、言葉のまったく通じない外国へ行って主の救いを述べ伝えるなんて、ほとんど不可能といってもいいです。ですから神様は炎の舌を与えられたのです。エルサレムを中心として、ギリシア地方、ローマ地方、北アフリカ、メソポタミアに至るまで。それはあらゆる垣根を超える神の言葉でした。
 人と人が近づいていくために必要なのは言葉だけではありません。言葉は、それを使う主体の積極的な意思があって初めて役に立つものです。神様は言葉とともに相手にキリストの救いを伝えたい、という熱意を与えられたのです。「炎のような」というのはそういうことだと思うのです。炎というのは離れたところにも熱を伝える作用があります。炎の舌は、少し離れた相手に神の福音を伝えたいという熱意です。熱意と言葉の両方を神様は与えてくださったのです。
キリストは静かなお方でしたが、その語る御言葉はいつも熱を帯びていました。垣根を越えて伝わっていく力がありました。主イエスは人々に説教なさる際、たとえ話を頻繁に用いられました。哲学的で格調高い説教よりも人々に伝わるからです。主は何度も癒しをなさいました。あの面倒な律法を経由せずとも、神の国の恵みを直接的に伝えることができるからです。主は繰り返して貧しい人々や虐げられている人々と食事をなさいました。この世にはない、神の国の風景を見せるためでした。そして最後に、主イエスは十字架につかれました。それこそが最も大いなるキリストの言葉です。誰でもこの十字架を見れば、神の深い愛と救いを感じることができるからです。言葉や民族が違っていても、十字架という神の言葉をすべての人は信じ、悟ることができるのです。
 わたしたちは、このキリストというお方に現れた神の御言葉を受け取ったのです。一つの強い力を持つ言語を獲得したのです。あらゆる隔てを超えていく言葉です。これを、勇気をもって近い人から遠い人まで伝えていきたいと思います。(2019年6月9日礼拝説教要旨)

     

すべての民を弟子に 2019年6月2日


マタイによる福音書28章16~20節
 主イエスは、天国へ戻られる際、弟子たちを呼び集めてこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」。すべての民を弟子とせよ、と主は言われます。弟子というと、殉教をもいとわぬ強靭な精神を持ち、目覚ましい活躍をする弟子たちのことを思い浮かべるかもしれません。確かに(復活後の)ペトロはそんなイメージですが、例えばアンデレ、フィリポ、バルトロマイ、タダイ、熱心党のシモンなどは、何をしたかまったくわかりません。むしろわたしは「静かな弟子たち」の匿名性に注目したいのです。教会は、パウロなどスタープレーヤーだけでなく、名もなき信徒たちによって立てられていったからです。
 わたしが以前の教会にいたとき、神学校に通う神学生がいました。神学校での成績もよく、優等生タイプで、いわゆる目立つタイプの人間です。彼は神学校を卒業すると信徒数数百名の教会に赴任し、その後はある大きな大学で教鞭をとるようになりました。
 彼を世の中に送り出して数年後、一人の男性が教会にやってきました。人生の中で道を見失い、どうしようもなくなって教会にやってきたのです。彼は教会に来るなり、牧師になりたいんです、といいました。心が純粋で、笑顔を絶やさず、一つのことに真剣に取り組むまじめな性格でした。目立たず、静かな牧師です。どっちがいいとか悪いとか、そういうことではありません。どちらも、神様が選んでお立てになった教師であり、その場その場で主の福音を証しする弟子として生かされているのです。
 主イエスが「すべての民を弟子とせよ」といわれるとき、それは自己犠牲の精神に富み、自己のすべてを主にささげきるような、模範的信徒ばっかりを求めておられるのではない、ということです。もちろん教会の働きを前進させるためには、そういう人も必ず必要ですが、名前の出てこない、黙して主のために働く静かな信徒、そういう人も神様は求めておられるのです。決してペトロやパウロみたいに雄弁でなく、彼らほど自己犠牲の精神を持っていなくても、与えられた力と勇気の中で主のために生きる決断をする。そういう人も主の弟子なのです。
 12弟子の中には、主を三度も否定したペトロがいました。熱心党というやや危険な集団に属するシモンがいました。主の復活を信じないトマスがいました。徴税人として不正を働いていたマタイがいました。神の国が到来したら僕たちを大臣にしてくれ、と我欲に溺れるヤコブとヨハネがいました。そして、主を十字架に引き渡した裏切り者のユダがいました。
 弟子とは聖人みたいな人のことではなく、不信仰者、罪びとたちの集まりだったといっても過言ではありません。でもそれでいい。主はそういう集団に復活の命を吹き込まれ、真に主のために働く集団となさったのです。だから、わたしたちも臆せず、胸を張って弟子であることを誇りたいのです。罪びとであり、力足らずであり、不信仰者である我々を、主は復活の命をもって真の弟子としてくださったからです。
(2019年6月2日礼拝説教要旨)


 

勝利の信仰 2019年5月26日


ルカによる福音書7章1~10節
 カファルナウムの町に主イエスが行かれたとき、ローマ軍の「百人隊長」から遣わされた長老がやってきました。長老によれば、百人隊長の部下が病気で死にそうなので助けてほしい、ということでした。おそらく百人隊長は、カファルナウムに駐屯している間にユダヤ的生き方に触れ、神を畏れ敬うようになったのでしょう。そして部下が死にそうになった時、主イエスという救い主がおられることを知って長老を遣わしたのです。
 今日は、彼の信仰から三つの点について学びたいと思います。まず、彼がもつ「勝利の信仰」です。この場合は死を乗り越える信仰、という意味です。百人隊長の部下は死に瀕しています。地上のいかなる力をもってしても、覆すことのできないのが死です。それを乗り越える力を持つ方がおられると知ったとき、彼は素直にその信仰に従ったのです。
 これは我々の「復活」の信仰と結びつきます。我々の死もこの世の力ではどうしても避けることはできませんが、主にすがり、主を信じることにおいて復活の命はもたらされます。
 第二に、彼の信仰はあらゆる立場を超えるものだった、ということです。今回癒された百人隊長の部下は洗礼を受けていない、割礼も受けていない、聖書を読んだこともなく、キリストと会ったこともありません。あるのは、ただ彼の上司がキリストを熱心に信じていた、という事実だけです。その上司さえ、異邦人なのです。主はこの「遠い人」を救われます。百人隊長は、この遠くにある者、立場が違うものを主が救ってくださると信じたのです。
 キリスト教には「執り成し」という信仰的態度があります。自分のことではなく、誰かのために祈り、行動することです。百人隊長のように、キリストの愛と救いは、あらゆる隔たりに勝利するものであることを信じ、執り成しの祈りと行動を起こしたいと思うのです。
 第三に、古い自分を克服する信仰です。彼がユダヤ人を愛し、またキリストを信じるようになった(5節)原因の一つは、自分が支配者側として酷いことをしてきた、という罪の意識ではないでしょうか。それは「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」(6節)という言葉に表れています。彼は自分の罪深さを知っており、キリストの御前に進み出ることを憚っています。それでもなお、死にそうな部下のために行動は起こさざるを得ませんでした。彼はすでに、古い自分を乗り越え、新しい信仰に生きる者となっています。
 まさしくこれは「悔い改め」、生きる方向が変わることを意味します。百人隊長の場合は、パウロやザアカイほど急転直下ではありませんでしたが、生活の中で緩やかに、そして確実に生きる方向が変わっていきました。我々も、キリストを信じる信仰の中で、古い自分ではなく、新しい自分へと変わっていくことを信じたいと思うのです。罪ある自分ではなく、命ある自分となって生きることを信じたいと思うのです。
勝利の信仰とは、完成に向かう信仰です。目的に到達する信仰です。わたしたちのたった一つのこの命は、主イエスへの信仰において、完成させられ、救いへと到達するのです。
(2019年5月26日礼拝説教要旨)

     

互いに愛し合う 2019年5月19日


ヨハネによる福音書15章11~17節
 今日の説教の結論は、すでに説教題に出ています。「互いに愛し合う」という相互愛です。主イエスはそれが「掟」や「命令」だといわれます。「掟」「命令」という言葉は決して軽いものではありません。愛を欠いた教会は教会とは呼べないと、主は厳しいお言葉で語られます。
 なぜキリストはこのようなことをいわれるのでしょうか。それは、教会が弱い者の集まりだからです。人間は完ぺきではありません。簡単に愛を失いやすいものなのです。だからこそ主は、互いに愛し合いなさい、それを忘れるな、と厳しく命じられるのです。
 ある国会議員が「北方領土を戦争して取り返す」ということをいいました。彼だけでなく日本全体が「戦争ほど恐ろしいものはない」という記憶を喪失しかかっているのです。日本はその記憶を忘れないように、憲法というはっきりとした形で、戦争をしない、戦力を持たない、ということを銘記したのです。つまり日本国憲法(特に九条)は、あの悲惨な歴史からの命令なのです。
 さて、今日の聖書には相互愛のほかにも「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)という自己犠牲についても書かれています。これは別々の事柄というよりも、つながっていると考えるべきです。自分だけ安全地帯にいて、大事なものをしまっておいて、それで隣人愛というものは成立しない、というのです。主イエスがわたしたちの救いのために、神の国からこの世に来てくださり、自己の命のすべてを捨て去ってくださったことを考えれば、それがよくわかります。
 しかしわたしを含め、牧師がいけないのは、こういうときすぐに命を投げ出して人を救ったクリスチャンの話をしたがることです。もちろん、それは素晴らしい話です。しかし「命を捨てる」ということが本当に普通のクリスチャンにできるでしょうか。この「捨てる」という動詞はギリシア語でティテーミといいますが、辞書で引くと①置く②据える、となっています。捨てるは最後のほうです。よって、直訳風に訳すと「友のために命を置く(据える)」となります。キリストは十字架で肉の命を捨てられました。しかしそれはまさに主が存在のすべてを置く(横たえる)ことだったように思います。わたしたちの命の内部には、主の置いてくださった命があります。わたしたちの人生には主が据えてくださった道があります。だからどんなときにも永遠の命につながる平安があるのです。
 十字架に磔にされたキリストのティテーミは究極です。しかしわたしたちのティテーミはもっと違う形があっていい。たとえ肉の命を捨てることはできないとしても、命を誰かのところに置く、ということはできるのではないでしょうか。軸足を移し、重心を傾け、その人に寄り添っていく。些細なことでもいいから、今持っている時間、思い、肉体的力、経済的力を、誰かのために置いてみる。それがティテーミのもう一つの意味なのです。主イエスの「互いに愛し合いなさい」というご命令を守るため、主のティテーミをどのようにして自分のティテーミにするのか、それをいつも考えたいと思います。(2019年5月19日礼拝説教要旨)

一人も失わないで 2019年5月12日


ヨハネによる福音書6章34~40節
 園庭の池にたくさんのオタマジャクシが泳いでいます。水が減ってきたので足してあげようとしたとき、溢れた水からオタマジャクシが出て行ってしまいました。出ていく彼らを見ているとなんとも緩慢な泳ぎで、どうしてもっと速く泳がないんだとブツブツ文句を言いながら、外に出たオタマジャクシを一匹残らず池の中に戻してあげました。
 その作業をしているとき、天の神様のことを思いました。我々はいとも簡単に神の命の中からはみ出してしまいます。愛をなくし、信仰をなくし、自ら罪の中に生き、命すら失っていく。人間の虚しい罪の営みは、自らを神の世界から死の世界へと追いやっています。
 そんなとき神様はどうなさったでしょうか。エゼキエル書22章にはこうあります。「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった」。旧約時代、神様は町の壊れたところに立つ者を探したが、見つからなかったといいます。そして、新約の時代になり、神様は破れ口に立つ者を人間の中から探すのをやめ、御子イエス・キリストをお立てになったのです。
 わたしはあのとき、手であわてて破れ口をふさごうとしましたが、オタマジャクシが外に出て行ってしまいました。しかしキリストの網は完全です。それはキリストが十字架にて完全なる贖いを遂げてくださったからです。キリストは自らの命を犠牲にし、すべての罪人を一人残らず滅びの中から買い戻してくださったのです。これ以上に完全な網はありません。
 先ほど読みましたのはヨハネ6章34節から40節のところです。新しい時代、キリストを通して命のパンが与えられると主は言われます。キリストを命のパンとして内面化する者は、飢えることがなく、渇くこともない。そういわれます。一方、この個所で目に付くのが、36節の「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」という我々の不完全性です。罪を抱えながら、こうして生きている。それが我々の一つの現実です。
しかし同時に読まなければいけないのが37節、39節の「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させる」というところです。キリストは不完全な罪人であっても決して追い出されることはない。一人残らずそれらの者を買い戻してくださり、天の御国へと救い挙げてくださるのです。
 ここで考えるべきことは、わたしたちはいつまで緩慢な泳ぎ方をしていていいのか、ということです。鈍いわたしたちは、自分が救いの外に出ようとしていることも、そこから連れ戻されていることにも鈍感です。そうではなく、神様の愛に対して敏感になりたいと思うのです。神様に愛されて、いまのわたしがいる。神様の救いによって、いまわたしは生きている。破れ口に、キリストが今も立ち、滅びの中に出ていくわたしたちを引き留めてくださっていることを、忘れてはならないのです。ですから、いつまでも緩慢な泳ぎで、無方向的にこの世を生きるのではなく、はっきりと方向性をもってこの世を泳いでいきたい。命あるほうへ、神様に向かって進みゆきたいと思います。(2019年5月12日礼拝説教要旨)

     

魚の香りのする中に 2019年5月5日


ルカによる福音書24章36~49節
 エマオの出来事の後、復活の主は別の弟子たちのところに顕現され、こう言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。弟子たちは、エマオから帰ってきた二人の証言を聞いても、主イエスの復活を信じられなかったのです。そのとき主イエスは「何か食べ物があるか」と言われました。弟子たちが焼き魚をもってくると、主イエスはそれを食されました。それは、十字架前の主イエスと同じ姿であり、キリストが死から蘇えられたことを知らしめる出来事でした。
 光に包まれて復活なさった神の御子が、焼いた魚をお食べになるという、大変印象に残る箇所です。ですから、いつもここを読むときには、焼いた魚をどのように召し上がったのかな、他の弟子たちはどんな風にそれを見ていたのかな、といろんなことを想像してしまいます。なかでも、わたしがとても気になってしまうのが、そこは焼き魚のにおいで一杯だったんじゃないかな、ということです。
 わたしは瀬戸内の小さな町で育ちました。港も近くて魚も安いです。父親が魚好きだったこともあり、いつも食卓にはカレイやサンマ、アジ、サバなどのお魚が並びました。家じゅうお魚の匂いがするのです。主イエスは、人が魚を食べる場所に、そのような生活の匂いのする場に復活なさったのです。弟子たちにとっては伝道が生活となりました。わたしたちの場合は(伝道も大事ですが)、伝道を含めて、人が食べている場所、生活する場にキリストが来てくださる、ということだと思います。主イエスの命が生活の隅々まで充満するということです。
 先日納骨式をいたしました姉妹の日記をご紹介します。「主よ、お聞き下さい。時間がないのです。ですから急いで祈らなければなりません。下の子達のピアノ、プール、塾のお迎えにも行かなければなりません。それに夕食の下準備も必要です。洗濯物をたたんだり、アイロンのかごはあふれています。こんなゴタゴタした仕事にすぐかかれる様に急いで祈らなければなりません。ですから聞いてください。主よ、私は良い主婦 良い母親でありたいと思います。その為には、ただやるべき仕事のリストをこなしていくよりずっと大切なことがあるのを忘れていました。あなたと共にいる、このしばらくの間こそ山と積まれたアイロンがけよりずっと大切なことなのです。主よ、静けさのうちにあなたと共にいるこの時、主よお語り下さい。」
 子育てで忙しい主婦としての生活の真っただ中、由紀さんは神と交わることや祈りの大切さに気付かれました。食事の準備をしたり、洗濯物をたたんだり、アイロンをかけたり、日常のありふれた風景のなかにこそ、復活の主がおられることを知ったのです。だから子育てで忙しくても、病と向き合わなければならなくても、確かな平安がそこにありました。
 わたしたちは日曜日、復活の主との出会いを求めて教会に出かけていきます。しかし本来的な意味では教会も、魚の匂いがする家庭も、どちらも主が生々しくご臨在される場所なのです。家庭でも教会でも、復活の主がともにいてくださることを忘れず、感謝をもって過ごしたいと思います。(2019年5月5日礼拝説教要旨)

     

命のパンの恵み 2019年4月28日


ルカによる福音書24章13~35節
 福音書における復活後の記事はいくつもありますが、共通していることは、主の復活を疑い、不信仰に陥っていた者が信仰を取り戻す、という構図です。今日の話もそうです。二人の弟子がエマオという場所に向かって歩いていました。彼らがなぜエマオに向かっていたか、聖書は何も書いていません。ただこの日は、まだ主の十字架があってから三日目のことであり、もしかするとユダヤ教当局から逃げるためにエマオに向かっていたのかもしれません。
 そのとき、復活の主が彼らのところに顕現なさり、一緒に歩き始められました。不思議なことに彼らは目が遮られており、その人が主イエスだとは気付かなかった、といいます。しかしキリストは、そんな不信仰な二人から離れず、ずっと一緒に歩いてくださるのです。
 主は二人に対し「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たちよ、メシアはそのような苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」といわれ、旧約の歴史はキリストを証ししていることを説教なさいました。それを聞いてもまだ二人の弟子は目が閉ざされており、そばにおられる救い主について理解することができないままでした。
 一行はエマオ村に着きました。彼らと主イエスは宿泊する家に入りました。夕食になって、彼らは主イエスからパンを手渡されました。そのときです。二人の目が開かれ、そこに復活の主イエスが座っておられることを知ったのです。
 新約聖書において、パンというのは非常に象徴的です。キリストは最後の晩餐のとき、パンを割いて一人一人に手渡され、これは私の体である、といわれました。今日の二人の弟子は、きっとそのときのことを思い出したのでしょう。十字架の前、命のパンだと言って渡してくださったパンが、今再びここにある。これを食べて、もう一度立ち上がろう。彼らはそう思ったに違いありません。
 二人はパンを通して復活の命を受け、霊的によみがえりました。そのとき、彼らはどうしたでしょうか。33節「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」とあります。逃げるようにしてせっかくエマオに来たのに、またすぐにエルサレムに戻ったのです。それは復活の主と出会った喜びを、他の弟子たちに告げるためでした。パンを渡される前と後では、彼らは全く違う存在です。不信仰なものが信仰者へと変えられていったのです。十字架という、エルサレムでのおぞましい記憶から逃げるようにしてエマオ村にやってきた二人でしたが、まさしく彼らは命のパンを受けて、復活したのです。
 主の割かれた命のパンといえば、聖餐式のパンを真っ先に思い浮かべますが、説教(御言葉)もそのようにいわれることがあります。説教も我々を生かす命のパンです。聖餐と説教。この二つはプロテスタント教会において、死せる命を生かす恵みとして重んじられてきました。どんな者でも、説教と聖餐において復活する、息を吹き返すのです。これからも、わたしたちは御言葉と聖餐を受けるごとに、心燃えて、主の福音を証ししていきたいと思うのです。(2019年4月28日礼拝説教要旨)

 

御言葉を思い出す 2019年4月21日 イースター礼拝


ルカによる福音書24章1~12節
 イースターおめでとうございます。神であり、人でもあられる主イエスは、我々と同じ苦しみ、痛み、そして死さえも負ってくださいました。それが十字架の出来事でした。その三日後、復活があったのです。キリストは人の苦しみや痛み、死だけでなく、復活の命も共有してくださるのです。一つの事実として「肉体の死」という時点をもってわたしたちの地上の命は終わります。ある意味ではそこで、わたしたちの苦しみも、痛みも、絶望もそこで終わるのです。その先に、神の国で豊かに与えられる永遠の平安と恵みがあるのだということを、復活という出来事が伝えています。
 具体的に聖書を見てまいりましょう。婦人たちは日曜日の朝早く、お墓に向かっていました。手には香油を持っていました。埋葬された主のご遺体に塗るためのもので、少しでも腐敗を遅らせたり、腐敗臭を抑えるなどの効果があったようです。しかしその香油は必要ありませんでした。お墓についてみると、中は空っぽだったからです。彼女たちは途方に暮れていました。この「途方に暮れる」は、原意が「道がない状態」でありまして、どうしていいかわからない様子を表します。しかし、考えてみれば不思議です。彼女たちは、せっかく主イエスの復活の現場に立ち会っているというのに、なぜ途方に暮れる必要があるのでしょうか。喜ぶべき状況であるにもかかわらず、なぜ途方に暮れてしまったのでしょうか。
 それは5節の天使の言葉に表れています。天使は婦人たちにこう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。彼女たちは、空の墓を目撃しても、未だ主を死んだ者として見ていたのです。死が人の終着点であって、誰もそれを覆すことができないと信じているのです。まさに道がない状態です。そのような、死の中にキリストを固定化しようとする彼女たちに対し、主は復活なさったと天使が告げています。さらに天使の言葉は続きます。「まだ、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」。道を失い途方に暮れていた婦人たちに対し、天使が強く促したのは「御言葉を思い出しなさい」ということでした。
 わたしたちが不安を覚える時こそ、思い出さなければならないのは主の御言葉です。たとえばそれは「あなたは今日楽園にいる」という御言葉であるし、「悲しむ人々は幸いである」「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」「手を伸ばしなさい」などの御言葉です。たとえわたしたちが罪を犯し、苦難の中に生き、この世から失われた存在だったとしても、神はお見捨てにならない。主の御言葉が、もう一度わたしたちに生きるべき道を与えるのです。
 お墓にいた婦人たちは、天使らの促しにより、主の御言葉を思い出しました。主のご受難、十字架、そして復活が、神により定められた救いの出来事であったということを、主の御言葉において受け入れることができたのです。人の死が命の終着点であり、そこへ行き着いたらもうそこから出られない、というまさに道を失った状態から救われたのです。わたしたちも復活された主において完全なものとされ、希望をもって主の道を歩んでまいりたいと思います。(2019年4月21日イースター礼拝説教要旨)

 

闇の時 2019年4月14日


ルカによる福音書22章47〜53節
 いよいよ棕櫚の主日となりました。棕櫚の主日とは、主イエスがエルサレムに入城される際、群衆たちが棕櫚の枝を振って迎えた、という記事にちなんでいます。今日の話はそこから少し進んだところです。47節にはこうありました。「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って・・・」とあります。裏切り者のユダが登場します。わたしたちはここを読み、どこかでユダほどの罪を犯していないと安心していますが、本当にそうでしょうか。彼の姿は、自らの罪に気づかないまま主の御前に立ってしまうわたしたちのそれではないでしょうか。
 ユダの後に続いてやってきたのが、群衆です。彼らは一週間前に棕櫚の枝を振って主を迎えたばかりです。しかし主イエスがローマ帝国を打ち破る政治的なカリスマではないとわかった途端、手のひらを反すように主イエス殺害に加担するのです。わたしたちはまたも、これらの人々ほど悪いことはしていない、と安心します。そうでしょうか。わたしたちは自分の願いや祈りに対して神様が思い通りに働いてくださらないと、手のひらを返すように不信感を持つことがあります。ときにわたしたちは、まるで何でもいうことを聞いてくれる「機械仕掛けの神」を求めてしまうのです。でもそれは間違った信仰だと今日の群衆たちが教えています。
 最後に登場するのが、祭司長、長老たちでした。彼らはユダヤ教の指導者であり、この逮捕や十字架事件の首謀者でした。人々を操り、自らの手を汚さないように狡猾に立ち回りました。彼らは律法主義に陥り、自己中心的になり、人々を凝り固まった世界に閉じ込めていました。
 そしてわたしたちは思うのです。わたしたちは彼らほど凝り固まっていない。、もっと広い心を持っている。そうでしょうか。まじめでみんなの模範となるようなクリスチャンが、教会の中で人を裁き、見下げていた事例を、わたしはいくつも見てきました。そんなことで信仰と呼べますか、それがクリスチャンですか、とまるで印籠のように自分の信仰を振りかざす。そういう教会内律法主義を数えきれないほど経験してきました。
 それらのことは「闇」だと主イエスは言われます。光がないのです。希望がないのです。裏切り者のユダも、心変わりしてしまった群衆たちも、自分勝手な祭司長たちも、闇の中にあると主は言われるのです。
 ではこの闇から、誰が救い出してくださるのか。誰が闇から光へと時代を変えてくださるのか。それはキリスト以外にはありません。すべての罪を赦し、心に悔い改めを与え、間違っていたところから本来あるべきところへとその人を連れ戻してくださるのは、キリスト以外にはないのです。
 今の日本や世界の政治を見ていますと、何が正しいのかわからなくなってきます。わたしからすると、おかしなことをするものだ、という政治家に票が入ったりします。愛からかけ離れた政策と思うことが人々に支持されたりします。このような暗い時代だからこそ、わたしたちは聖書を通して、真の光を見なければいけないのです。次週のイースター礼拝にて、その光を見たいと思います。(2019年4月14日礼拝説教要旨)

世に棄てられた神 2019年4月7日


ルカによる福音書20章9~19節
 主は「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」という譬えを話されました。神様はファリサイ派たちを選ばれ、一時この世をお任せになりましたが、彼らは期待通りの働きをしていないと主は言われます。
 収穫のため、農園主は三度僕を農園に送りましたが、三度とも袋叩きにされて送り返されました。今度は自分の息子を送ります。息子ならば敬ってくれるだろうという期待があったからです。しかし息子はもっとひどい仕打ちを受けました。農夫たちに殺されてしまうのです。説明する必要はないかと思いますが、息子は主イエスのことです。主イエスはやがて自分が農夫たち、つまりファリサイ派や祭司たちに殺されてしまうことを予告され、その通りに主イエスは死を迎えられます。神の子がこの世に棄てられた、という出来事です。なんと恐ろしいことでしょうか。なんと申し訳ないことでしょうか。しかも、この農夫たちの「それがどうした」というような、事態の重大さに全く気が付いていない無神経さにも驚かされます。
 主イエスは、そのあとの農園主が農夫たちを裁かれる、ということもお話になりました。しかしわたしは、この話の最大の主張点がキリスト殺害の罪の告発ではないと思います。あの事件は、ファリサイ派や祭司たちに限らず、ローマ兵、一般市民、そしてある意味では弟子たちも加担しています。ピラトもそうです。従って、福音書全体から見れば、主を十字架に追いやったのは、特定の誰かではなく、この世のすべての罪びとなのだ、ということです。わたしたちもキリストを十字架に貼り付けにした犯人です。わたしたちが罪びとでなければ、主は十字架にかかられる必要はなかったのです。
 にもかかわらず、わたしたちは裁かれずこうして生きています。ではいつか裁かれるのでしょうか。それなら十字架の意味がなくなります。わたしたちは神に背き、罪を犯すものであるにもかかわらず、救いを与えられているのです。
 ここで17節の御言葉「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった」を見ましょう。隅の親石というのは、家を建てるときの角に据えられる礎石のことで、強い力が加わるために、大きなしっかりした石が据えられます。すなわち、この世は主イエスが神の子であることに気づかず「こんなものいらない」といって捨ててしまったが、神様はそんな世をお赦しになり、キリストを土台として新しい時代を築いてくださったというのです。
 ですから、それぞれキリストを土台として、しっかりと自分の人生を組み立てていきたいと思うのです。救いの感謝の中で、キリストが中心の良い人生を送りたいのです。キリストという土台がある限り、多少の雨風が吹いてもわたしたちの人生が倒壊することはありません。キリストにしっかりと根を下ろし、どんなときにもキリストに依り頼み、実りある人生を歩んでまいりたいと思います。
(2019年4月7日礼拝説教要旨)





 


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